第九話 吟麗
OP 「キャンドルの灯を/9mm Parabellum Bullet」
レニとグラをあの村から連れ出して二日、そしてウバの村を目指して二十六日目。
遂に俺たちはウバの村を目前とした森の前に辿り着いた。
「ほ、本当にこの先にあるのか……?」
俺たちの眼前には濃霧で一寸先すらも見えないような森の入り口があった。
「ギーネから貰った地図にはここを通ると書いてあるな」
「本当か?どれどれ……」
俺は団長様が手に持った紙切れのような地図を覗き込んだ。
そこには今まで通過した村の所在と特徴が簡単な図と文字によって記載されていた。
そして確かにウバの村を目前とした森の図のところに「濃霧で覆われている」との記載がある。
「確かに書かれているな……」
ということはこの視界最悪の道を魔獣に怯えながら通過しなければならないという事になる。
「ここ、怖い…」
レニもこの視界の悪さに怯えているのか、そう言って俺の右手をギュッと握った。
グラの方はというと、通らねばならぬというのであれば行くしかないと言わんばかりに堂々とした態度であった。
「レニ、大丈夫」
そう言うとグラはレニの空いている右手を左手で握りこんだ。
「そうだな、一緒に行けば怖く無い」
団長様もそれに続いてグラの空いた右手を握りこむ。
それを見たレニの目からは恐怖心が少し薄れたのが分かった。
「それじゃあ、行くか」
俺たち四人は手を繋いでお互いにはぐれない様に濃霧の中へと進んだ。
だがただ一つだけ、俺には気になることがあった。
それは先ほどのギーネの書いた地図。
そこにあったこの森の記載に「濃霧で覆われている」ともう一つ、気になる記載があった。
それは「過去受け入れろ」だ。
「濃霧で覆われている」という見た目上の記載は分かる。
初めてその場所を通る者にとっては一目で特徴が分かる情報が一番重要だからな。
だが「過去を受け入れろ」というのはどういう意味なのだろうか?
この森の特徴でも無ければ、濃霧を進む上での注意事項ですら無いではないか。
(嫌な感じがするな……)
俺はそう思いながら繋がれたレニの手を強く握った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
濃霧の中に入ってしばらく、俺たちは特に変化の無い道をひたすら進んでいた。
「魔獣が出るとは聞いていたが、今のところ全く出会わないな。本当にこの道で合っているのか……?」
「そうだな。それよりも妙なことがもう一つある」
「妙なこと……?」
団長様の顔からは何か危険に遭遇した様な表情が見られた。
あれは警戒心を強めている証拠だ。
ということは何か俺たちに不都合な事象が見られるということだ。
「この森一帯、いやこの森がどこまで広がっているのかは分からないが。少なくともこの霧の中を歩き始めてから魔力探知が全く機能しないのだ」
「何?どういうことだ?」
魔力探知が機能しない、とは?
魔力探知を発動できないという事であろうか?
一部の魔法の発動を制限する魔法というのは確かに存在するが、まさかこの霧をはじめとした森全体にそれがかけられているというのか?
だとすれば相当な魔力の消費になるはず。
並みの人間では到底無理だ。
それこそ加護や呪いの類を所持していないと出来ない所業である。
もしくは相当な量の魔結晶をつぎ込んで魔力探知を封じる魔法陣を起動させ続けているかだ。
だとしたらそれは国家規模の組織の仕業になるだろう。
少なくとも団長様の魔力量で発動される魔力探知の範囲を丸々封じることができる魔法陣を起動させ続けるとなれば、国家予算規模の魔結晶が必要になるはず。
つまりこの先に何か情報を隠しておきたい大規模組織が待ち構えている可能性がある。
これは団長様が警戒した表情になるのも分かるな。
「魔力探知が機能しないというのは、発動ができないという事か?」
「いや、発動自体は出来る。だが魔力探知に何もかもが引っかからないのだ。今目に見えている三人を始め、この森に広がっているはずの木々の反応すらない。まるで、何かに魔力探知を邪魔されているようだ……」
これを聞いてさらに訳が分からなくなってしまった。
目の前に居る俺たちですら魔力探知で判別できないだと?
そんなことがあるのか?
いや、実際にその事象が目の前で起きてはいるのだが。
「まるで、この霧自体が邪魔しているようだ……」
そう呟いた団長様は訝しげに霧の先を見つめた。
そもそもこの霧は何処から来ているのだろうか?
本来、霧というものは気候現象によって発生するものだ。
だがこの森の霧は明らかに自然発生したものでは無い。
例え自然発生したとしても何かしらの異常によって発生しているはずだ。
この濃度と範囲は人工的に発生していると見てまず間違い無い。
となると先ほどの魔法陣の話になるが、誰が・なぜ・どのようにしてこの霧を発生させているのかという話になる。
残念ながら今の俺たちにはそれを判断する材料は無い。
となると出来ることは一つ。
「とりあえず進むしか無い様だな……」
団長様もそれに頷き、俺たちは濃霧のその先を見つめた。
レニとグラにも不安の表情が強く見られる。
俺たち一行は明らかにこの道を進むことに躊躇いを感じていた。
単純に分からないことが多すぎる。
ここまで情報が無いとなると、一体どれほどの不確定要素に対応しなければいけないのか……。
果たして幼い子供二人を連れて無事に辿り着くことができるのか、ここに来てかなり怪しくなってきたな。
そうして足踏みしている俺たちを嘲笑うかの様に突然、突風が吹き荒れた。
——————————ビュオオオオ!——————————
「な、なんだ!?」
その風は道の先にある霧をさらに押し出し、より一層霧の濃度を上げていく。
(まずい……!このままじゃ本当に何も見えなくなってしまう…!)
さらにこの風速。
一瞬でも気を抜いたら体が持って行かれそうになる。
少なくともこの状況ではぐれるのが一番まずい。
「団長様!防御魔法を!」
俺の声を聞いた団長様はすぐにその意図を理解したようで、右の掌を突風の吹き付ける方へと翳して防御魔法の壁を作り出した。
——————————ヒュウウゥゥゥ……——————————
団長様の防御魔法はすぐさま風を遮り一時的な安置を作り出すことに成功した。
「霧に風まで……、一体何なんだこの森は……!」
「分からない、だが一つ分かることはこの森は私たちの想像を大きく超える何かがあるという事だけだ」
そう答えた団長様の表情はやけに深刻そうだ。
いや、深刻そうというよりも辛そうというか……。
「ぐぅ………!三人とも……!私の背中に隠れろ!」
団長様は急に声を荒げた。
なんだ、一体どうしたというのだ。
次はどんな障害を察知したというのだ。
その瞬間、団長様が張っていた防御魔法が突風に押され砕け散った。
「ぐあ!」
そして再び突風が俺たちを襲い始める。
「団長様!一体どうしたんだ!?」
「分からない!だがあの風に触れると防御魔法が維持できない!」
なんだと、それではまるでラードと同じ……。
「あっ」
その時、レニとグラを繋いでいた手が離れてしまった。
「!?、レニ!」
グラはすぐに空いた左手を伸ばす。
だが突風のせいでもはや俺たちは一歩も動けなくなっていた。
「グ、グラぁ!」
レニは精一杯力を振り絞ってグラへと近づこうとするが風に阻まれ体が言う事を聞かない様だ。
(ダメだ……!このままじゃ、はぐれる……!)
俺は力を振り絞って団長様とグラの方へと足を一歩踏み出した。
それを見た二人もこちらを向かい入れるようにどうにか足を踏み出して歩み寄って来る。
(大丈夫だ、行ける……!まだなんとかなる……!)
さっきは力の弱いレニとグラの手を繋がせていたのが問題だった。
そのせいで突風により手が離れてしまったのだ。
だから今度は俺と団長様の手を繋ぐ。
俺は団長様と目を合わせた。
それを見て団長様も着実に俺たちの方へと体を近づける。
行ける、あと少し、もう少し。
もう少しで届く。
俺と団長様が手を伸ばしたその時。
——————————ビュオオオオ!——————————
さらに大量の霧が風と共に俺たちを分断した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「な、なんだここは?」
気が付くとそこは屋敷の一室のような場所であった。
天蓋付きの広いベッドと大きな窓。
部屋の所々に豪華な装飾が見られた。
「え、ここどこ?」
俺の右手から幼い声がする。
どうやら手を繋いでいたレニもそのまま同じ空間に飛ばされた様であった。
俺はハッとして団長様とグラの姿を探す。
だがこの部屋のどこにも二人の姿は見当たらない。
となると二人はまた別の場所に飛ばされたのか。
いや、そもそも飛ばされたのかどうかすらも定かでは無いな。
もしかすると転移したのではなく、魔法で幻覚を見ている可能性も無くはない。
そうなってくるとこれは非常に危険だ。
どのような状態で幻覚を見ているか分からないが、もしここが俺の精神世界だとするのであれば本体は気絶状態ということになる。
その間に無防備な身体を狙われでもしたら一溜まりも無い。
だがそれだと俺の精神世界に干渉しているレニの説明がつかない。
複数の人間の意識を一つの精神世界に混在させることが果たして可能なのだろうか?
