第55話 境目侵犯を阻止せよ
六月。河内遠征を目前に控えた夏の日、色々な話がボクの元に届いてくる。
出征準備の日々が続いているが、それ以外のことをないがしろにすることはできない。
「本願寺から書状が届いているだと?」
妹の聖寿を経由して一条御所にお手紙が舞い込んできた。法主実如からの文書ではないが、その代わりに本願寺所属の高僧の名が書き記されている。
「まともに読む気にならぬ。出直してこいと先方に伝えておけ」
軽く目を通して、ボクは紙を放り投げた。
「兄上、もっと真摯に応対して下さいませ」
少し語気を強めて聖寿が詰め寄ってくる。
この妹ちゃんを側近の一人として育成中なのだが、考えが凝り固まっているのをなかなか矯正できない。
「『加賀を返す』の一言が添えられていない限り、読むに値せぬ。何年も前から余は本願寺にそう伝えておるのに、全く分かっておらん」
本願寺は相当に辛い立場に追い込まれているようで、今回の書状はボクとの和解を打診してきたものだった。
呪詛を始めてから一年以上経過しているのに、ボクは元気いっぱいに生活を続けている。そんなわけで、ボクはここぞとばかりに公の場で本願寺を物笑いの種にしているのだ。
おかげで本願寺の権威は大きく失墜した。信徒からは不審の目を向けられて離反者が続出。一向宗他派は本願寺の失態を好機と捉えて勢力拡張を画策。各地の武士は「呪詛が効かないなら何も恐れることはない」とばかりに本願寺の所領を徹底的に収奪。完全に本願寺の足下が瓦解してしまっている。
自業自得ですけどね。
呪詛を続ければ続けるほど立場が悪化するから、本願寺はすぐにでも停止したい。しかし、あちらにもメンツというものがあるから、ボクと和解したという事実が欲しい。今回の手紙が届いた経緯はこういう理由である。
ボクからすると和解することにメリットが全くない。むしろ放置しておいて本願寺が自壊するのを眺めておくのがベストだ。
ということを妹ちゃんに説いているのだが、納得してくれる様子がない。彼女の中での序列では神仏がナンバーワンで、次がその代弁者である寺社。将軍はこれらの下に置かれているのだから仕方がない。
まあ、人の信条なんてそう簡単に変わるはずがないので、気長に妹ちゃん育成計画を進めていきます。
聖寿を一生懸命諭していると、今度は伊勢貞陸くんが訪れてきた。
部屋に妹ちゃんを残したまま貞陸くんを中に招き入れる。
「伊勢守(伊勢貞陸)、調べはついたか?」
「ははっ、こちらにまとめております」
貞陸くんがボクに資料の束を渡してきた。
「こんなにあるのか?」
「とにもかくにも、ややこしい話のようでして」
ボクは紙の束に目を通していく。
それを横目に、聖寿が貞陸くんに質問を始めた。
「伊勢守様、何事なのでしょうか?」
「東国で揉めごとが起こりまして、それについてつぶさに調べて参りました」
「揉めごとというのは?」
「駿河の今川家と遠江(静岡県西部)の武衛家(斯波氏宗家)が争ったと報せが届いておりまする」
「なんと……。今川は伊豆に攻め込んでいるはずだから、武衛家が背後をついたということでしょうか?」
「誰しもがそう思いましたが、実情は違うようでして……」
二人が話しているうちに、ボクは資料に目を通し終わった。
「要するに、今川の方が仕掛けたということで相違ないか?」
「公方様の仰る通りにございます」
貞陸くんが頷いた。
妹ちゃんはずいぶんと驚いた表情になった。今川が東西で二正面作戦を行うとは思っていなかったのだろう。
ボクは資料を聖寿に渡してあげて、伊勢貞陸くんと話を続ける。
駿河のとある村で起こった窃盗事件で、犯人が遠江の村に逃げ込んだのが事件の始まりだ。別段珍しい話でもないが、盗んだ物が大事な仏像だったということで大問題になった。
犯人の引き渡しを駿河側が求めたのに対し、遠江側が拒否。両者の対立は武力衝突に発展してしまった。
ここで、駿河国守護今川家が騒動に介入。自領側の村に肩入れをしたのだ。
「今川が境を越えて件の村を打ちのめしました。これだけでも大ごとだというのに、今川勢はさらに全く関りがない公家や寺社の所領まで奪っております」
「そうなると武衛家も兵を出さざるを得ないな。伊勢守よ、戦いの趨勢はどうなっておる?」
「先に攻め込んだ駿州勢が押し込んでいる模様」
時期が正しいかは毎度のことながら分からないけど、今川家が遠江国に侵攻するのは歴史通りなんだよね。
しかし、ボクが河内遠征の準備をしている時にやらないで欲しかった。いや、将軍の目が東国に向いていないのと踏んで兵を動かしたのかも。
残念ながら、ボクの目はそちらも見ている。大名の侵略戦争を容認するわけにはいかない。
「此度の件は今川に非がある。伊勢新九郎――確か僧籍に入ったのだったか?」
「法名は早雲庵宗瑞とのこと」
「では改めて伊勢守に命ずる。宗瑞入道を通して、今川家はただちに遠州から撤兵するよう伝えよ。従わぬ場合は河内ではなく駿河に兵を向ける。武衛家の方には仏像を探し出して駿州へ届けるよう伝えるのだ」
「はっ。しかと承りました」
「どさくさに紛れて奪った公家や寺社の所領もきちんと返還するよう今川家に伝えておくように」
ボクのこの言葉に聖寿が怪訝そうな顔をした。
「兄上、所領も取り返すのでしょうか?」
「当たり前であろう。国境を越えて土地を奪うなど見過ごすことはできぬ」
「兄上のことだから、寺社の所領は見逃すと思っておりました」
「……なあ聖寿よ。余のことを何だと思っている?」
「仏敵でしょうか?」
小首を傾げながら妹ちゃんが酷いことを言ってきたよ! そんな風に思われていたなんて本気でショックなんですけど!
貞陸くんは必死に笑いをかみ殺している。少しくらいフォローしろよ。
「余は好きで寺を目の敵にしているわけじゃないぞ? 坊主どもが物事の道理を弁えていないから正しているだけだ」
「はあ、左様にございますか……」
この妹の目、明らかにボクの発言を疑っている。
今日はじっくりと話し合いましょう。側近にするうんぬん以前に、兄として誤解を解かなければならない。
ああ、泣きたくなってきた!




