1-2 自己治癒能力
――自己治癒能力。
最初からこうだったわけではない。
幼い頃の記憶はどれも靄が掛かったように不鮮明で不確かではあったが、その出来事だけは鮮明に思い出せた。
まだ滑舌も覚束無い幼少期、親の目を盗んで包丁を弄び、理瑚は思わず自分の手を傷つけてしまった。
5センチ程の赤い線が手の甲に描かれ、そこから湧水のように滲み出る血液が、熱を帯びた痛みを増長させていった。
幼い理瑚には、傷口を伝い玉となって床に落下していく流血も、ジンジンというオノマトペを繰り返す痛みも、永遠に止まることがないのではないかと感じられた。
しかしそんな不安も直ぐに母親が吹き飛ばしてくれた。
子供を叱咤する鬼気迫る怒声や、本当に心配そうに理瑚の傷を慮り、施した不器用な包帯の巻き方は理瑚の胸により克明に刻まれている。
理瑚にとっては、傷ついた手から血液が流れていたその時が、ひどく叱られたその時が、不器用だったとしても治療が必要であったその時が、最も『生』を感じた瞬間だった。そして最後の瞬間だった。
すぐにも、そんな生き生きしたエピソードは理瑚の日常から消え失せた。
小さな傷は覚えていない。
負ったことも、治癒の経緯も、通常誰もが些細な出来事を記憶に留めないように、理瑚の記憶にも残ってはいない。
幾度かあった怪我も十秒より長く身に刻まれていたことはなかったし、ここ数年は全くと言っていいほど不注意で傷を作ることすらなく暮らしてくることができていた。
+-----------------------+
「あの空気の読めなささっていうか、ズレたところも先生らしいっちゃ、らしいけどね。それでも教師っぽさっていうのも、絶対的、必要的、実際的には滲ませて欲しいよね」
柑奈の人懐っこい声に理瑚は追憶から戻った。
過去の記憶に鬱々とした吐息を漏らし、理瑚は思いつめたようにペンケースにしまわれていたカッターナイフを取り出していた。
等間隔に切り目の入った刃を自らの手首にそっと押し付ける。きっと、軽く引くだけで皮膚から赤い血液があふれ出ることだろう。
「それにしてもいつまで語ってるつもりだろうね――って、えっ!? ちょっ、ちょっと、何してんの!? 理瑚ちゃんっ!」
慌てる柑奈を尻目に、理瑚はカッターを持つ手にぐっと力を込め――しかし、そのままゆっくりと手首から離した。
切りつけたところですぐにその傷は塞がることだし、そんなところを誰かに見られるわけにもいかない。
小さい頃から理瑚は超能力を秘めていることは内緒にしておいた方がいいだろうと、幼心にそう感じていた。
成長するにつれて、世間を知るにつれて、その思いつきは現実味を帯び確信へと変わっていた。
超能力を持つという意味も、その業も、そのリスクも。
人と違うということがどういうことなのかということを、その胸に刻まされていったのだ。超能力というものがそれを持たざる者にとって、どれほど恐ろしいものか、どれだけ妬ましいものなのかということを。
「ちょっとちょっと。理瑚ちゃん、自傷行為? そんなことする子は、暗いよ、陰気だよ、陰険だよ?」
「別に、なんでもないわよ」
柑奈の心配しているのか馬鹿にしているのか微妙な言葉に理瑚はさらりと返す。
一体、どれだけの傷までなら治癒できるのかと、試してみたくないわけではなかった。
どの程度の傷を負えば致命傷となるのか。もしかすると、頭を銃で撃ち抜かれたとしても死なないのではないか。
そんな妄想に取り憑かれ、いっそのこと校舎の屋上から飛び降りてみようかと考えたこともあった。
しかし同時に――もしも、本当にそんなことをして本当に死ななかったら、とも思う。死んでしまうことよりも、死なないでいてしまうことの方が怖かった。
頭を撃ち抜かれても、心臓を突き抜かれても、首を切り落とされても、たちまちにその傷が回復して生き延びてしまったら。
傷を負い、迅速に治癒する。その程度が大きくなればなるほど、自分が人間ではない何かに変わっていくような感覚にとらわれる。
ただ人の皮をかぶり、人に成りすますなにかに。
化物か、悪魔か、妖怪か。
その身に宿る超能力が有能なら有能なほど。異常なら異常なほど。
自分は人間という存在からは遠ざかり、人ではない何かになってしまいそうだった。自分という存在だけが他の人たちから大きくかけ離れていく。人の生きる世界からずれていく。まるで真夜中の樹海にでも一人放り出されてしまったかのような、途方のない恐怖と不安が心を蝕んでいく。
理瑚はそんな自分を知っていく度、他人から遠ざかるように、他人を遠ざけるようになった。誰にも知られなければ自分が化物になることもないのだから。
不思議と理瑚は人と関わることが少なかった。ソレはおよそ影が薄い、と言われる人たち以上に、人に特別視されることがなかった。
友達がいなかったわけではないが、ただ誰もそこにいる理瑚を気を止めることなく、理瑚のことが話題にあがることもなかった。
異常なまでに。普通なら人目を引くだろうその類まれな容姿とは裏腹に、どこかその存在は希薄であった。理瑚の能力よりも、よほどそのことの方が普通ではないといえるくらいに。
だが、図らずも願ったり叶ったりではある。無闇矢鱈と超能力が知られないためには。
それでも、人の輪に入りたいという気持ちがないわけではない。だから、たまに話しかけてくる人物がいれば(おおよそは理瑚だからではなく不特定の、誰でもいいから話そうとする人物に限定されるが)嬉しい気持ちが沸き起こった。
「はぁ~。やっと終わったよ。ビデオより長かったんじゃない? 先生語り」
それにしても、だ。理瑚は疑問に思う。
「それじゃ、帰りますか、帰宅しますか、下校しますか。ねぇねぇ、理瑚ちゃん。放課後はどうするの?」
「ねえ、なんでアンタって、そんなに私に構うの?」
何故か柑奈だけは、周りの人間が普通の人に接するように接してきた。
理瑚を超能力だと知らないはずの柑奈にしてみれば、普通に接するのも当たり前と言えば当たり前ではある。しかし、そう言った普通の人間関係を理瑚は自ら避けていたはずだった。
「???」
思いもよらぬ質問だったのだろう、柑奈はパチクリと瞬き、しかしすぐに笑顔を取り戻して答えた。
「そんなの決まってるじゃん。理瑚ちゃんが可愛いからだよ。そう、そんなに可愛い理瑚ちゃんが悪いんだよ?」
子供を見守る母親のような優しい笑顔で、しかしセリフだけは看過できない。
「なによ、その開き直ったストーカーみたいなセリフ」
「もうなんていうか、その幼子のように潤いあふれるキメ細かい肌も、モデルさん顔負けのスタイルも、切れ長の涼しい目も、均整のとれた顔立ちも、艶やかな金髪も、そんな美貌を持ちながらもどこか儚げな表情も。その全てがもう、直球ど真ん中です、どストライクです、一目惚れでした」
「なに告白めいたこと言ってんのよ」
「理瑚ちゃん。付き合ってください、交際してください、お味噌汁作ってください!」
「本当に告白してんじゃないわよ! てか、最後のプロポーズ?!」
「パンツを洗ってください。いや、洗わせてください!」
迫る柑奈に、理瑚は思わず後ろずさる。
有無を言わさず力強く理瑚の手を握り締めた柑奈の目は、発情期の犬猫のように爛々と輝いていた。