俺は幻覚魔法に対しての知識はそこまで無いため、正直どうやってこの状況が作り出されているのか全く分からない。
だがもしそれが可能なのであればかなり高度な技術に思える。
そしてあれだけの範囲で団長様の探知魔法を邪魔できる組織であれば、それもまた可能な気もする。
とりあえずこのレニが本物のレニの精神なのか、それとも幻覚によって生み出された人格なのか判断をしたい。
少なくとも受け答えがしっかりと出来ていればこの先の行動がしやすくなる。
「なあ、レニ。ここに来るまでの事、何か覚えているか?」
その言葉を聞いたレニは少し考えてから言葉を発した。
「風が強くって、それでグラの手を離しちゃって、そしたら霧で何も見えなくなって、気づいたら……」
どうやらこのレニも俺と同じような経緯でここに辿り着いたと記憶しているようだ。
この質問だけではこの本物のレニの精神なのか、それとも俺の精神が創り出した虚像なのかを完全に判断することは出来ない。
だが一先ずこのレニを信用して行動しても問題なさそうだ。
「分かった、それじゃあ今度は俺と絶対にはぐれるなよ」
俺はレニの顔を見つめてそう言った。
レニも俺と確かに目を合わせ「うん」とだけ答えた。
グラとはぐれてしまったというのに強い顔をするようになったな。
恐らくグラも同じ状況かもしれないことを理解しているのだ。
であれば自分だけ弱音を吐くことは出来ないと考えているのかもしれない。
「よし、いい子だ」
俺はレニの頭を撫でてやった。
さてと、そしたらまずはこの世界の事を知らなければな。
もしかするとここから元の場所に戻る手がかりがあるかもしれない。
俺たちは一旦この広い部屋を見回した。
ベッドがあることからここは恐らく寝室だ。
しかもそれなりに地位のある人間の。
これだけでそれが誰なのかは特定できないが、貴族以上の身分か大金持ちが主だと考えて良さそうだ。
とりあえずこの部屋だけではなにも判断できない。
まずは外に出てみよう。
そう考えたその瞬間、部屋のドアが静かに開いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「メニス、大丈夫か?」
「ええ、問題無いわ。ありがとう」
部屋のドアが開き、中に入ってきたのは一組の夫婦と思われる男女であった。
女の方は腹部が目に見えて大きくなっており、妊娠しているのが分かる。
「……もうそろそろだな」
「ええ、早く会いたいわ、私たちの大事な赤ちゃん……」
どうやら出産予定日が間近に迫っているようだ。
口ぶりからしても二人にとって待望の子なのだろう。
俺自身は親になりたいと思ったことはまだ無いが、新しい生命が生まれるという事は美しいことだと感じる。
性別の違う個体同士が交わり子を宿す。
これだけ聞けば大昔から繰り返された普遍的なこの世の理のように聞こえるが、その実一つ一つの出産というものは奇跡の連続だ。
この広い世界で惹かれ合った男女が次の世代へと命を繋ぐ。
過去の者が新しい者に次の時代を託すことで人間というものはここまで進化を遂げてきた。
いや、人間だけではない。
生物全てがそうなのだ。
そしてその一旦を自分も担うことになると考えれば、親になるという選択は素晴らしいことだと思う。
もちろん親になれば偉いと言うつもりは更々無いが、それでも人生において確実に大きな影響を与える選択をした彼らを俺は尊敬する。
俺はとてもじゃないが今はそのような選択を考えることができない。
もしかしたらそれは俺がまだまだ未熟な証拠なのかもしれない。
だが来たる時が来ればそのような選択を取ってみたいとは感じる。
………いや、このような覚悟で親になるべきではないな。
命一つを預かる身になるのだ、生半可な覚悟は良くない。
やはりまだまだ親にはなれそうもないな。
そう考えている俺は今どこでこの会話を聞いているかと言うと、あの天蓋付きのベッドと床の隙間に体を忍ばせているところだ。
そしてレニも同じく隣で静かに息を殺している。
いやー、中々に焦った。
扉が開く音が聞こえた瞬間、俺は咄嗟にレニの口を塞いでそのままベッドの下へと潜り込んだ。
ここまで地位がある人間であれば従者や私兵が居てもおかしくはない。
仮に俺たちが見つかって、大量に人でも呼ばれたら一溜まりも無いからな。
ここは一旦このままやり過ごそうでは無いか。
「そういえばあなた、明日から入団試験期間になるのよね?」
ベッドの淵に座って会話を交わす二人の足を眺めていると、何やら聞いたことのある言葉が聞こえてきた。
「ああ、そうだな。今年はどんな若い芽が入って来るのか、こちらも負けず劣らずの楽しみだよ」
それを聞いた夫人は「もう、一番はこの子であってよね?」と少しと不満げだ。
「ははは。すまんすまん。だがこの中から俺の後釜が生まれるかもしれないと思うとワクワクするのは本当なんだ」
そう言う男は笑って妻を宥める。
そういえばこの夫婦はどちらも貴族と同じ正装をしている。
男の方はシャツにウエストコート、足元にはふくらはぎを覆うようなトップブーツを履いている。
夫人の方は妊婦用に作られた腹部が膨らんだドレスに少し低めのハイヒールを着用している。
だが俺が目を惹かれたのはその色だ。
二人とも豪勢なデザインに反し、お互いに白を基調とした服装をしていた。
本来このような貴族の正装はデザインだけで無く色も派手な色合いが好まれることが多い。
もしも地味な色のドレスなど着て舞踏会など人前に出た日にはその場の貴族からの良い笑い者になってしまうだろう。
だがなぜかこの二人は純白で色合いなんて概念を完全に無視したような装いをしている。
この豪華な屋敷を用意できて、人前で純白の正装を着用することが出来る地位のある人間など俺は一人しか思いつかない。
「この白羅の騎士団団長の後釜がね」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「オギャア!オギャア!」
「………え?」
気づいた時には俺たちは床に這いつくばったままメニスと呼ばれる夫人の出産に立ち会っていた。
場所はどうやら医院の一室らしい。
三人の助産師と思われる女たちがメニスを囲い、そのうちの一人が産まれてきた赤子を取り上げてメニスに見せている。
「おめでとうございます……!元気な女の子ですよ……!」
「オギャア!オギャア!」
その姿を見たメニスは涙浮かべながらも、それが幸せの意だとすぐ分かるような笑顔を見せた。
「ああ!これが私たちの赤ちゃん!ありがとう…、産まれてきてくれてありがとう……!」
「メニス!よく頑張った…!本当によく頑張った……!」
この感動的な光景の横でうつ伏せに這いつくばったままの俺とレニは、言葉を交わさずとも自分たちの醜態がバカバカしくなり、お互いにスッとその場で立ち上がった。
どうやらこの状況で助産師すらも俺たちに気が付かないという事は、この世界の人間からは俺たちは認識されない様だ。
であればわざわざ無理して隠れる必要も無いな。
しかしメニスの横で泣き顔を見せるこの男、まさか白羅の騎士団団長だとはな。
今は俺たちの知っている団長様がその位に就いているため、この男が実在しているのであれば過去の団長ということになる。
つまりこれはこの男かメニス夫人の過去の記憶だ。
一体なぜ俺たちがこんなものを見せられているのかは分からないが、少なくともこの記憶にもいずれ終わりは来るはずだ。
現に記憶の中とは言え時間軸は妊娠から出産へと明らかに進んでいる。
つまりこの記憶の果てを見ればこの世界から脱出することができるかもしれない。
であればとりあえずはこの記憶の波に乗ってやろうでは無いか。
さて次は一体どんな記憶だ?
