1日目ー涼と父
十数年前、母と離婚して家を出て行った父親が、突然会いたいと言ってきた。
昨日のことだ。
父親と言っても記憶はあまりないし、別れたっきり会ってもいない。
それでも十分、色んな事が楽しかったし、寂しいと感じたことはない。
父親とは必要なものなのかと思っていたくらいだ。
俺にとっては父親という名前だけの人間。
それもピンとこない存在。
母からも連絡していないようだったから、本当にいきなりだった。
会ってみることにしたのは、何も懐かしさや父恋しさの為ではない。
単純に父親というのがどんなものか知りたかったのだ。
父親も成長した息子の姿を見たいのか。
今更だと思ったが、むしろ今までは会わないようにしていたのだろう。
そう考えると、そんな父でもこみ上げるものがあった。
だが、そんな思いはあっと言う間に消え去る事となった。
待ち合わせ場所のチェーン店の喫茶店で先に来たのは俺の方だった。
それから程なくして父親はやってきた。
水を持ってきた店員に、父親は日替わりのアイスとソーダフロートを注文する。
俺はいらないと答える。
一つの存在が完全に俺の気を削いでいた。
「この子に感情を与えてくれ。」
そして、久しぶりの息子に挨拶もそこそこに切り出した会話がこれだった。
会った時から気になっていたのだが、父の連れていた、四、五歳くらいの子。その子を目の前に引っ張り出してそう言ったのだ。
「何の、え、何?」
いきなり何を言い出すのか。
店員がアイスとジュースを持ってきてテーブルに置く。
ジュースは女の子に、アイスは意外にも父親に。
店員が遠くに行ってから、話の続きが出た。
「あー、まあ、混乱するだろうが、」
先程はさも当然のように言ったが、すぐに自分の発言の違和感に擁護を付け加えた。
女の子は目の前のソーダフロートに夢中だ。
何が楽しいのか、物珍しげにストローでソーダの上のアイスをつついている。
「その子、誰。」
聞きたいことはたくさんあるが、まずはそこが知りたかった。
父親の子にしては、似ていない。
似ていないどころか、金髪に目は緑、肌は白い。
完全な外人というわけではなさそうで、ハーフくらいのようだった。
正直違和感でいっぱいだった。
「嫁の連れ子だ。」
返ってきたのは以外な答えだった。
「…再婚、してたの。」
間抜けな返事だった。
「四年前死んじまったがなあ。新婚だったのに。まあつまりお前の妹だな。」
いやいや、父親の実の子じゃないんだろう?
嫁の連れ子と父親の息子。
「血繋がってないじゃん。」
要点だけをかいつまんだような言い方で、さり気なく曖昧な関係を隠そうとしたのを指摘する。
「いやー…、母さん元気か?」父は誤魔化すようにこめかみを掻いて、話を逸らす。
「あんたのせいで病院だよ。」
「…そうか。」
もっと悪い方に話は進む。
それきり口を閉じて、水に手を伸ばした。
まだ手のつけられていない、安物のベリーアイスは溶けて柔らかくなり、スプーンが滑って上に落ちる。
だがまだ中は溶けていないようで、スプーンは表面にめり込んでいるだけだ。
父は口下手な方のようだったが、なんとか息子との会話を育もうとしているらしい。
それが真に感じられて、少し父に情がわく。
「感情どうたらって何だよ。」
助け舟を出すつもりで、また、黙り込んで気まずくなりそうだったので話題を変える。「いや、ただ遊んでやるだけで良いんだ。勉強を教えたり、遊園地へ連れて行ったり。」
最初は回りくどくというか、、哲学的というか、分かりにくい言葉だったが、具体的に言われると何のことはない。
ただの子守のようだった。
だけど何でそのくらいしてやらないんだ。
無責任さを感じて、少しいらっとした。
こいつは自分を捨てた父親なのだ。
やっぱり父親は最低だ。
「それは親のあんたの仕事じゃねえのか。」
「仕事が忙しくてなあ。バイト代は払うから。」
そんなの言い訳だ。
「あのさあ」
断るつもりで切り出した。
「何で俺な訳?会うのも十…、ええと、」
「十二年になるか。」父はサラリと言った。
俺は覚えていなかった。
もしかして、気に掛けてくれていたのか。
でなければ数えないだろう?
こんな長い間ずっと。
そう思って心が揺れる。
自分の中の善悪が分からなくなる。
「そんな長い間会わなくて、久しぶりの再開に、ベビーシッターのお願いかよ。」
気を紛らわすために軽口をたたく。
「お前しか心当たりが無くてなあ」
それをとがめもせず、父は相変わらず間延びした調子で答えた。
「死んだ妻は元々天涯孤独でなあ。俺の方もお前ら以外みんないなくなっちゃって。残された数少ない家族なんだ。俺たちは」そんなの、軽いことみたいに言うなよ。
父の目線が半分溶けたアイスから窓のブラインドの隙間へ移る。
俺は何も言葉を返せない。
話は続けられる。
「普通の父親らしいことはあまりしてやれなくてな。こいつにも、普通の子みたいな幸せを味わって欲しいのさ。」
それには、隠されていた奥底の、人間が見えた気がした。
飲まれることのない半透明のソーダを見つめる少女に向けられた優しい目が、羨ましいと思った。
「…分かった。引き受けるよ。」
何となく、そんな気になった。
父との繋がりを持ちたくなったのかもしれない。
「おお、本当か。よかったなあ。」俺に、女の子に微笑んで、その小さな頭の髪を撫でた。
「ああ、もう仕事に戻らなくちゃ。」
時計を見て、父は言った。
「今度母さん見舞いに行こう。どの病院だ?」
胸元から手帳を取り出す。
「南の精神科。」
「…精神病院か。そうか。行かない方が良いみたいだな。」
うん。
あんたは多分、会えないよ。
思ったけど、言わなかった。
「お前代わりに、行ってくれな。」
彼は沈黙を肯定に受け取った。
「分かった。伝えるよ。」
口だけだが、答えておく。
-ー母さんの世界では、俺はまだ彼女の腹の中にいるんだよ。
「よろしくな。」去り際に父がぽん、と軽く俺の頭を叩いた。
父さん。
もう少しで出そうだった。
言えなかった。
涙が出るかと思った。
もうアイスなんてとっくに溶けて、色が混ざっていた。
「ああ。」
ため息が出る。
「名前、分かんないや。」
そうして残された俺と、我関せずの少女。