1-1 白波瀬理瑚
血が滴り落ちる。
白銀の刃が鏡のように光を反射した。
その大きく鋭い刃は、幾ばくの躊躇も見せずに白桃色の皮膚を切り裂いた。刃を優しくなぞるように紅色の雫が滑る。
初めは首の前方から半分ほどに刃が入れられた。
頚動脈が切り裂かれ、蠢く幼虫のように胎動していた首筋からその息の根が止まる。
チーズを裂くかのように軽やかに切断されたソレからは、新鮮なトマトジュースよりも朱く、焼け溶ける溶岩よりも緋い、不気味な液体が止めどなく流れ落ちていった。
その刃は首を切る。
その刃は腕を切る。
その刃は腹を切る。
皮を切裂き、
肉を断絶し、
骨を剪断する。
大樽の上に逆さに吊るされたソレは悲鳴を上げることもなく、絶叫を轟かすこともない。
懇願も悲願も哀願も漏らせずに、ただ血が溜まり不明瞭になった思考で、視界で辺りを映し、そして消えていく。
手を休めることなく次々と刃は加えられ、ソレは瞬く間にただの肉塊ヘと変貌していった。
それは、『生き物』が単なる『物』へと変わる瞬間だった。
授業中にも関わらず生徒の話し声で賑わう教室で、白波瀬理瑚はつまらなさそうに頬杖をついていた。
理瑚から零れる吐息が、スクリーンに映し出される尊き生命への哀れみなのか、道徳と呼ばれる退屈な授業に対する嘆息なのかは、彼女自身にも判然としない。ただただ映し出される非道とも残虐ともとれる映像を、虚ろな瞳で眺めていた。
週末の午後授業に流れる、春のうららかさとは程遠い衝撃映像――なんの変哲もないアットホームな家族に飼われていた豚という生物が、一家の主によって食料へと転換される様を描いた教育ドキュメンタリーだ。
どこか他人事のような、それでいて妙に感情移入を誘うナレーションが次々と豚が加工されていく様子をリポートしていく。
番組冒頭、笑顔で駆ける子供たちの横を何も知らず元気に歩いていた豚は、番組三〇分経過した時にはその全てが食料へと加工されていた。
映し出されているソレはもはや豚肉という食べ物であり、先程まで呼吸していた豚という生き物ではなくなっていた。
「さぁて、みんなどうだったかな?」
スタッフロールの流れる画面を感慨もなく消し去り、やたら能天気な声で担任教師が登壇した。
そのアッケラカンとした性格と話しやすさから生徒からの人気は高く、彼女のどこかずれた発言は、周囲を和ませることも多かった。
「つまりねぇ、豚には捨てるところがないということなのよぉ。内臓から骨、血液に至るまで、ありとあらゆる製品に加工されるわけなのよねぇ」
いつものようにどこかズレた発言が、しかしこの時だけは賑やかな教室を瞬時に沈黙させた。皆騒いではいても映像の内容と、この授業の言わんとすることぐらいは把握しているのだ。
自分が他の生き物の命を頂くことで生きているのだと実感させること。ともすれば行き過ぎた動物愛護へのアンチテーゼをも制作者側は含ませているのかもしれないが。
そんな映像を後にして、食肉加工業者視点の論説を始めるこの教師は、道徳の意味を理解していないのだろう。
「骨は細かく砕き、血肉は混ぜ合わせ、内蔵は袋にしてハム・ソーセージを作る。ある物はボイルし、ある物は煙で燻し、ある物は塩漬けし、製品の違いによって様々な加工を施して味を豊かにする、と同時に保存性を高めるわけ。さらに――」
「いやぁ。熱いねぇ、語るねぇ、熱血だねぇ。相変わらずだよね、我らが担任は」
担任の一人トークが咲き誇る中、一人の少女が理瑚の背後から声を潜め話しかけてきた。理瑚の後ろの座席の少女、椎谷柑奈だ。
ショートボブの黒髪に、人形のように整った顔。薄い唇から零れる人懐っこい声色は、小声で話していてもよく耳に届く。
「相変わらず情熱の向けどころが残念だけどね」
猫が背伸びをするように机の上で体を伸ばす柑奈に、理瑚は気だるそうな声で答えた。
「ほぇ? なんか元気ないね理瑚ちゃん」
理瑚の思いのほか覇気のない声に、柑奈が心配そうな眼差しを向ける。
「ちょっと、ね……」
「確かにショッキングな映像だったよね」
衝撃映像――言葉にしてみれば確かにその言葉がしっくりときた。だが、理瑚の頭に強烈に刻まれたものは皆が感じたような衝撃ではなかった。
あらゆる豚肉製品が製造されることでも、とある家族がたとえ短い時間でも共に生きた豚を殺して食べるという状況でもない。
それはただ、刃を入れられた生物から血液が流れたこと。切られた部分が切傷となり、切断面となり、やがては肉片の表面となる、そんな当たり前の現象だった。
自分なら、切断面を見ることは愚か、些細な切創すら残ることはない。
白波瀬理瑚の傷は回復する――誰もが傷ついた際に治癒していくその過程を、あざ笑うかのように逸脱した早さで回復する。
人を見たら超能力者だと思え、と言われる時代。
それでも、自分が超能力者であるという事実に理瑚は思い悩むところがあった。何かチート的な、ズルをしているような気持ちになって仕方がなかった。
しかしそれ以上に、回復能力という特質性は実験体や被検体といった背筋を凍らせるような悍ましい連想を呼び起こさせた。
理瑚は自分の細腕を見つめた。
傷一つない透き通るような白い肌、瑞々しく滑やかで赤子ですらその肌の前では不摂生に映るだろう。
自分はいつからこうなんだろうか――と、理瑚は考える。