「よーしよし!今日も可愛いなあイノレアは!」
再び場面が変わり、そこには子供部屋で生まれた赤子をあやす男の姿があった。
どうやら赤子の名はイノレアというらしい。
「ほら、グランゼ。そろそろ家を出る時間よ」
「お、そうか。それじゃあお父さんは行ってくる。いい子にしてるんだぞ~」
メニス夫人が男を名前らしき名称で呼んだ。
この男はグランゼというらしい。
抱きかかえたイノレア嬢をグランゼはメニスに預け、そのまま子供部屋を出て行った。
どうやら騎士団の仕事へと向かった様だ。
「全く……本当に親バカなんだから……」
呆れたような顔をするメニスも、イノレアを見つめる表情は親バカのそれだ。
「おーよしよし、朝からお父さんがごめんね~!ゆっくりおねんねしてて良いですよ~!」
「あーあー」
………一体どの口が言っているのだろか?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「お母さん聞いて!今お腹蹴ったよ!」
「あら!本当ね!この子も早くお姉ちゃんに会いたいのねぇ」
さらに場面は変わり、そこには屋敷の広間で椅子に腰かけるメニス夫人とそれに寄り添う一人の少女が居た。
そして夫人の方はというと、どうやら二人目の子を身籠ったようだ。
ということはこの少女があのイノレアなのだろうか。
年齢はもう四歳か五歳くらいに見える。
綺麗な黒髪が肩まで伸び、白を基調とした服がその存在感を一層高めていた。
「私も早く会いたい!それでね、毎日いっぱいお話するの!」
「それはいいわねぇ!でもねぇ、お話できるようになるまでは少し時間がかかるかもしれないわね」
それを聞いたイノレアは「ええ!どのくらいかかるの!?」と残念そうに問いかける。
「そうねえ、イノレアといっぱいお喋りできるようになるのは三歳ぐらいかしら?」
「三歳!?私もう五歳だよ!?」
「焦らないの、ちょっとだけ待てばすぐお話できるようになるから」
イノレアは不服そうだが待つことしかできないのも事実。
不貞腐れてはいるが、しきりにメニスのお腹に耳を当てて新たな生命の音を確かに感じ取っている。
先ほどはグランゼとメニスがイノレアに会うのを待ち遠しにしていた印象が強かったが、今はイノレアの方が赤子に会いたがっているようにも見える。
よっぽど弟か妹が欲しい理由でもあるのだろうか。
そんな事を考えている内にまた場面は変わる。
「アル早く!ほらこっち!」
「待ってよ姉ちゃん!」
次は街の商店街が映された。
そこには男の子の手を引いて路地を駆け抜けていく女の子の姿があった。
女の子の方はイノレアだろう。
黒い髪がさらに伸び、風に靡く長い髪から疾走感が伝わってくる。
となると男の子の方は先ほどメニスが宿していた二人目の子供だろうか。
名をアルと言うらしい。
「お嬢様!お待ちください!まだ本日の講義は終わっていませんよ!」
そしてその後方からは眼鏡をかけたメイド姿の女性が長い裾の端を掴みながら二人の後を追って走っている。
だがその追走空しく、二人は大人の群れを掻き分けてあっという間に路地裏へと消えて行った。
「おいおい、またあの二人は屋敷を抜け出したのかい?」
「ハア…ハア…、ええそうなんです。全く、一体これで何度目なのか…これでは旦那様と奥様に面目が立ちません、ハア…ハア…」
そのメイドを見る大人たちはみんな笑い声を上げていた。
この女性はメイドとして仕えているのか、はたまた家庭教師として雇われているのかは分からないが、どうやらイノレアに勉学を教えているらしい。
だが街の人々のこの感じを見ると、イノレアがアルとその講義を抜け出したのは一回や二回じゃ無さそうだ。
その度にこの商店街に逃げ込むもんだから大人たちからすると名物客が今日もやって来たぐらいの感じなのだろう。
「全く子供二人でこんな所まで来て……何かあったらどうなさるおつもりですか……」
「安心しな、俺らが見つけたら早く家に帰るよう伝えとくからさ」
メイド姿の女性は子供二人で屋敷を出ることに心配している様子だ。
まぁ、見るからにまだ二人とも幼い。
この歳で外に出て絶対に何も起きないとは保証できないのも事実。
だがこの街の大人たちもまた、あの二人の成長を見守ってきた一員らしい。
何回も抜け出しているのに未だに二人が無事に屋敷に帰れているということは彼らの協力もあるのだろう。
「全く、皆さんはお嬢様とお坊ちゃまに甘すぎます!まあ、それは旦那様も同じですが………」
この調子だとグランゼの方もこの大人たちと同じ側のようだ。
白羅の騎士団団長という肩書を持ちながらも我が子の事は甘やかしているのだと思うと何とも笑けてくるな。
「ひっひっひ、ロコラーバさんが私に追いつけるわけ無いんだから、ねえアル!」
「うん、お姉ちゃん足速いもんね」
イノレアとアルは大人たちと会話するロコラーバと呼ばれる女性を馬鹿にして、その疲れ切った様子を路地裏からじっと覗き見していた。
「でもなんでお姉ちゃんいつもロコラーバさんから逃げるの?」
「なんでって、あのひとの授業がつまらないから」
「じゃあ学校行けば良いじゃん。友達のお兄ちゃんとかお姉ちゃんはみんな学校行ってるよ?」
「う、うるさい!いいのあんな所行かなくて!あんなの、頭の悪くて弱い奴しかいなんだから!」
イノレアが声を荒げたその瞬間であった。
「見つけましたよ」
「うああ!」
「あ」
イノレアとアルはロコラーバに首根っこを掴まれてしまった。
「全く……ほら!帰ってお勉強です!」
「やだやだやーだー!」
ロコラーバに確保されたイノレアはその手の中でじたばたと暴れ回るが、さすがに大人相手では力で勝てないのか、結局そのまま屋敷の方へと運ばれてしまった。
アルの方はというとただ単に姉に付き合わされていただけのようで、特に騒ぐ様子も無く姉と一緒にそのまま連れていかれた。
そしてそれを見た街の大人たちの笑い声が再び響く。
なんて平和なのだろうか。
それにしてもイノレアはあの歳で学校に通っていないのか。
アルがまだ未就学ということは五歳か六歳ぐらいだろう。
イノレアが丁度五歳ぐらいの時にアルが生まれたとするならば、イノレアの年齢は二桁に到達している。
本来その年頃であれば、ある程度経済力のある家庭は学校に通わせるのが普通だ。
それに白羅の騎士団団長の娘となれば名門の学校に通わせることも可能であろう。
だがそれはイノレア自身が拒否しているようだ。
その代わりとしてロコラーバが勉学を見ているのかもしれない。
あの年頃の子供は多感な時期ということで他人と関わるのが難しくなってくる頃だと良く耳にする。
イノレアにどんな事情があるかは知らないが恐らくグランゼもそのことを承知でロコラーバを雇っているのだろう。
だとするならば家族全体で今は無理に学校に行かせず家で様子を見るという方針なのだろうか。
屋敷に向けてイノレアとアルを引き摺るロコラーバの姿が遠ざかる。
それと同時にまたもや場面は変わる。
——————————コン、コン——————————
「旦那様、ロコラーバでございます」
「ん、入れ」
——————————ギイ——————————
「失礼いたします」
どうやらここはグランゼの書斎のようだ。
そしてその部屋に入って来るロコラーバ。
窓の外を見ると夜も更け漆黒の暗闇だけがそこに広がっていた。
「旦那様、またキャンドルの小さな灯でお手元を照らされているのですか?折角魔法があるのですからそちらを使えば部屋全体を明るく照らせますでしょうに…」
「良いのだロコラーバ、この方が落ち着く」
何か書類に目を通していたグランゼはそこにペンで署名を書くと、その書類を机の引き出しの中に仕舞った。
「普段は魔法と剣術にばかり向き合っているからな。こういう時ぐらいは魔法から解放されたい」
「白羅の騎士団団長ともあろうお方でもそのような事をお考えになるのですね」
「…………ああ、そうだな。極論、私たちの鍛錬は誰かを守るために誰かを傷つけることが目的だ。そして魔法はその道具に過ぎない。私が生まれてくる遥か昔に比べれば魔法は人間の生活に欠かせないものとなった。だがそれと同時に戦いにもそれ相応の技術革新が生まれた。恥ずかしながら、この家に居る時ぐらいはその呪縛から解放されたいと強く思ってしまう。それほどまでに私の手は血で汚れすぎてしまった、こんな灯でも安らげるほどにな。どうだろう?皆がこんな私を知れば笑うだろうか?」
グランゼがそこまで零すとロコラーバは声を強くしてそれに答えた。
「いえ、全くもってそんな事はございません。グランゼ様が誰よりも強く、そしてお優しいことなどこの街の住民。いえ、王都に住む人間であれば周知の事実でございます。なのであまり御自分を責めないでください。どれだけその手が血で汚れようとも、その気高いお心までもが汚れているなどわたくしは欠片も思っておりませぬ。だからどうか、今は心もお安めになってください」
それを聞いたグランゼは「そうだな」とだけ呟いた。
「そういえばこんな夜分に何の用だ?」
「ああ、そうでした。少しイノレア様の現状につきまして、わたくしからのご見解をお伝えしようと思いまして」
「おおそうか!ゆっくり聞かせて欲しい、座れ」
そういうとグランゼは広い机の椅子から立ち上がり、目の前にある客人用に向かい合ったソファにロコラーバを案内した。
そしてそのソファの片方に「失礼します」と座るロコラーバの反対にグランゼ自身も座った。
