第九話 マンティコアとの死闘 三
バクンッ、バクンッ、ビクンッ!
コレクトルの高鳴った心臓は、制御を失いそうに、大きく細動した。
強烈な恐怖。泡を吹き出し始め、けれども、濁流には至らない。
白目を剥きそうになりながら、青白く血の引いた口元を噛みしめ、鈍く血を滲ませながら、気つけとする。
ぐらつく意識の中、ふらつくように、灰色掛かった肌地が露出した、草の消えた地面へと着地した。転びはしなかった。
コレクトルは抗う。その重々しくなる体の、泥に沈んでゆくような制御の喪失に。
ギギギギギギ、
コレクトルは抗う。その未だ残り続ける、その目の持ち主の恐怖の残響に。震えて、下を向いて縮こまっていたがる首を、頭を、振り絞るように、意思で、持ち上げて、瞑りそうになる左目の瞼を、
ギンッ!
大きく開いた。
(そんなに生きたかったなら、どうして――闘わなかったの! 私は、闘う!)
左のその青の瞳の黒の濁りは消え、ラピスラズリのそれのように、明るく蒼く、澄んで、中央の、横長の黒き棒線のような光彩が、凛々しく、膨張した。蒼の中に、黄金の粉が、浮かび上がってくる。綺麗に上品に、その瞳はその全体が輝いている。
(見せてあげる!)
大きく深く、息を吸いながら、姿勢を低くし、すんでのところまで迫っていた、刃部分を喪失した折れた槍の棒きれな切っ先の尖った一撃を、後ろに跳ぶように跳ねながら、右足で下から蹴り上げるように、砕いた。ほぼ、臀部、根本。先端なんかよりずっと太く、強度のある筈のそれを、身軽ではあるが、華奢である筈のコレクトルが、砕けていたのは、ひとえに、その左の瞳、牛骨鬼の魔法の瞳の強化に依る。
筋肉量が増えた訳でもない。相手が脆くなった訳でもない。それでもコレクトルは強靭になっていた。
それは骨。それは、血。それは、強靭となった呼吸による、力の根源の大きな要素の一つである、空気の濃密な摂取と、それに肺で混じってねじ込まれた、魔力。
全身に、行き渡る。
とても晴れやかな気分になる。筋肉の緊張も、恐怖によるびくつきも、心音のどうしようもなさげな様子も、全て、嘘だったかのように。
「ゴァオオオアアアアアオオオオオオオオオオオオオオ!」
迫る、顎。頭から突っ込み、両手をその淵、口の右端と左端に。中、から。
ぎゅぅ、ぶちぃいいいいいいいい!
外。横に、裂いた。
強力な粘りと生臭い悪臭と酸性を持つ唾液に後頭部と両掌が触れたコレクトルの皮膚は、灼け溶けるような音を響かせるが、それは聞こえない。
「”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア――!」
その獣の、本能の絶叫が響き続けているから。
これまでとは違って、魔力すら乗っていない。意図も悪辣も魔力も通っていない、機を捨てるような、唯の鳴き声である。
前脚両方を上げ、のけぞる馬のような、無防備を晒している。
痛みに、意識を飛ばしそうになりつつも、コレクトルは、霞み始めた視界でも、相手から目を離さない。目を瞑らず、凝視し、次のアクションを起こし始めている。
選んだのは、両方。右手に、物理の、実体のあるナイフ。左手に、魔法の、皮膚を侵した唾毒のせいで吹き出し始めた血、但し魔力の通ったそれを、制御し、青く蒼く限りなく薄く鋭い刃のナイフ。
姿勢を低くしながら、蹴り出して、胸の前で交差させるように逆手に握り持ったそれらのナイフで、割き、突き抜け、破った背から、相手の血や胃液に塗れながら、飛び出した。
着地。
その後ろで、斃れるマンティコア。その脅威は消失した。
安堵する。緩む。吹き、上げる。強い寒気と、押し上げてくる熱。噴き出した。
視界が、歪み始める。
背負った袋から、取り出した聖水の瓶。
無理して一口、飲み、込み、瞳を抜く。邪蛇のそれに付け替え、灼く。全身に回り始めていた毒を、残存する牛骨鬼の瞳の魔力で集めて、固めて、覆っていたそれらを諸共、焼き切った。
マンティコアの亡骸から、両の目を、物理の実体のあるナイフでくり抜き、取った。残った聖水にそれらを漬ける。赤く染まって、邪悪そうなそれらは、コレクトルを睨むかのように。コレクトルの姿を鏡像のように映し出している。まるで、水際の意思が残留しているのを示すかのように。聖水は、黒く濁り始めている。
