あそこへいく夏の夜
裏野ドリームランドはいつ建設されたのか、開園したのか、閉園したのかわからないがとにかくS県の山奥にあり、「行けば誰かが一人必ず神隠しに遭う」ともっぱら噂の廃墟だ。
手に握るスマートフォンの液晶画面には二◯一七年八月三◯日の日付が表示されている。
時刻は二一時一六分のようだ。
いま一分進み、一七分となった。
ブルーライトが煌々と少女カヤの顔を照らす。
あたりは夜である。
雑木林の中であるため暗闇だ。
明確に何の虫とは言えない虫の声が延々聞こえている。
風は吹かない。
蒸し暑い。
このごろは雨が続くことも多かった。
地面が雨水を吸い、湿気を生んでいるようだ。
スマホの液晶画面に一件、メッセージを受信したことを告げるポップアップが出た。
白い背景のポップアップには「なんか変なところに入った。ここ、たぶん裏野ドリームランドかも」と文字が記入されている。
感情のない無機質な文字である。
地元の高校二年生のカヤは今日、夏休みの最後から二番目の夜、同い年の従妹・智恵美と二人で肝試しのため裏野ドリームランドを目指していた。
舗装された山道を自転車で駆け抜け、そのまま自転車に乗り、入り組んだあぜ道の進めるところまで進み、獣道を見つけてからは徒歩で山奥に入った。
だが途中智恵美とはぐれてしまった。
はぐれてすぐ、智恵美から連絡が入った。
お互い合流しようとは思いつつも獣道に目印などなく、それらしき声も届いてこず、ただ蒸し暑さと肌を刺してくる蚊や、スマートフォンの液晶画面にまとわりついてくる羽虫と格闘しながらカヤはひとまず先を進んでいたのである。
そして先ほど、智恵美から例の裏野ドリームランドらしき場所に辿り着いたとのメッセージが到着したのだった。
遊園地ならば大きいだろうし、すぐに、もしくはそのうち見つけられるかもしれない。
まだ歩き続ける余力は残っている。
カヤは額の汗を片腕で拭いながら、さらに雑木林の奥へと進むことを決めた。
「今どこ?」
智恵美からのメッセージだ。
そんなことを言われたってカヤには現在地など不明である。
いくら地元とはいえ雑木林の中を探索するのは未知の体験だ。
カヤは返信はせず、ひたすら草木の中を突き進んだ。
するといつの間にか、カヤはどこかの廃墟らしき場所に辿り着いた。
カヤはあたりを見回す。
暗闇の中に、より黒い大きな物体が丘のようにしてそびえているようだった。
カヤはかねがね宇宙の暗黒に対する恐怖心を持っていたのだが、今、それと非常に似た気持ちに襲われている。
いびつな形をした――もっともそれが正確にはどんな形をしているのかは知らないのだが――ブラックホールを目の当たりにしているかのようなのだ。
それにしても山奥に丘とは不思議なものであるが、カヤにとっては不思議か否か、不釣り合いか似合いかどうかなどどうでもよかった。
そこに大きなものがある、ということだけがわかれば、さらにそれが廃墟であるならば、カヤにとってとりあえずは事態が好転するのである。
雑木林はすっかり拓けていた。
星空がくっきりと見える。
カヤの体を痛くする枝も葉もトゲもない。
カヤはどこかせいせいした。
「もしかしてカヤ裏野ドリームランドに来てくれた?」
またしても智恵美からの所在を問うメッセージを受信した。
ちょうどいいので、そのとき光ったスマートフォンの液晶画面を使い、眼前のブラックホールを照らしてみた。
錆びついた大きな門には赤茶色で「裏野ドリームランド」と書かれた文字がこびりついており、カヤはとうとう噂の遊園地に来てしまったのだと知る。
事態はたしかに好転したが先ほどとは違う恐怖心が芽吹いてきた。
智恵美もこの門の先だろうか。
門は鎖や錠で閉められている様子はない。