「で、イノレアはお前の目から見てどうなのだ?」
「はっきりと申します。お嬢様は正真正銘の才女でございます、それも常軌を逸していると言っても良いほどに」
ロコラーバはグランゼの目を見てはっきりとした口調で答えた。
そして「そうか…」と少し悲しそうな眼をするグランゼに追い打ちをかけるように話を続ける。
「わたくしがこの屋敷に来て数か月、イノレアお嬢様はわたくしが出した問や課題に躓くことは一切ございませんでした。それどころか講義中に隠れて読んでいた本の内容を確認しましたが、あれは齢十歳の子供が簡単に手を出せるようなものではございません。明らかに十六歳以上の学問の高みを目指す者が手に取るような学術本ばかりでございます」
ロコラーバは一呼吸置くと、もう一度強い口調ではっきりとグランゼに向けて言葉を発した。
「わたくしも長い間学問に携わってきましたが間違いございません。イノレアお嬢様には天賦の才が宿っていることは紛れもない事実でございましょう」
グランゼはそれだけ聞くと何かを思いつめたように話始めた。
「……九歳になった頃、イノレアが突如として学校に行きたくないと私に言ってきた。理由を聞いたところ学校の子供たちとでは話が合わないというのだ。しばらく様子を探っていると一つの事が分かった。それはイノレアの頭脳が同世代とあまりにも乖離している可能性があるというものだ」
「ええ、間違いないでしょう。それに加えて身体能力も恐らく平均値を遥かに超えております。お嬢様自身はなんの訓練もしていないにも関わらず」
「…………学校と言うものは、同じくらいの年齢の者たちと切磋琢磨し社会性を磨く場でもある。だがそれは裏を返せば異質な者は良くも悪くも目立ってしまうということだ。イノレア自身は幼いころから人見知りが激しくてな。それが起因してか妹か弟が欲しいと私たちに泣きついて来たぐらいだ。もちろんそのためだけにアルレアを産んだという事は断じてない。アルも私たち自身が強く望んで欲した子だ。イノレアのために利用するという気持ちは全くない。だが、今のイノレアを見ているとアルが居てくれて良かったと強く思わずにはいられないのも事実。自分を才能や能力で判断してくる他人とは違う。家族と言うだけでお互いに認め合える存在、それが今のイノレアの心の拠り所なのだろう……」
なんとも悲しい話だ。
人見知りの少女が求めたものは他人との共存であるにも関わらず、彼女が得てしまったのは常人離れした頭脳と身体能力。
結果、彼女自身の才能が他人を遠ざけ孤立させてしまったというのだ。
そして今の拠り所は才能などで自分を判断しない家族だけ。
あの歳にして他人との関わり方でどれほど悩んだのだろうか。
俺には欠片も想像がつかないが、生まれながらに持ったもので悩む境遇ぐらいは理解してあげたいと思う。
俺自身も“呪い”なんてものをこの身に宿しているからな。
「…………現状、イノレアお嬢様は自らの殻に閉じこもっている状態です。今はまだ良くてもこの先大人になるにつれてこの代償は徐々に目に見えてくることになるでしょう」
「…………ああ、分かっている。私もどこかで心を鬼にしなければならないことぐらいは。だが屋敷をアルと楽しそうに抜け出し街を冒険する笑顔を見ると、どうしても今はまだこの幸せそうなイノレアを守りたいと思ってしまう。親になるというのは難儀なものだな。こうも人を弱くするとは」
それを聞いたロコラーバは少し笑ってグランゼへと言葉を発した。
「いえ、旦那様。旦那様が弱くなったのではありません。ただ、守るものが増えただけでございます」
「………そうだな」
少しの静寂が流れ、ロコラーバが口を開いた。
「……………旦那様、一つだけ、今のイノレアお嬢様の現状を変える可能性がある方法がございます」
「……………なんだと?」
「ですが同時にそれは諸刃の剣になることでしょう。上手くいけば状況は好転するかもしれません。ですが上手くいかなかった時はイノレア様にどのような影響をもたらすのか想像もつきません」
それを聞いてグランゼは考え込んでしまった。
だが少しでも我が子が前に進めるようになるのであればとその内容を問いただした。
「……分かった、とりあえず内容を聞かせてくれ」
「かしこまりました。その方法とは………」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
——————————キン!キン!——————————
場面が変わり、次は純白の鎧を身に纏った騎士たちが模擬戦をしている様子が映し出された。
「どうだ、イノレア、やってみるか?」
「…………」
どうやらグランゼはイノレアを白羅の騎士団の訓練場へと連れてきたようだ。
——————————キン!——————————
「ぐあ!」
「そこまで!」
片方の騎士が相手の剣を弾き飛ばし勝敗が決したようだ。
「用意、始め!」
——————————キン!——————————
そしてすぐに次の対戦が始まる。
それをじっと見つめるイノレアは割と興味津々な目をしている。
そして何戦かそれを観たイノレアに再びグランゼは問いかける。
「やってみるか?」
「………うん」
イノレアは小さく頷いた。
「お嬢様、これを」
一人の騎士がイノレアに木剣を手渡した。
初めて触るそれにイノレアが何を感じたのかは恐らく誰も分からないだろう。
ただ一つ言えることがあるとするならば、それは神を目覚めさせたということだけだ。
イノレアは先ほどまで試合が行われていた場所までその騎士に連れられた。
まだ不思議そうな顔をしているイノレアに対して、恐らく成人したての騎士がその舞台へと姿を現した。
齢十六か十七だろうか。
動きの所々にまだ慣れていない所作が多々ある。
恐らくだが最近、生まれて初めて武器や鎧を身に着けたのであろう。
そしてその手には剣では無くイノレアと同じく木剣を握っていた。
とはいえ、それでも白羅の騎士団の一員。
短い間でもここで鍛錬を積んだのであれば十歳そこらの少女に負けることはまずないだろう。
「いいですか、お嬢様。あの男が手に持っている木剣を弾き飛ばすか、あの男を地面に倒せばあなたの勝利です。逆にお嬢様が同じことをされたその時はお嬢様の敗北となります」
その説明を受けたイノレアは小さく「……分かった」とだけ呟いた。
アルやロコラーバと話す時とは全く違う大人しさ。
完全に人見知りが発動してしまっている。
そんな状態で果たしてまともに手合わせなどできるのだろうか?
それは恐らくここに居る誰もが思っていたはず。
だがそんなものはただ杞憂だと、この後全員が思い知らされることとなる。
「用意、始め!」
鬨の声が響く。
「うあああ!」
最初に動き出したのは若い騎士であった。
模擬戦とはいえ、こんな少女に負けるわけにはいかない。
しかも団長の目の前でだ。
この少女の実力がどれほどのものかは知らない。
だが木剣を初めて握った少女と接戦による勝利など誰も彼を評価しないだろう。
となれば初撃で確実に終わらせるという意気込みが見える。
段々と近づいて来る若い騎士をじっと見つめるイノレア。
傍から見ると怯えて動けない様にも見える。
だが本当のところは相手をじっくりと観察し、返り討ちにする算段を建てていたのであった。
——————————コン!——————————
「え?」
気づいた時には若い騎士の木剣は宙を舞っていた。
そしてそれはバスッと音を立ててグランゼの目の前へと落ちて地面に突き刺さった。
「そ、そこまで!」
その場にいた一同が言葉を失った。
若い騎士の方も構えは基本に忠実、踏み込んだ足さばきも悪くは無かった。
多少甘い部分はあったかもしれないが、恐らく入団してから教わったことをしっかりと実践で再現出来ていたはずだ。
だがそれを嘲笑うかのように少女の一撃がそれを跳ね除けた。
それもたった一払い、片手で木剣を振り切っただけで。
それを見たグランゼは喜びとも悲しみとも取れない、ただただ驚きの表情を浮かべるだけであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
——————————コン、コン——————————
「あなた、いいかしら?」
「ああ、入れ」
場面が変わり今度はグランゼの書斎にメニスが入って来た。
時刻も同じく夜で、あのキャンドルの灯が部屋を照らしていた。
「あなた、イノレアはどうだったの?」
「………ロコラーバの言う通りであった」
グランゼは思いつめたように話を始めた。
「あの子がこのまま白羅の騎士団で鍛錬を積めば、このゼムレス王国を背負う。いや、この大陸に君臨する騎士になるだろう。兵器と評されてもおかしくない程にな」
それを聞いたメニスは悲しげな顔を浮かべた。
グランゼはさらに話を続ける。
「今日は木剣を使用した模擬戦を三戦行った。イノレアはそのどれにも勝利した。もちろん相手はまだ経験が浅い若い騎士だ。だがそのどれもが相手にすらならなかった」
「………じゃ、じゃあこのままイノレアを白羅の騎士団に入団させるの?」
グランゼは悩んだ顔をしていた。
あの場に連れて行ったのは恐らくロコラーバとの会話によってだろう。
確かにあの有り余る力と頭脳が本領を発揮するのが戦場と言うのは間違いない。
つまり白羅の騎士団であればイノレアは他人と対等に生きることが出来るとロコラーバは考えたのだ。
