第10話 小川殿事件①
延徳二年(一四九〇年)四月。ちょっとした事件が起こった。
富子伯母さんが落飾して、今まで暮らしていた小川殿から出ることを決めたのだ。
この小川殿というお屋敷、元々は細川京兆家の物だったので、伯母さんは返却しようとした。京兆家というのは細川氏宗家のことである。
京兆家の当主である細川政元は屋敷の返却を固辞したので、所有権が宙に浮いてしまった。
そこで伯母さんは小川殿を清晃くんに譲ると決めたのであった。
これが事件に繋がる。
小川殿というのは、かつて八代将軍義政伯父さん・九代将軍義煕くんが暮らしたことがあって、象徴的な建物になっているのだ。なので「日野富子が心変わりして、義材ではなく清晃を次の将軍にするつもりなのでは?」という噂が広まってしまっている。
この噂話を聞いたうちの親父様が大激怒。小川殿を破壊するとか言い出したのだ。
「父上、落ち着いて下さいませ」
その親父様をボクが説得している最中である。
「ええい! 落ち着いてなどいられるか!」
いや、頭を冷やしてよ。人様の家を勝手に破壊するとか、どう考えてもダメでしょ。この時代だとよくある話だけどさ。
相手はあの富子伯母さんなんだよ。ここで怒らせたら大変な事になるって分からないのかな?
伯母さんにとって小川殿というのは、夫や息子と暮らしたことがある屋敷だ。絶対に思い入れがあるに違いない。
「だから、落ち着いて聞いて下さいませ。小川殿は元々京兆家のもの。右京大夫(細川政元)と縁がある者に譲るというのは、別に驚くことではないでしょう」
「あの女狐がそんな殊勝な考えをするはずないだろうが!」
「女狐って……」
親父様にとって義理の姉なんですけど、そんな言い方しちゃって良いのかな?
富子伯母さんが善意だけで屋敷を清晃くんに譲るわけではない、という親父殿の考えにはボクも同意見だ。おそらくボクたち親子に対する政治的牽制もあると思う。
ただし、現時点では次期将軍の候補を変更したと決まったわけではない。ボクは伯母さんを守る立場を貫く。
「お主が言うことを聞かぬというのなら、こちらはこちらで考えがある!」
押し問答すること暫し、親父様は荒々しい足音を立てながら部屋から出て行った。
「……頭が痛い」
親父様と富子伯母さん、どちらもボクにとって重要な人だ。一応、伯母さんの側に立ったけど、これで正しいのだろうか? この事件のことは前世の知識の中にないのだ。
「兄上、よろしいでしょうか?」
妹の聖寿が心配そうな顔でやって来た。
「寺内で騒いでしまい申し訳ない」
「いいえ、私は兄上の方が正しいと思います」
妹ちゃんの優しい言葉が心にしみる。お寺育ちの娘なんだから、暴力を否定するのは当たり前なんだけどね。
というか、そもそも聖寿は富子伯母さんの猶子になっているんだっけ。今回の件は彼女にも大きい意味があるのか。
「聖寿に一つ頼みごとがあるんだが、構わないか?」
「私にできることなら何なりとお申し付け下さいませ」
「父上の様子を見ていて欲しい。万が一、家来衆に変な下知を出すような事があったら、余に報せてくれ」
「承知いたしました」
妹を味方に引き込むことができたぞ。これで一安心だ。
あと、ついでに葉室光忠をここへ呼ぶように、聖寿にお願いをしておいた。
葉室光忠は、ボクと親父様に長年仕えてくれている貴族だ。応仁の乱で西軍に所属していて、その縁でボクたち親子と一緒に美濃まで都落ちしてくれた。その後、都へ戻って離ればなれになってしまったが、昨年ボクたちが上洛した時からまたお世話をしてくれている。
公家社会に強い繋がりを持っているし、信頼できる人間だ。ボクが将軍になったら、側近の一人として抜擢したいと考えている。
「お呼びでしょうか?」
しばらく待っていると、光忠が訪れてきた。年齢は四十歳であるが、白髪も顔の皺もほとんど存在していない、若々しい外見である。
ボクは早速先ほどまでの口論のことを彼に伝えた。
「――それは由々しきことにございますな」
光忠が渋い顔になる。
「父上に気付かれないように、文を届ける手配を頼みたい」
「どちらにお届けでしょうか?」
「まずは伯母上。あとは京兆家と讃州家だ」
讃州家というのは、細川氏の分家の一つ。
親父様が暴挙に走る前に、関係者に伝えておきたい。讃州家にも報せるのは、京兆家の政元が動いてくれるかどうか不安なので、念のための保険だ。
光忠は床をじっと睨んで考え込んでいる。ボクたち親子のどっちに付くべきか考えているのだろう。
しばらく考えた後、彼は力強くこう言ってくれた。
「相分かりました。必ずやお届けしましょう」
どうやらボクに付いた方が得だと、計算してくれたようだ。
ボクたち親子の板挟み状態にしちゃってゴメンね。将軍になったら必ず報いるから。
取りあえずやれることはやったので、この後の展開を注視しておこう。いざとなったら、ボク自身が小川殿に出向いて、体を張って阻止する覚悟もあるぞ。




