1-6 コンビナート
アスファルトの冷たさが、先ほどまで灼熱を帯びていた頭を冷静にしていく。
体中をペンキで塗りたくられたかのような気持ち悪さが支配している。絹糸のようだった髪は誰のものともわからない赤黒い体液にグラデーションされていた。
銃撃の騒動が原因か、その前の暴動が幸を奏したのか、乗っていた車は目論見通り側道にでも乗り上げたのか横転し大破していた。
理瑚はその時の衝撃で外へと放り出されていたようだ。
ポツポツと等間隔に散りばめられた申し訳程度の街灯が並ぶ夜道で、理瑚はふらふらと立ち上がった。
頭の銃創は既に治癒していた。事故の衝撃で受けたであろう傷も、その痕跡も全く見られない。全てが治癒している。
黒服達はどうなったのだろうかと車に目を向けた。
ガラスというガラスが砕け散り、拉げた車体からは僅かに人の腕のようなものが垂れ下がっていた。
その有り様を前に、それ以上中の惨状を覗き見る勇気はどうしても持てなかった。
理湖と同じように車外へ飛ばされた黒服も倒れていたが、こちらも起き上がる様子はない。気絶でもしているのかと訝る隙も与えない程にその黒服は生気を発していなかった。
その様子が何故か理湖に強烈な既視感を与えた。
映画で見たシーンか、漫画で呼んだ場面か、小説で想像した状景か――それとも知りもしない母の死を心のどこかで作り上げ、刻み込み、目の前の惨状に当てはめているだけなのかもしれないが。
血液やオイルの匂いが鼻をついた。制服や髪を侵す不快な液体に、肌を伝う生々しい感触が気持ち悪い。
「最悪ね」
小さく独りごちる。
攫われたことも、銃で撃たれたことも、血やオイルに塗れていることも、人を殺めてしまったことも――何もかもが最悪だった。
胸の奥を押し上げるような圧迫感が理瑚を襲う。罪悪感が、後悔が、嘔吐を誘う。
鬱に満たされた頭を抱え、理瑚はふらりふらりと危なっかしい足取りで歩き始めた。
彼らが何者であったのかも、ここがどの辺りなのかも、どちらに向かえばいいのかも、わかないままに。ただ、この場を離れようと、体が現状に拒否反応を示しているかのように足は動いた。
辺りは明かりの消えた薄気味の悪い建物が並んでいた。
食品コンビナート――フェンスに掛けられた、簡素な施設図に欠けた文字で記されていた。
巨大な卸売市場から、魚介、食肉、製パン、菓子と様々な食品を取り扱う製造工場、それらを送り出す流通センターなどが軒を連ねているらしい。
早朝から活気あふれているであろうコンビナートだが、夜も更けた時間帯は暫しの休息をとっているかのように人気をなくしている。
通りの左手には背丈を優に超えるフェンスが張り巡らされていた。
そのフェンス越しに見える市場は伽藍堂に開けて、その随所にトラクターがガードマンのように配置されていた。通りの右手は幾つもの巨大な倉庫が理路整然と並び、冷鉄なシャッターがその口を噤んでいる。
数メートルと歩いていないにもかかわらず理湖は重度の疲労感に打ちのめされていた。事故の余波は皆無と言っていいほどになくなっていたが、精神の汚染が理湖の体力を奪い去っていた。
マシンガンの如く連動する胸を抑え、壁に寄りかかる。
おろし金のような荒いコンクリート壁に手を押し当てると、鋭利な壁肌が皮膚にほどよく突き刺さった。その痛みが理湖にこれは現実なのだと教えてくれた。
もたれ掛かったままに空を見上げてみると、ただの荒壁が摩天楼のように天を突き刺していた。思っているよりも高い建物なのかもしれない。
頭上には薄汚れた窓、その上遥か高い所に『縫条物流センター』と一文字ずつ割り振られた看板が打ち付けられていた。明滅する街灯では光量が足りないのか、煤けた看板達がやけにさみしげに見える。
空に星はなく、どんよりとした灰色の雲が覆い尽くしていた。
どこかで、車の走る音が聞こえた。何か急いでいるのか、慌ただしく甲高いスキール音が、唸るエンジン音とともに夜の帳を震わせる。
ふと、そのけたたましいほどの走行音が止んだ。
夜闇に吸い込まれるかのように消え入った音の尾を追いかけるように、理瑚が通りの奥へと目を向けると、ひっそりとしたその通りにその車は顔を覗かせていた。