それが本人を救うことになるかは分からないがな。
「私もどうすれば良いのか分からない……。だが模擬戦を終えた後のイノレアの顔、求めていたものはこれだったのだという表情をしていた。その後もしばらく騎士団の訓練を眺めたいと私に言ってきたのだ。明らかに興味を持っている」
「で、でもそれじゃ…」
「ああ、このままでは自分の娘を戦場に送り出すことになる時が来るかもしれない………」
メニスは涙を浮かべ「そんなのって……」といつか来る可能性のある未来を憂いた。
それもそうだ。
我が子を望んで戦場に送り出したい親などまず居ないだろう。
ただ本人がそれを望んでいる可能性があるのだ。
それを思うと二人とも強く反対は出来ない。
「ごめんなさい…!ごめんなさい…!私が、イノレアを普通の女の子に産めなくて……!」
「やめろメニス!誰もそんなことは思っていない!ただ、あの子の居場所がたまたまそこだったというだけだ……!それがイノレアの本来望んだものと違ったとしても……」
「だって!友達が欲しかっただけの女の子の居場所が戦場ですって!?そんなこと、あって良いわけないでしょ……!」
メニスは遂に泣き崩れてしまった。
自分の夫が戦場を仕事場にしているのだ。
もしかしたら二人の間に子供だけは同じ目に合わせたくないという話でもあったのだろう。
だが皮肉にも、生まれてきた子は戦場で生きるための才能を全て揃えて生まれてきてしまった。
「……模擬戦が終わった後、私の部下たちがイノレアをよく褒めた。僅か十歳の女の子があのような戦いを見せたのだ。今すぐにでも入団させるべきだという者も居た。それを受けたイノレアは初めて他人と会話をして笑顔を浮かべたのだ。あそこにはイノレアを認める人間が大勢いる。誰もあの子を卑下にしない。同じ騎士として居場所を見つけることができるはずだ……」
その夜、グランゼは泣き崩れるメニスを長い時間励ました。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おわ!」
「うあ!」
気づくと俺とレニは大きい馬車の中の中に座っていた。
馬側にはグランゼとメニスが、そして向かい側にはイノレアとアルレアが。
そして俺とレニはイノレアとアルレアを挟むように腰かけていた。
「イノレアももう成人ね。十六年間、本当にあっという間だったわ……」
「やめてよお母さん、また泣きそうになってるじゃん。アル、なんか言ってやってよ」
「しょうがないよ、母さん涙もろいもん」
「はっはっは!まあ、宿に着けばすぐ笑顔になるさ。なんてったってあのモノルド温泉に行くんだからな。さぞかし良い旅になるはずだ!」
どうやら一家でイノレアの成人祝いに温泉へと旅行に向かっている最中のようだ。
そしてイノレアは十六歳、つまり直前の場面から約六年が経っている。
まだイノレアが問題無く生きているということは、未だ戦場に狩り出されたということは無いのだろうか?
それか戦場に出ても圧倒的な力で怪我一つ負わないとかか。
何はともあれイノレアとその一家は平和な生活を迎えているらしい。
——————————ドオオン…………——————————
すると遠くで鳴る地響きと共に馬車全体が少し揺れた。
外で何かあったのだろうか?
「ん?なんだ、今のは?」
異変に気付いたのはこの一家も同じ様だ。
グランゼは馬車の操縦士に状況を問いただす。
「すまない。今の揺れ、何かあったのか?」
——————————キキィッ!——————————
「キャア!」
「うあ!」
グランゼの言葉と共に馬車はいきなり動きを止めた。
突然の停止でアルとメニスは身体が大きく揺れた。
「おい!一体どうしたというのだ!?」
「あ、あれは…!まさか…!」
「ん?何か見えるのか?」
操縦士はあまりの驚きに開いた口が塞がらないようだ。
俺もグランゼに合わせて馬車に付いている窓の外を覗き込む。
そしてそこには絶望の影が空に映っていた。
「あれは……龍か!?」
——————————ギャオオオオン!——————————
夕方の茜色に染まった空を同じ色の紅き龍が悠然と翼をはためかせ、火炎と咆哮を吐き散らしながらこちらへと向かってくるのが見えた。
「龍!?龍だって!?なんだってこんな所に!」
アルは大きな声を出した。
グランゼの言葉が信じられない様子だ。
「そ、そんな!龍って!もう絶滅したんじゃなかったの!?」
「いや、そんなことはない……!人前に姿を現す数が少なすぎるだけで、未だその存在は定期的に確認され続けている……。だがそれも十年前を最後にパタリと止んでいたはずだ。なぜ今になって姿を見せたのだ………しかも暴れながらとは………!」
こうしている間にも紅龍は一家を乗せた馬車へと速度を上げて向かってくる。
なりふり構わず火炎を吐き散らしている様子を見る限り、未だこちらには気づいて無さそうだ。
だがあの火炎がいつこちらへ飛んできてもおかしくない。
何か手を打つべきだろう。
「あなた、どうするの!?」
メニスはグランゼへと問いかける。
グランゼは少し考えて言葉を発した。
「………助けを呼ぶ。イノレア!王都へと伝書鳥を飛ばす!使役を!」
「う、うん!分かった!」
グランゼとイノレアはすぐに馬車を飛び出し外へ出た。
イノレアは龍の火炎によって飛び回る鳥たちの群れへと左の掌を向けて、使役魔法を唱えた。
「コロレイ!」
するとその内の一羽が急な方向転換をしてイノレアの腕へと止まった。
「イノレア!これを!」
グランゼは予め用意していたのか、小さな封書をイノレアに投げ渡した。
イノレアはそれを受け取ると使役した鳥の口にそれを咥えさせて空へと放つ。
「お父さん!伝書鳥は飛ばしたよ!」
「分かった!となると後は援軍が来るまで待つだけだ。幸いここは王都からそこまで遠くない。被害が拡大する前に足止めしなければな………!」
グランゼは上着のコートを脱ぎ捨てた。
薄着になると改めて分かる、その鍛え上げられた肉体を。
だがイノレアが産まれて十六年、人間が老けるのには十分すぎる時間だ。
それでも今この男は立ち向かわなければならないのだ。
この国の国民を守るため、そして愛する家族を守るために。
「旦那!馬を引いて二人を遠くに!」
「わ、わかった!」
グランゼから退避するように言われた馬車の操縦士は急いで馬を来た道へと走らせようとした。
「イノレア!お前も行け!」
「でもそれじゃあお父さんが!」
「いいから行け!お母さんとアルを守れるのはお前だけだ!」
それを聞いたイノレアは拳を強く握りしめ、メニスとアルが居る馬車へと乗り込んだ。
「イノレア!お父さんは!?」
イノレアただ一人が戻って来たことにメニスは不安を隠しきれていない様子だ。
「お父さんは、あの龍を止めるって……」
その言葉を聞いたメニスは張り付くように窓の外を見た。
そこには大きな背中を向け、仁王立ちで紅龍を見つめる漢の姿があった。
「……!分かった、馬車を出して頂戴……!」
その背中を見てメニスも覚悟が出来たのだろう、何か言いたげな口をグッと噤んでその言葉だけを吐いた。
涙もろいと言っても白羅の騎士団団長の妻として十年以上は生きてきたのだ。
いつか夫を亡くすかもしれない恐怖に何度も襲われたことだろう。
しかしその度に他人の前では毅然とした態度を貫き、夫はきっと大丈夫だと自分に言い聞かせたはずだ。
俺はそれを強さと呼んでも良いと思う。
そんな夫が今この瞬間、自国の民と家族を守るという使命のためにあの場に立っているのだ。
そんな男を止められる者など居るはずがない。
すぐに馬車は進行方向を変え、来た道を戻って走りだす。
しばらく紅龍は何かを探す様に上空を飛行していたが、その目が走り出した馬車を捉えた。
その瞬間、紅龍は一気に馬車の方へと急降下を行う。
「行かせるわけが無いだろう!」
グランゼは紅龍の目の前に大きな防御魔法を出現させた。
当然ながら紅龍はその壁にぶつかり悲鳴を上げる。
——————————ギャオオオオン!——————————
その鳴き声が鳴り止まぬうちにグランゼは右の掌を紅龍へと向けた。
その掌からは魔法陣が発現し、グランゼの体内の魔力を一気に充填しているのが分かる。
そしてそれが貯まり切り、魔法の詠唱が繰り出された。
「ソレア!」
それは俺が今まで見て来た団長様のものとは全く違う、光線と言うよりも大きな柱となった光の塊が紅龍目がけて放出された。
そしてその柱は確かに紅龍の胴体を貫いた。
そう確かに貫いたのだ。
——————————グルルル……——————————
「な、無傷だと……!?」
グランゼから放たれた光の柱に貫かれた紅龍には、風穴どころか掠り傷の一つでさえ見えはしなかった。
「おいおい、渾身の一撃だぞ…!まさかそれが傷一つ付けられないとはな……!」
グランゼからの魔法を食らった紅龍は一切グランゼの方を向くことは無く、その後も相変わらず馬車を追うために防御魔法へと突進を続ける。
だがグランゼもそれに負けじと必死にその壁を保ち続けている。
「ぐ、なんて力だ……!このままでは援軍が来る前に魔力を使い果たしてしまう……!」
だからと言って防御魔法を解けばすぐさま紅龍は家族の元に向かってしまう。
渾身の魔法攻撃も効かなかったのだ、傍から見ると打つ手なしに見える。
だがその目にはまだ諦めの色は見られなかった。
するとグランゼは防御魔法を解いた。
まさか別の魔法攻撃に一縷の望みを託すつもりなのだろうか?
