6日目・7日目
私は、子どもを産んだことがありません。結婚は夢のまた夢、一生そばにいたいと思えるぐらい、誰かを愛したことさえないのです。
「かあさま、ただいま」
「おかえりなさい」
今日、私に「子ども」が来ました。スノウホワイトのあたたかい格好をした、守ってあげないとはかなく溶けてしまいそうな、男の子です。
「かあさま、ココアの牛乳を、たっぷり入れてくださいますか」
「いいですよ」
たいていのお店で売っていて、数百円で手に入れられる飲み物を「贅沢」だという子に、もっと贅沢させてあげたくなりました。仕上げに、生クリームを絞るのです。すでに混ぜられて袋に詰められている物があることを、学校の同級生から聞きました。
「いただきます。わあ、洋菓子のようだ」
「スプーンで混ぜても、そのまますくって食べても、おいしいよ」
この子との夜が、私をさびしくさせなくなりました。この子のお母さんを苦しめた病気を調べたくて、他にかかった人を治したくて、勉強にも身が入りました。担任の先生に「やったらできるじゃない。遅咲きだったのね」と背中を叩かれ、必ず夢を叶えようと思いました。
「ごちそうさまでした。かあさま、それでは行って参ります」
私は急いで椅子を離れ、彼を抱きしめました。
「いってらっしゃい。気をつけて」
綿雪にまぎれて、彼は出かけました。
月が明るかった、7度目の夜。ココアを飲んだ彼は、ゆっくりと言いました。
「お別れの日が、来ました」
2枚重ねたアルミ製のお椀を、うっかり落としそうになりました。
「明日から、帰ってこないということ?」
彼は意志の強い瞳を、私に向けました。
「港の名前を思い出せたのです。そこへ行きます」
「私もついていくよ。お母さんだから」
「かあさまは、まだ来てはなりません」
「どうして……」
「夢があるのでしょう。かあさまはそれを叶えなくては」
白い手が、私の腰にまわりました。重ね着していたのですが、ひんやりとしました。
「かあさまにも、海へ行かねばならない日が来ます。そうしたら、もう1度会えるかもしれません」
「……今は、いけないの?」
私のおなかに、彼は頭をこすりつけました。
「かあさまには、この先も元気でいてもらいたいのです。あちらに行ったかあさまの分まで」
「わずかな時間だった……。もっとお母さんらしいことをしてあげたかったな」
「ぼくも、もっと、子どもでいたかったです」
「待っていて」
彼を座らせ、私は台所へお椀を運びました。大家さんに、かき氷器を借りて良かったと心から思いました。大家さんには怪訝な顔をされましたが、いつかこの子に食べさせたくて。業務用スーパーまで隣町へ行って良かった、何でも売っているという、うたい文句は、嘘ではありませんでした。みぞれ味のシロップをやっと見つけられて、お店の中で飛び上がりました。
「冷蔵庫の氷だから、透き通っていないけど……」
「かあさま…………!」
母と子の、内緒の味を食べてもらいましょう。季節外れですが、召しあがれ。
「ありがとう……、ありがとう……、かあさま。最高の贅沢です」
「お母さん、とっても嬉しいよ。私のは、海の味がするな……甘いけど、塩の味…………」
鼻をすすりながら、私は彼においていかれないよう、スプーンを進めました。
「……最後に、教えてほしいことがあるんだけど、いいですか?」
「かあさまになら、何でも」
「お名前は? お母さんなのに子どもの名前を知らないのは、おかしいよ」
水が一滴も見当たらないお椀をテーブルに置き、彼は穏やかに言いました。
「作歩、み わ じ ら さ く ほ」
窓へ走り、彼は指で文字を書きました。「水和白作歩」。彼の名前でした。
「それでは、行って参ります。さようなら」
私は、ドアを押す彼の肩を、ぎゅっとつかみました。
「ハルよ、ハル! 百色ハル!」
彼は、やや驚いたようでしたが、大人びた表情になってうなずきました。
「海に行っても、覚えていて! 私、あなたに会えて、本当に…………!!」
彼がいなくなって、ドアに背を預け、膝を抱えて私は赤ちゃんのように泣きました。