1-5 誘拐
――夢を見た。
懐かしくも真新しい、父との思い出だ。
不慮の事故で母親が死んでからというもの、父からは異常なまでに愛情を注がれていた。
平均年齢二十八歳の父子家庭にはそぐわない完全バリアフリーの家。角という角は丸く削られ、余すところなく低反発性の保護素材でコーティングされ、家で使われる刃物類の一切は子供用のソレであった。
新体操から合気道まで柔軟かつ心強い心身育成のカリュキュラムを日々こなさせられた。
完全一徹の過保護なのかと思いもするが、どこか父親との距離も感じていた。
娘の心配をしているというよりは、もっと深く、もっと根源的なところを守ろうとしているような、何かに怯えているような気さえもした。
母親が事故死したせいなのか。娘が傷つくことを異常なまでに恐れていた。早くして妻を亡くした夫の絶望が、娘を男手一つで育てていくという父親の不安が、どれだけのものであったのかは想像することもできない。
日に日に増える観葉植物や熱帯魚の数が、不安に潰されそうだった父の精神の拠り所でもあったように思える。
言ってしまいたかった。
自分は治癒能力があるから平気なのだと。
どんな傷を負っても、母親のように死にはしないのだと言ってしまいたかった。
しかし、言ってしまえば、今までの関係でいられないような気がしていた。
確信に近かった。もしも得体の知れない能力者だと知ってしまえば、親子という、家族という関係が崩れてしまうだろう、と――。
揺れる車内、ハーブの香りが包み込む空間で理瑚は追憶から意識を取り戻していた。アスファルトの凹凸に合わせて揺れる車内が、ボヤけた脳内と妙にシンクロする。
難聴気味に聞こえるエンジン音。頭に響く重低音に混ざり複数の荒息が聞こえてきた。興奮というよりは緊張が心拍数を上げているかのような神経質な息遣いだ。
外はすでに日が沈みきっていた。
スモークガラス越しに、暗闇の中を煌煌と光る街灯が次々と後方へと走り去っていく。
早く逃げなければ――と、ようやく理瑚の思考が動き始めた。
3列シートのワゴン車には6人が同乗していた。運転席と助手席、後部座席に2人、中座席は左側に黒服とその隣に理瑚が座っていた。気遣いを受けているのか、扉を挟んで過剰なほどのクッションが添えられていた。
幸いと自分の能力は治癒能力で、走る車から飛び降りたところで大事はない。
理瑚は目覚めたことを悟られないよう注意しつつ、自分の右側にあるドアの取っ手に手を伸ばす――が、そのドアには取っ手と呼べるとっかかりはなかった。
護送車のようにあつらわれたその車両は、外側からのみ開く構造となっているようだった。
たかが治癒するだけでは、現状から脱却できない。
理瑚に少しずつ焦りが生じる。
焦燥が理瑚の脳裏に絶望を浮かべ、考えたくもない妄想を生み出していく。
治癒能力の末路など決まりきっている。どんな傷も瞬く間に、そして完全に治るのだ。これほど生体実験にお誂え向きの実験動物は居ないだろう。
自分の体が切り開かれ、切り刻まれる姿を想像し理瑚は青ざめる。
なんとしてでもここを逃げ出さなければ――でも、どうやって?