だが渾身の魔法攻撃はさきほど効かないことが分かったはず。
一体何を……。
グランゼは両腕を自身の胸の前で交差させ、まるで神に祈るかのように片膝を着いてその場にしゃがんだ。
しばらくするとみるみる内に空気の膜がグランゼを取り囲み、それに含まれる魔力が何層にもなって一つの集合体を作り出す様に半円形に広がっていく。
「あ、あれは!まさか!」
イノレアはどうやらあの魔法の正体を知っている様子だ。
「お父さんダメだ!その魔法は…その魔法だけは……!」
グランゼを取り囲む魔力が膨れ上がり、とうとうその高さが木々を超え上空遥か高くに昇った時であった。
(メニス)
「あなた!?」
これは、通信魔法か。
特定の人間の脳内に直接言語を流し込める魔法だ。
ただし、通信魔法と呼ばれているが受け取る方は通信機の様に通信魔法が使えなくても問題は無い。
要は無理やり脳内に魔法を送り込んでいるのと同じだ。
そのためこの魔法で通信する場合はお互いに通信魔法が使える必要がある。
(アルレア)
「父さん!」
(イノレア)
「お父さん…!」
(三人ともすまない……)
「あなた!だめ!いや!」
(幸せにな)
グランゼは胸の前で交差させた両腕を、大型の鳥類が翼を広げる様に解放した。
「オルガ・リ・レゼ・セント」
その瞬間、グランゼを取り囲んでいた魔力たちは膨張を止め、破裂した様に紅龍へと放たれた。
その柱は見事に紅龍の左前足へと命中。
そしてその左前足はみるみると石化していく。
——————————ギャオオオオオン!——————————
突然の出来事に紅龍自身も理解が追いついていない様子だ。
そもそもこの現状を把握するほどの知能が龍にあるのかは謎だが。
それでも自分の左前足が石化していくのを確かに認識した紅龍は、痛みか驚きかに悶えながら咆哮をけたたましく続けていた。
——————————オオオン!オオオン!——————————
もはやそれは咆哮と言うよりも叫び声に近い鳴き声であった。
この様子を見るとしっかりと痛覚もあるようだ。
しばらくすると魔力の発信源となっているグランゼを強い光が包んでいくのが見えた。
そしてグランゼ本人もその光の一部となっていく様子も。
「あれは……?」
よく見るとグランゼの足元が光の粒となって徐々に崩壊していっているではないか。
それは膝元、そして太ももと徐々に上体へ向け進行していく。
そしてその間も紅龍の石化は進んでいく。
「これは、命を媒体とした封印魔力か……!」
魔法の中でも最上級の複雑さと効力を持つ魔法、それが封印魔法だ。
その複雑さと効力故に魔力のみでは発動できないのが特徴。
そのため発動には媒体を用意する必要がある。
ある封印魔法には大量の砂、またある封印魔法には数本の未来樹の枝。
さらにある封印魔法では人骨を用いるものもあるらしい。
それは種類や効力によって必要となる媒体も様々。
媒体が何種類にも渡って必要なものもあると聞く。
だがそこまで手間暇をかけた分、その威力は絶大。
伝説では一人の大魔法使いが大国そのものに封印魔法を使用し、その大国は五百年もの間建物をはじめとして人間やあらゆる生物全てが凍って動かなくなったという逸話が残っているくらいだ。
そしてグランゼは今その封印魔法をあの紅龍相手に使用したのだ。
自分の命を媒体として。
「ぐ……!うあああ!」
グランゼの身体は既に下半身が崩壊し終え、残る上半身も徐々に散り散りになり始めた。
その間、グランゼから伸びる魔力の柱は少しでも紅龍を石化させようと威力を落とすことなく放たれ続けている。
紅龍はその柱から必死に逃れようとするものの、どのように飛行してもそれは紅龍を捉えて離さない。
しばらくの間その攻防が続いたが遂にそれに決着がつく時が来た。
「があ!まだ…だ!」
そう言うグランゼからはもはや微量の魔力しか紅龍へと送られていない。
あれだけ大きかった魔力の柱も今は細かい粒の通り道でしかない。
グランゼの上半身はすでに消え去り、もう頭部しか残っていない状態だ。
そんな状態でも魔力を放ち続ける姿はまさしく英雄と呼べるのではないだろうか。
しかしグランゼがここまで身を削ったにも関わらず、その効力は悲惨なものであった。
——————————グギャオオオン!——————————
結果的にいうと、グランゼは紅龍の左前足のみしか石化することが出来なかった。
紅龍は飛行能力を失うことも無く、また火炎を吐くための器官が石化したわけでも無く、人一人の、しかもこの国の最高戦力の一人の命を以てしてもその足の一本しか封印することが出来なかったのである。
「……みんな、すまない……」
そう言うグランゼは目を閉じ、静かに、風に揺蕩う綿毛の様に、光の粒となって完全に消え去った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「お父さん……!」
跡形も無くなったグランゼを窓から眺める一家は全員顔を涙で濡らしていた。
特にメニスは酷く暴れて外に出ようとする始末だ。
「お母さん!?ダメ!今はダメ!」
「グランゼが!グランゼが……!」
しかしそんな一家には息つく暇も無かった。
——————————グギャアアア!——————————
グランゼが消え去り、今あの紅龍の眼前を阻む者は完全に居なくなった。
紅龍は大きな方向をけたたましく轟かせ一目散に馬車の方へと飛翔してくる。
「くそ!あの野郎!父さんが命をかけて魔法を撃ったってのに……!」
アルの悲し涙はすぐに怒りと悔し涙へと変わっていた。
「姉さん!どうすんだよ!このままじゃ……!」
「分かってる!でもお父さんが相手出来なかったんだ、私はどうすれば……!」
加護を持って生まれたとしても所詮はまだ子供。
偉大な父の後を追ってここまで来たはずだ。
そしてその尊敬する父親が敵わなかった敵を前にして、イノレアは怖気づいてしまったのだ。
そうしてイノレアが尻もちをついている間にも紅龍は一家目がけて攻撃を仕掛ける。
——————————ドオオン!——————————
紅龍の火炎が馬車の横に着弾した。
「うああ!」
その威力で地面が大きく揺れる。
「だめ、逃げるしかない……!」
イノレアは馬車の操縦士に声をかけた。
「もっと早く走れないの!?」
「無茶言うな!これでも全速力だ!」
こうしている間にも紅龍は徐々に馬車との距離を詰めてくる。
外に出ようと暴れていたメニスは窓の外のその様子を視界に捉えた。
すると途端に暴れるのを止めて大人しくなる。
そしてイノレアとアルレアを見つめた後、二人をギュッと抱きしめた。
「二人とも大丈夫……!お母さんが守るからね……!」
きっとメニスには二人を紅龍から確実に守れるような魔力も策も無いはずだ。
だがそんなものは関係無い。
夫が父親としての役目を果たしたのだ。
きっと彼女も母親としての役目を全うしようとしているのだ。
メニスに抱き寄せられた二人はどうすれば良いのか分からない様子だ。
だがメニスが最後まで母親であろうとする姿を見て二人も覚悟ができたようであった。
「母さん、姉ちゃん、本当にありがとう」
アルがそう零すとイノレアも強く二人を抱きしめて言葉を発した。
「お母さん、私本当に幸せだった……!アル、生まれてきてくれてありがとう……!」
そこには馬車の中で愛と絆を確かめ合う家族の姿があった。
そしてその家族を火炎の塊が瞬く間に包み込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
炎の激しい光に堪らず俺たちは目を閉じた。
そして次に目を開けた時、そこに映ったのは視界を覆い尽くすほどの黒煙であった。
「あれ………?」
姿は見えないがイノレアの声が聞こえた。
あの爆炎の中、どうやら無事だったようだ。
「ゴホゴホ……」
同時にアルレアの咳も聞こえた。
「姉さん……?」
「アル!?良かった…!」
姉弟はお互いの生存を確認した。
黒煙は徐々に晴れていき、俺たちにも二人の姿がようやく見えてきた。
馬車は完全に破壊されその残骸が周りに転がっている。
どうやらイノレアがアルを火炎から守る様に覆いかぶさっていたお陰でアルは無事の様だ。
「お母さんは……?」
イノレアは辺りを見渡しメニスの姿を探す。
「お母さん!どこ!?」
大きな声でメニスを呼ぶが返事は無い。
しばらくイノレアはメニスへ向けて声をかけ続けた。
だがいつまで経っても返事は無かった。
そうしている間に姉弟を包んでいた煙が完全に晴れた。
そしてそこに映し出されたのは、二人にとっては衝撃的な光景であった。
「え、うそ、いや」
よく見るとイノレアの肩に何か布がぶら下がっているのが分かる。
イノレアもその違和感に気付き、その布を恐る恐る確認する。
