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第39話 奇襲

 六月十四日払暁。思いも寄らない情報がもたらされた。


 それは、ボクがちょうど寝間着を脱ごうとしている時に訪れた。


「右京大夫(細川政元)から早馬だと?」


 着物を脱ぐ手を止めて、ボクは近習に問い返した。


「左様にございます。至急公方様にお伝えしたいと」


「そうか、直に会うからここへ通せ。直答も許す。あと、念のために門外に馬を引いておくように」


 ボクは近習に命じた。嫌な予感がする。


 急いで着替えをすませるのとほぼ同時に、庭へ早馬の使者がやってきた。


「公方様、鈎が敵に囲まれております! 至急助勢をお願い致します!」


「何だと? 有り得ぬ!」


 敵に襲われにくい場所であるから、細川家の当主が布陣しているのだ。敵が空から降って来たのか、それとも地面から生えてきたのかと思いたくなる事態だ。


 ボクの疑問に使者が答える。


「三上城が六角方に寝返りました! 夜闇にまぎれて兵を東から送り込んでいた模様!」


「そういうことか……」


 三上城が寝返ったことで、鈎が最前線になってしまったのだ。完全にこちらの油断である。三上城は先の義煕くんの近江遠征でも幕府側について戦ったし、今回も幕府への恭順の意を早々から示していたので裏切りなんて全く想定していなかった。


 六角行高は事前に三上城の内応工作を済ませていたのだろう。悔しいが見事だと褒めるしかない。


「よくぞ敵の囲みを破ってここまで報せてくれた。無論速やかに右京大夫を助太刀致す」


 使者をねぎらうのと同時に、ボクは庭へ飛び降りた。そして、山門に向かって駆け出す。


「奉公衆、直ちに出陣だ! 遅れるでないぞ!」


 周囲の返事も待たずに、ボクは広い境内をひた走る。


「く、公方様?」


 山門の前には、ボクの言いつけ通り馬が準備されていた。


「出陣致す! 付いて参れ!」


 言うが早いか、ボクは馬にまたがり合図を出して駆け出させた。


「公方様、お待ち下さいませ!」


 後ろから聞こえる声を無視して、ボクは単騎で進んでいく。


 まさか総大将が一人で飛び出すことになるなんて、ボク自身も想像すらしていなかった。本来あってはならないことである。それでも、ボクは政元を失いたくないという一心で馬を走らせる。


 織田信長が明智光秀の窮地を聞くや否や着の身着のままで飛び出したというエピソードがあるが、その時の信長の気持ちが今のボクには理解できる。


 後方を確認すると、十騎ほどの奉公衆が付いてきているのが見えた。この緊急時に素早く反応してくれているなんて、実に頼もしい。


 ボクは視線を前に戻し、鈎の状況を想像してみる。細川家は大軍を擁しているが、一カ所に兵を集めているということはあり得ない。よって、政元の周りにはそんなに多くの兵はいないはずである。


 それにしても、六角勢はよくもまあ見事に政元の陣を攻撃できたものである。情報伝達技術が未発達なこの時代では一人の人物の所在地を正確に突き止めるのは不可能に等しいのだ。現にボクは六角行高の現在地を知らない。


 今回の奇襲は相当な幸運だろう。当てずっぽうで仕掛けた攻撃のはずなのに、敵将の首級を狙えているのだから。


 こちら側からするとたまったものではないが。


 三十分ほどかけて、瀬田橋まで到達した。ここで一旦足を止めることにする。


「よく頑張ってくれた。少し休んでくれ」


 馬を軽く撫でてから、ボクは地面に足をおろした。


 間もなく、後続の奉公衆が追いついてきた。


「公方様、無茶はおよし下さいませ!」


「寸刻を争う。多少の無茶は目を瞑れ」


「公方様自ら出ることはなりませぬ。将棋でたとえるなら、公方様が王将にございます。万が一のことがあったらこの戦は負けとなってしまいます」


「余が王将なら、右京大夫は飛車ぞ。飛車を失ってしまったら負け同然だ」


「飛車ならば負けになりませぬ。飛車を切って勝つ例は多々ございます」


「飛車を切るのは勝ち筋を見つけてからではないか。まだ始まったばかりの局面で飛車を捨てる将棋など見たことも聞いたこともないわ」


「王が飛車を守りに行くという将棋もございませぬ」


「余が一人で行くなら、たしかに王が飛車を守りに行く珍妙な将棋である。しかし、余は奉公衆という金将と銀将を持っておる。金と銀が一緒なら支障あるまい」


「むぅ、口達者にございますな。反論できませぬ……」


 ボクが言い負かしたちょうどその時、奉公衆たちが続々と到着してきた。総勢三百人程度だろうか。まだ少ないが、あまり長々と待っている時間はない。


「これより、鈎にて包囲されている右京大夫を救いに行く。彼奴を失うわけにはいかぬ。寡兵での進軍になってしまうが、どうかこの暗愚な将に付いてきて欲しい」


 ボクは奉公衆に頭を下げた。自分の我がままに付き合えと言っているのだから。


「頭をお上げになって下さいませ、公方様」


「我々奉公衆は常に公方様と一心同体。たとえ付いて来るなと仰っても、奈落の底だろうがどこまでも付いていきますぞ」


「皆の者、かたじけない」


 ボクは良い部下に恵まれた。心からそう思う。


 先ほどまで問答していた彼に目を向けてみると、諦めたかの様子で頷いてくれた。


 後続の奉公衆がボクの前に唐櫃からびつを置く。


「公方様、具足をお持ちしました。お召し下さいませ」


 何の支度もせずにボクは寺から飛び出したのだ。ここできちんと装備を整えておかなくてはならない。


 鎧兜だけではなく、ゆがけを右手に装着した。これからの戦いはボク自身も貴重な戦力の一人である。自分で弓を引くつもりだ。


「よし、鈎へ向かうぞ!」

本将棋には序盤に飛車を切る定跡がありますが、問答している二人はその知識を持っていません。

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