32 一応シェークスピアが好きだった
「一応、シェークスピアが一番好きだったということだったけど、、本当に演劇が好きだったかっていうと、疑問だね。
同じ大学の芸術学部にいて、劇団の旗揚げのときに、入団を希望してきたもんだから、入ってもらったんです。人がほしかったからですね」
薄い茶色の眼鏡をかけたその男は、顎髭をいじりながらいった。
カーキ色の戦闘服のようなものを着て、缶ピースをゆっくりとくゆらせていた。年齢は、40歳になるかならないかだろう。
薄暗い地下室の大きな部屋。
もとは倉庫だったが、所有者の資材会社が倒産して、現在は1時間いくらで貸し出されるフリー・スペースになっている。
ここがその劇団の稽古場だった。
コンクリートの打ちっぱなしの空間で、ひんやりした空気が漂っていた。まだ稽古の開始時間には早く、稽古場にはこの劇団の主宰者だという男がいるだけだった。
稽古場に置かれた破れたビニール製のベンチに、その主宰者と私が腰掛けている。
主宰者はいった。
「うちの劇団としては、あいつの外見が必要だったんですよ。役者としての才能は、僕に言わせればなかったね。でも、何が才能かなんて、何が決めるのかわからないですからね」
そういって、主宰者は立ち上がり、壁によりかかる大きな木製の棚の方へ歩いていき、乱雑に積まれた紙の束から一枚のチラシを持ってきた。
「これが宮本です」
主宰者はチラシを彼に見せながらいった。チラシの裏側に、出演する役者の顔写真が印刷されていた。10人ほどの顔が二段に並んでおり、その下段の左から3人目だった。
たしかに二枚目だった。
細面で、長髪が少しだらしなく額にかかっていたが、こちらを見つめる瞳はきらりと輝いて魅力的であり、口元が少し笑っている。そこに並んだ顔写真の中でも目立つ存在だった。
「まあ、芝居のストーリーの中の味付けには使える奴でしたよ、外見だけでね。でも、存在感はあまりなかった。舞台の上ではね。
舞台の上よりも、稽古場で活躍してたな。女たらしでしたからね。破天荒なところがあって、それが受けたようですね、女に。
でも、結局はばかにされてたんだなあ。少しはそこのところが分かってたかな、あいつも」
主宰者はのびをして時計を見た。また遅刻か、と口の中でぼやき、間をおいて再び口を開いた。
「宮本が結婚したっていう話も、みんな冗談だとしか思ってなかったな。僕は一度も見てないんですよ、宮本の奥さんも娘さんも。
僕だけじゃないと思いますよ。他の連中もおそらく見てないでしょう。
劇空間に日常性は持ち込まないんだと、宮本は言ってまして、だから家族は見せない、と言っていたが、結婚話自体が、ほらだと皆思ってたでしょう」
「もう劇団には所属してはいないんでしょうか」私はきいた。
「1年ほど前に退団しました」主宰者はいった。
続けて、「それで、その女の子の死と、宮本が何か関係しているとお考えなんですね?」ときいた。
・・・・つづく