切羽詰ったように何度も自分に問い掛ける。ドアを開くことはできない――反対側は? 開くかもしれないが、その間に座る黒服をどうにかする必要がある。いや、隣だけではない、大胆に動こうとすれば後ろや、助手席の黒服も黙ってはいないだろう。
いっそのこと大暴れしてやろうか、と理瑚は悪魔のような考えを思いついた。
暴れまわり、結果的に車を事故にあわせることができれば、治癒能力者である理瑚以外は無事では済まないはずだ。逃げ出せる上に相手を一掃できる、そんなことが最良の案に思えてしまう。
思考の中で頭を振るった。
そんな化物のような考えを振り払った。
自分が誘拐されているという事態に陥ってもまだ、誰かを殺すということを最大のタブーとする人としての道徳は保っているのだ。
「おい、まさか目を覚ましてるんじゃないか」
突如発せられた後部座席の黒服の野太い声に、理瑚の心臓は飛び出しそうになった。
視線だけで辺りを確認していたはずだが。無意識に車内の揺れに対応していたのが、逆に不自然に映ったのかもしれない。
「まさか、常人なら数時間は眠ったままのはずですよ」
「バカ野郎! 人の尺度で図るな。コレは……」
襲撃者にとってはたわいない、咄嗟に出た一言だった。たったそれだけの、普段あだ名で呼び合う子供たちが喧嘩の際にうっかりオマエなどと呼んでしまうくらいの。
しかし、たったそれだけの一言で理瑚の理性は簡単に吹き飛んだ。
人間でありたいと切実に願ってきた。
それ故に、理瑚の理性と言う名の支え木を黒服の発した心無い一言が、簡単に足蹴にした。
もう、どうでも良い。今更、自分が化物だと思われるかどうかなどどうでも良い。体を埋め尽くす理性を一気に掃き出すように、理瑚の逡巡は振り払われた。理瑚の頭は化物と化した思考で埋め尽くされていた。
睡眠薬で眠らせていたための油断か、体を拘束されてはいない。手足を自由に動かせるなら盛大に暴れることも可能だ。
隣にいた黒服が茶褐色の瓶を取り出していた。ガラス製の栓を慎重に取り外し、タオルヘと中の液体を染み込ませていく。催眠薬のようなものだろうか。
その行動に急かされたように理瑚は起き上がり、運転手の首めがけ腕を伸ばした。運転手に後ろから首に腕を回し、全体重を後へ傾けて力一杯絞め付ける。
「ひぃい、や、やめっ、やめろっ。だ、誰かっ」
突然の拘束に驚いたのか、運転手は予想以上の狼狽を見せた。
首を絞める力の強さに呼応するかのように車が右へ左へと蛇行する。
「コイツ――っ」
大きく蛇行する車に慌てた隣の黒服は、液体の染みこんだタオルを荒々しく理瑚に押し付けようとした。
「――うっ!!」
慌てた黒服は勢い余ったのか、薬液の染みこんだタオルは理瑚の鼻を強く打ち付けるだけだった。
鼻に受けた衝撃に薬を吸い込むどころか、瞬間的に呼吸を詰まらせてしまい、同時に運転手への拘束も外してしまう。
鼻腔に生暖かい流動を感じ思わず手で覆う。容姿を気遣う必要などない、暇などない状況だったが、そこは理瑚も年頃の少女であるということなのだろう。
「バカ野郎!」
慌てた様子で野太い声が隣の黒服を叱咤した。
その意味を考えている間もなく、理瑚の鼻からは殴打の痛みが急速に引いていく。流れ出るかと思った出血も呆気ないものだ。
後方からの叱咤に怯んだのか、隣の黒服の動きが止まっていた。その隙を逃さんばかりに理瑚は即座に黒服へと足を突き出して反撃を繰り出した。
腹部を蹴飛ばされた黒服は、体に力が入っていないのではと思うくらいに、いとも簡単に反対側のドアへと吹き飛び、動かなくなった。
その状態に、理瑚が相手の打ちどころでも悪かったのかと、多少の情を取り戻しかけたところに、
「ば、ばけ、バケモノが!」
新たに罵声が浴びせられた。
怒りのような、怯えるような、ヒステリックな喚き声で――声の主である助手席の黒服が大きく体を捻り腕を伸ばした。
その手には拳銃が握られていた。
銃口は理瑚の眉間に突き付けられ、カタカタと黒服の動揺に合わせて振動する。
いつ暴発してもおかしくない危険な状況だった。
「よせっ!」
すかさず叫ばれる野太い静止も虚しく――撃鉄が鳴いた。
車内に乾いた炸裂音が轟き、銃口から放たれた弾丸が理瑚の頭蓋を貫いた。
車内に鮮血が飛び散り、灼熱の衝撃が理瑚の意識を再び奪っていった。