(駄目ね……)
コレクトルは、決断した。コレクトルの赤黄色に煌めく蛇なる左目が、強く、輝いて、瓶ごとそれらは、殺された。
赤が引いて、黄色くなって、自壊した。そして、瓶が割れ、赤黒く染まった聖水だったものが流れ、終わった。
コレクトルは、引き摺るように歩きながら、やがて街へ辿り着き、衛兵の前で、倒れ、自身の経緯と顛末を、やはり付けられていた試験官たる守り役から、後日、ギルドの用意された別室で、包帯ぐるぐるの未だ満身創痍の身体で話を聞きながら、事のあらましを断片から構築し、こんなだったのでは、と尋ね、肯定され、納得を得た。
守り役は、コレクトルに謝罪し、人によって試験の難度が異なる理由が、対象の冒険者としての見込みであると、曖昧な形で明かし、言外に、今はそこまでしか開示できない、とコレクトルに返答の間を与えず、逃げるように部屋を後にしていった。
残されたのは、コレクトルと、同席していた、これまで置物のように隣にいただけのギルドのいつもの左の受付に、尋ねる。
「私は及第点だっただろう?」
自信たっぷりに。
「ええ」
ニギッ、ビリッ!
「おめでとうございます、コレクトル様。わたくし、貴方様の担当をさせていただくことになる、ツグと申します。どうぞよしなに」
肌色の被りを外し、その素顔を曝け出しながら、頭を下げる。
その声は、澄んだ、聞き取りやすい、人外ではなく人の類の美麗な気品のある女声だった。
(機械……天使……?)
隠していた理由に納得した。
金属色と光沢を持つ、左右対称で、高い鼻の、産毛も鼻毛も眉も睫毛も無い、上品で小さな顔立ち。上品に目を瞑り微笑みかしづく、削り出しのような髪の毛ではない、髪束の彫刻による、肌の金属色と同じ髪色。ぱっつんな前髪は、目の上で切り揃えられた簾のように。ある種類の鬢削ぎのように、後ろ髪はひたすらに長く、側髪は、耳を隠すように後ろに向けて、長くなる勾配のある簾のように。
思わず、手がのびて、触れてしまって。ひんやり。固くて、冷たくて、気持ちがよかった。
「……コレクトル様……」
「あぁっ! すまない……」
「その喋り方、似合いませんよ。それにもう、繕う必要はありませんから。貴方様はもう、冒険者における上位一割に入ったのですから」
と、何やら、その金属色の指先から、純白の光り輝く羽根のエフェクト。
「わからせられる。見ただけで。近づいただけで。貴方様が、今より落ちず、冒険者でいる限り、ずっと、です。これはそういう、まじないのような祝福、です。怖い、かもしれませんが、ここから出て、さっきまでとは違うことを実感してください」
と言って、部屋の扉の前まで歩いてゆき、左の受付改め、機械天使ツグは、再び自身の頭を肌色の被りで覆うと、これまでのようなゴーレムの亜人という偽りに覆われていた。促すように開けられる扉。
コレクトルは疑問と戸惑いと不安を抱えつつも、それを口には出さず、その案内に従った。そうして、コレクトルは、不必要に不器用に、凛々しい口調で繕うことを止めたのだった。
その日を境にして。コレクトルの表情からは、これまで見え隠れしていた自身の無さや卑屈さはなりを潜め、自分の足で立っているというある種の自信すら伺え、声を掛けやすくなった、というのが、彼女を知る街の者たちの弁。彼女が怖くなっただとか、威圧的になったなんて評価は一切無かった。
後に彼女を知ったものたちが、そのことを掘り上げて、珍しいくらいに清いと更に褒めたたえるくらい、彼女の評価は未来において昇りつめるのだが、それはまだまだ未来の話。
導入章である、【F(底辺)ランク脱出篇】はこれにて御仕舞。
F(底辺)ランクを抜け、Eランクになったコレクトルは、その日暮らしの段階を抜け、次は、基盤作りのために動きます。本来は致死故に邪法たる異種の、しかも魔物のそれを自身にある意味接ぐという、現状彼女だけのオリジナル。降ってわいた不幸でありながら遥か望外からの、足がかり。あまりに未知なそれの研究と、蒐集による拡張を、彼女は志向してゆくことになります。
次章、【瞳の蒐集と探求篇】
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