そこにはアルを抱えるイノレアのさらに上に覆いかぶさるよう、ボロボロになったメニスのドレスがイノレアの背中に張り付いていた。
そしてそれを着ていたはずのメニスの姿だけが無かった。
「いや…お母さん…、いや!」
そこからはイノレアの悲しみの泣き声が響くのみであった。
そして驚くことにみるみるとイノレアの綺麗な黒髪が美しい白髪へと染まっていくではないか。
これも龍の火炎を受けた影響なのだろうか。
「姉さん…髪が……!」
アルもその現象に気が付いた様だ。
泣き叫ぶだけのイノレア自身はまだそのことに気が付いていない。
しばらくすると援軍と思わしき軍隊がこちらへ向かってくるのが見えた。
イノレアとアルはその軍隊に二人とも保護された。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
場面が変わり、俺たちは病院の一室に居た。
そこにはベッドに横たわるアルも見えた。
「アル、入るよ?」
「うん、良いよ」
そこにイノレアが入って来た。
どうやら見舞いに来たらしい。
「アル、体の調子はどう?」
「………どうだろう、あんまり良くはないかな」
それを聞いたイノレアは「そう……」とだけ呟いた。
「………ちょっとお医者さんとお話してくるね」
そう言うとイノレアは静かに病室を出て行った。
アルはその背中をただ眺めていた。
その後、イノレアは医者と二人で会話をしていた。
「はっきりと言いましょう。弟さんは魔吸病です」
「魔吸病?」
「ええ、ご存じですか?」
「いえ、初めて聞きました」
年老いた医者は棚の中から分厚い古書を取り出し、眼鏡で焦点を合わせながらその内容の一部を読み上げていった。
「彼は人間に本来備わっているはずの魔力を自然の中から吸収するという営みが困難になっていた。我々も手を尽くしたが解決を見つけることは出来なかった。こうしている間にも彼はどんどんと弱り果てていく。劇的に死ぬことは無いが、我々と同じように活動する事は出来ないままだ。これが龍の呪いだとでも言うのだろうか。我々は挑む相手を間違えたのか」
「………それは?」
年老いた医者はその古書をパタリと閉じて話を続けた。
「ある冒険者の記録です。ここに書いてあるこの病状が人類初の魔吸病の症例と言われています。ここに書いてある通り、弟さんは魔力を健全な人間と同じように吸収することが出来ない状態です。こちらから意図的に魔力を送り続けなければ体を巡る魔力が枯渇し、全身の細胞が壊死を始めることになるでしょう」
「そ、そんな!それじゃあ弟はもう一生あのままだということですか!?」
「…………残念ながら今の私たちには手の施しようがないです。ましてや龍の影響を受けて発症しているとみられる。ただでさえ龍の存在は未だ謎に包まれています。調査は全く進んでいないため、仮に龍による攻撃によって発症している場合、治験薬を製造するのですら遠い未来になる可能性もあります。」
医者は古書を元あった棚に戻し、再び話を続けた。
「ただし、魔吸病を発症している人たち自体は生まれながらに患っている方がほとんどです。その全ての人が龍の影響を受けて魔吸病を発症したわけではありません。その場合はそれがその人の性質だと受け入れて生きて頂く他ないです。ですが弟さんは違う。龍の影響で発症したのであれば、治す方法もあるかもしれない。一生あのままだと私はには到底思えない。いつかこの症例に効く治療法が見つかる可能性はいくらでもあります」
それはイノレアに希望を抱かせるには十分すぎる言葉であった。
「ですから弟さんには負けない様に声をかけ続けてあげてください。もしかしたら自分自身で生きるのを諦めてしまう可能性もありますから」
「…………先生、ありがとうございます。こちら私の方でもいろいろ調べてみます。弟のために出来ることはなんでもします。だからどうか、先生にもお力添えを頂きたいです」
そう言うとイノレアは医者へと頭を下げた。
「イノレア様……顔を上げてください。お父様には生前沢山お世話になりました。私も出来る限り全力をもって弟様の治療に取り組みます。ただ、あなたにも無理はして欲しくない。あなたのその髪……、恐らくですがそれも龍の影響を受けたものだと思われます。今のところ大丈夫でも今後どのような影響が見られるか分かりません。くれぐれも無理をしないようにお願いいたします」
それを聞いたイノレアは少し涙を浮かべ「ありがとうございます……」とだけ零した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
また場面が変わり今度は豪華な書斎のような部屋が映し出された。
そこには一人の中年男性が座っていた。
窓の外を見るとそこには見覚えがある光景が広がっていた。
「ここは、白羅の騎士団の訓練場か?」
——————————コンコン——————————
「失礼します」
そうこうしていると、部屋の中に誰かが入って来た。
見るとそれは成長したイノレアの姿がそこにあった。
「本日はどんな御用でしょうか」
イノレアはすっかり騎士団の一員になったようだ。
いつの間にか背中にはどこかで見たような立派な大剣を背負っている。
「イノレア、近くに来なさい」
「……?分かりました」
イノレアは中年の男に導かれるまま部屋の中へと足を進める。
「イノレア、ご両親が亡くなってからどのくらいが経った?」
「………五年が経ちました」
あれから五年か。
五年も経てば人間は大きく成長できると俺は思う。
となると今のイノレアはもう俺らが知るイノレアでは無いだろう。
まだうら若い女性だとしても、もしかしたら白羅の騎士団を背負うような騎士になっているかもしれない。
「五年、か……。君の父親は本当に偉大な人だった」
「……………存じております」
「そんな彼が残した二人を私は大事に見守って来たつもりです」
「…………本当に感謝してもしきれません。父の子供である私たちに取り入ろうとする大人たちから守って下さったこと。アルの治療に協力してくださっていること。父の跡を引き継ぎ白羅の騎士団を率いておられること。全てに感謝しております、副団長ボネット様」
なるほど、グランゼ亡き後はこのボネットなる男がイノレアたちの父親代わりになりながら白羅の騎士団を率いているのか。
しかしなぜ副団長なのだろうか?
あと引き継いだというのであれば普通は団長に就任するのではないだろうか?
「……この五年、様々なことがあった。私の人生の中でも苦悩に満ちた五年であったと思う。だが、そんな日々もこれで終わりだ」
そう言うとボネットはしわが少し目立つ顔をイノレアに向け、言葉を発した。
「イノレア=テラトー、そなたを白羅の騎士団団長に任命する」
「え?」
その言葉は俺にとっても意外なものであった。
「な、なんで……」
「なんでも何も、この五年間、君はとてつもない努力と研鑽を積んだ。今や剣術、魔術、戦術、そのどれも君の右に出る者はこの騎士団には存在しない」
ボネットは懐かしむような目をして話を続けた。
「今でもグランゼがまだ幼い君を初めて騎士団へと連れてきたことを思い出す。齢十歳の少女とは思えない動きに私たちは衝撃を受けた。この子は将来とてつもない大物になるとよく未来に思いを馳せたものだ。そこから約十年、遂にその時が来たのだ。イノレア、これは私だけの判断では無い。全団員一致の結果だ。この五年間なぜ白羅の騎士団団長の座が空白とされていたか分かるか?なぜ私が団長では無く副団長としてこの騎士団を指揮していたか分かるか?私たちは五年間待ったのだ、君がこの騎士団を背負って立つ人間になることを。ずっと考えていたのだ、グランゼの跡を継げるのは他の誰でもない君自身だけだということを」
ボネットの口から出た言葉は、二十一歳のイノレアにはとてつもなく重い言葉であることは容易に想像がつく。
つまりは彼女が団長に就任することは五年前にすでに決まっていて、この五年は騎士団として彼女を成長させるために費やしたというのだ。
「……なぜそこまでして私を?果たして私にこの一団の長を務め上げることが出来るのでしょうか……」
「出来る。この五年間、父親の代わりにずっと君を見てきたのだ。私のことを信じて欲しい。そしてグランゼの意思を継いで欲しい」
ボネットははっきりとした口調で、イノレアの目を見てそう答えた。
「……………………分かりました。この命、しかと受けさせていただきます」
少し考えたイノレアはそう言ってボネットの前に跪いた。
ここに白羅の騎士団団長、イノレア=テラトーが誕生したのである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
再び場面が変わった。
そこには豪華な廊下を歩く一人中年男性が居た。
歳はボネットと同じくらいだろうか?
