55 恩人とジャズ
「それで、どうなりましたか」
「内田はきっぱりと否定しました。あの目は真剣だった。僕のいったことは、人間に対する侮辱だと思った。
内田は、きっぱりと立ち直ったそうです。素晴らしい人に出会って、救われたんだそうです。その時は、いつになく、饒舌でしたね、内田は」
「…その、内田を救った人というのは…」
「先生だそうです。こんな、大学のしがない助手の僕なんかとは比べ物にならない、真の先生だそうです。高校の先生かと思うんですが、内田は、海の底の先生とかいってました」
「…」
「まあ、深海研究者が、海の底の先生に救われた、なんて、最初はふざけてるのかと思いましたが、あの時の内田の目は本当にしっかりしていた。あのとき、僕は彼に信頼を覚えた。僕は内田に謝りましたよ。」
「そうですか。その先生については、それ以上は何もなかったんですか」
「ええ。何もなかった」五十嵐は彼の顔を見て、いった「ひょっとして、その先生は、キー・パーソンですか?」
「かも知れない。じつは、死んだマユミさんにも、かつて苦しみから救ってくれた恩人がいて、その人も、海の底の先生というそうです…」
私は首をかしげて、五十嵐を恐い目で睨みながらいった。
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ビブラフォンの音が店内に響きわたった。明るい輝くような透明な無数の音が、バスケットからこぼれ落ちるダイヤモンドのようにして飛び跳ねた。
曲はクリフォード・ブラウンという夭折のジャズ・トランペッターの死を悼んで書かれた悲しいバラードだったが、ビブラフォン奏者は、それをアップ・テンポの気持ち良いボサノバ風に料理して披露していた。
ウッド・ベースとドラムが、控えめだが的確なリズムを刻み、サキソフォンが秋の浜辺に吹く風のような音色を聴かせた。
私はカウンター席に座り、この店のバーテンダー兼専属トランペッターに、2杯目の水割りバーボンを注文した。
バーテンダーは名前を譲といい、歳は20代半ばだった。黒人と日本人の混血で、背が高く、なかなかの2枚目だった。
むだ口をきかず、黙々として客のオーダーをこなしていた。ときどき客の冗談にこたえて笑う顔は、素朴で親しみが持てた。
店の中は、ほぼ満員だった。30人と少しだろう。カウンターの椅子には彼を含めて5人すわっており、カウンターの上にも、一人、いや、1匹のビーグル犬が、うずくまってジャズを聞いていた。
聴衆は、ステージの演奏に聴き入りながら、グラスを傾け、時々きこえる氷とグラスのぶつかり合う音、話し声や笑い声が演奏の一部になり、演奏の雰囲気を盛り上げた。
「相変わらずいいですね、ここの店。ここのとこ、ちょっと、ご無沙汰だったけど」
演奏が終わったところで私はバーテンダーの譲にいった。
・・・・・・・つづく