風貌としては俺と同じく一枚のマントを羽織り、右手には地面から首元までの長さの杖を持ち、その先には翡翠色の宝石が取り付けられていた。
「陣麗様」
その男の後ろからイノレアの声が聞こえた。
陣麗と呼ばれる男はその声の方向へと振り向いた。
「………イノレアか」
「お世話になっております」
イノレアは男の目の前まで行くと頭を下げて挨拶をした。
「様はやめろ、イノレア。お前も我ら四麗と並んだのだ、余計な気は使わなくていい。我らは同じ王家直属組織の長として対等となったのだ」
「いえ、幼い頃から陣麗様は私の憧れの内の一人でございます。そういうわけにはいきません」
そういえば黒翼の騎士団団長が閃麗だと団長様とブールが話していた。
もう一つの組織の長の名はこの時点でイノレアには伝えられていないはず。
ということは陣麗と呼ばれるこの男が光導の魔法師団団長ということになる。
その証に団長様が身に着けていた片翼の首飾りと同じ物を首からぶら下げている。
「そうか、ならば勝手にしろ。で、一体なんの用だ?」
「…………今回は陣麗様に魔法を教えていただきたく参りました」
「魔法を?なぜだ?お前はもう十分魔法を使える人間の中でも歴史に名を残す程の器の持ち主。例えそれが加護の影響であったとしてもな。それに加えて剣術も秀でている。それらを評価されて団長にまで上り詰めたのであろう?これ以上私から何を教わろうというのだ?」
そこまで言われるとイノレアは黙り込んでしまった。
だが覚悟は決まっている様で陣麗の目を確かに見てその質問に答えた。
「父の、吟麗の称号を継ぎたいのでございます」
「………ほう、それがなぜ私に魔法を教わろうということになるのか、理由を聞かせて貰おうか?」
「父は歌う様に魔法を放ち戦闘を行ったと聞きます。確かに私の魔力の器は常人では考えられないほど大きいかもしれません。ですがそれと魔法を上手く扱えるかは全く別物。少なくとも魔法の扱いという面では魔法師団団長である陣麗様の足元にも及ばないでしょう。だからこそ陣麗様に教わりたいのです。どうしたら父のように戦えるか。いや、超えられるのかを。ぜひともご教授願いたいです」
陣麗は「ふむ……」とだけ呟いてどうするかを考えている様子だ。
だが真っすぐな目をしたイノレアを見つめると、懐かしむような顔をして口を開いた。
「昔、まだ魔法師団団長に就任したばかりの私の元へやって来て、今のお前のように魔法を教えてくれと頼み込んだ男が居た」
「………どなたか聞いても?」
「名をグランゼ=テラトーと言った。そう、お前の父親だ」
それを聞いてイノレアは驚きの表情を浮かべた。
まさかイノレアの前に、グランゼがこの陣麗の元を訪ねていたとは。
「まさか親子揃って私の元を訪れるとはな。唯一違うところは、あの時のグランゼは白羅の騎士になり立てのガキであった。反対に今のお前は責任を持った長だ。ただし、お前らに共通することは守るべきものが決まっているという点だ。人は守るべきものが出来た時、さらなる力を求めるものだ」
そこまで言うと陣麗はイノレアに背を向けて歩き出した。
「来い、魔法の本質を教えてやる。さすればお前は父のように魔法を扱えるようになるはずだ。いや、フォルネの加護を持つお前であればあの男を容易に超えられはず。私の教えは楽では無いぞ」
イノレアはその言葉を聞き、嬉しそうに後を着いて歩き出した。
「はい、よろしくお願いいたします!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
再び場面が変わり、そこには豪勢な一室の両壁に何人もの人間が綺麗に整列して立っていた。
そこに立つ人間たちはみな豪華な正装をしており、身分が高い者たちの集まりだということがすぐに分かる。
その中には先ほどの陣麗や黒い鎧を装備した閃麗と思われる人間、さらにはロコラーバやボネットの姿もあった。
そしてその奥には誰しもが一度は憧れる権力と統治の象徴となる椅子、そう玉座があったのだ。
ということはそこに座るまだ若いこの男は、この国で唯一その頭上に王冠を被ることを義務付けられた人間。
つまりはゼムレス王ということになる。
——————————キイ……——————————
部屋の扉が開くとそこにはイノレアの姿が見えた。
だが俺とレニはその姿に驚愕した。
大きな体格に、背には大剣、腰には剣。
重厚な純白の鎧を身に纏い、その麗しく伸びた白髪を揺らしながら歩く姿はそこに居た誰しもの目を奪っていった。
そう、そこには俺が知る団長様の姿があったのだ。
団長様は人が並び出来た玉座までの道をゆっくりと、そして堂々と少しずつ一歩を踏みしめながら歩いていく。
そしてその玉座の前に辿り着くとその場で跪いた。
それを見た王はゆっくりと玉座から立ち上がり、家臣から受け取った片翼の首飾りの紐を両手に持ち言葉を発した。
「イノレア=テラトー、そなたを我がゼムレス王国を守る白羅の騎士団団長へと命ずると共に、ゼムレス王の名のもとに吟麗の名を授ける」
「……ありがたき幸せ」
「………偉大な父、グランゼ=テラトーの跡を継ぐのはそなたにとって荷が重いことかもしれぬ。だがその重圧に負けず、立派にその役目を果たして欲しい。ここに居る一同をはじめとし、我もそなたの活躍を願っている。どうか無理をするな」
「………恐悦、至極に存じます」
そこまで会話がなされた後、ゼムレス王はその片翼の首飾りを団長様の首へと通した。
その首飾りは窓から入る光を反射し眩しく輝く。
そしてそこにはあの人見知りの少女の姿は欠片も無く、ただ一人の女騎士が大勢の人間に見守られていた。
これが俺たちの最後に見た光景であった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「人描き殿!?レニ!?」
暴風と濃霧に飲み込まれた私たちは人描き殿とレニと離れ離れになってしまった。
「グラ!絶対にこの手を離すな!」
暴風に吹かれてグラの小さい体は今にも風に飛ばされそうだ。
どうにか私もその小さな手を強く握りしめるが、これもいつまでもつか分からない。
(くそ!どうなっているんだ…!)
しばらくの間吹き付ける風に耐え続けていると、徐々に視界は晴れていき暴風も次第に弱まっていく。
「ハア、ハア、収まったのか?」
ゆっくりと閉じていた目を開ける。
するとそこには思いもよらない光景が広がっていた。
「こ、これは!?」
気が付くとそこは自然豊かな山の中であった。
「なんなんだ一体……、そうだ、グラ!?無事か!?」
私は慌てて左手へと目を向ける。
そこには私と同じく目の前の光景に戸惑うグラが居た。
「あ、だ、大丈夫……」
「良かった、無事の様だな。………しかしそれにしてもここはどこだ?」
これは幻覚魔法の類なのだろうか?
いや、それはあり得ない。
なぜなら私には毒と同じく幻覚魔法が効かないからだ。
これもフォルネの加護の影響らしい。
であるならばこれは転移魔法か?
仮にそうだとしてどこまで飛ばされた?
人描き殿たちもこの付近に飛ばされた?それとも全く別の場所?
考えれば考えるほど情報が足りない。
まずはここから動かない事には始まらないか。
「グラ、とりあえず移動しよう」
「…………」
グラはなぜか私の声に反応しなかった。
いや、反応しなかったというよりも何かに集中している様な。
よく見るとグラは空の方を見上げている。
「グラ?上に何かあるのか?
「……あれ」
そう言うとグラは空の方を指差した。
それに従う様に私もその方向を見る。
そこには高い木の枝の上に何か大きい物体が乗っているのが見えた。
あれは、鳥だろうか?それとも猿の類だろうか?
目を凝らしてその物体を良く観察してみると、驚くことにそれが人間の形をしているのが分かった。
しかもまだ幼い少年のように見える。
「おーい!そんなところに居たら危な……」
——————————スタッ——————————
私がその少年に声をかけようとした時、なんとその少年はその枝から華麗に飛び降りて私たちの目の前へ背中を向けて着地した。
「な…!おい!大丈夫か!?」
私は驚いて言葉を発した。
常人であれば怪我をしてもおかしくない高さだ。
骨を折っている可能は十分にある。
だがその少年には私の声が聞こえていないのか、彼は声に反応することなく大きく伸びをした。
「んんー、ああ。そろそろお昼の時間かな。帰ろうっと」
年齢はまだ五歳ほどだろうか。
その少年は山道を下るために振り返って駆け出し、私たちの後ろへと走り去っていった。
その時、一瞬だけ映ったその少年の瞳は鮮やかな紫色に染まっていた。
次回、第十話 「一掻き」(ひとかき)
ED 「耽美歌/ヒトリエ」