カヤはおそるおそる裏野ドリームランドの門をくぐった。
「いま観覧車なんだけど」
智恵美からのメッセージだ。
どうやら智恵美は観覧車のところにいるらしい。
遊園地の敷地はアトラクションが解体途中で放置されている状態であることがわかった。
中途半端に進路が遮断されたジェットコースターや、馬や馬車を剥ぎ取られたメリーゴーラウンドの跡地がある。
アクアツアーやキャッスルもあったようだ。
唯一現存しているのは、姿を現したこの観覧車のみのようなのだが――。
「えっ?」
カヤは驚いた。
目前に迫った観覧車が、なんと動いているではないか。
おかしい。
ここは廃園された遊園地のはずだ。
だがゆっくりと、円形の観覧車は確実に〝回っている〟。
カヤはしばし呆然とした。
このとき智恵美の行方などすっかり頭から離れ、あり得ない光景に目を奪われていた。
いや違う。
自分はここに智恵美を捜しに来たのである。
カヤはそう思いなおし、周囲に人の姿を探した。
智恵美はいない。
だが観覧車は、ここのほかには無さそうである。
とするならば智恵美もここにいるはずなのだが――ちょうど一台の車両がカヤの目の前に入ってきた。
そして古びた音を立てながら、ごく自然にカヤを招き入れるかのように車輌の扉が開いたのである。
智恵美だろうか。
智恵美が開けたのだろうか。
ここからでは車輌の内部は見えないが、カヤの中では智恵美のほかに考えられる人物はいない。
「智恵美?」
カヤはとうとう思い切って車輌の内部へ足を踏み入れた。
ところがそれは間違いだった。
「ねえカヤまだ?」
智恵美からのメッセージを受信したのはカヤがもうすでに車輌のベンチに座り、誰かによって扉を固く閉められたあとのことであった。
カヤが乗った車には何かのマスコットキャラクターのような、ピンク色をしたウサギの着ぐるみが乗っていた。
前歯が剥き出しである。
目は斜めを向いたまま動く気配はない。
きっとそういう作りなのだ。
肩からブルーのポシェットをぶら下げている。
ウサギの全体像はお世辞にも可愛いとは言えないが、好きな人は好きなのだろう、そういうキャラクターだとカヤは思った。
智恵美ではなかった。
気が動転しそうであった。
身体じゅうから冷たい汗が吹き出した。
かと思えば顔は火照り、この状況をどうしたものかとカヤを焦らせる。
全身が身震いし、カヤは急いで降りようとしたが、カヤが通ったはずの扉はやはりびくともせず開かなかった。
おまけに観覧車は回っているので今降りたところで地に足は着かない。
へたに飛び降りると怪我をしてしまうことは明白だ。
宙に浮いた車輌が揺れる。
カヤはこの場に充満する恐怖を打開したかったが、外へと飛び降りる勇気もまた無かった。
「あなた智恵美?」
万が一にもウサギが智恵美なのかと思い話しかけたカヤだったが、ウサギは智恵美ではないことが、この次にウサギが発した言葉によって決定される。
「このまましばらくお付き合いください。これが一周するまで」
ピンクのウサギの着ぐるみから、着ぐるみの中から、男とも女ともわからない声が言った。
少なくとも智恵美の声ではないことが、カヤの中で、ウサギは智恵美ではないということを裏付けた。
「この観覧車を降りた時には戻れますから。何も、取って食おうというわけではありませんから」
とウサギは続けざまに言った。
空気は非常に不愉快だ。
空気がよもや粘り気をまとったかのようである。
夏は、好まない風ばかり吹くが、それでもそんな温風ですら今のカヤには恋しくなった。
見た目が可愛くないからといって相手が必ずしも自分に悪意を持っているとは限らないことをこのときカヤは初めて知った。
ウサギはカヤに寄り付くことはせず、一定の、人間一人ぶんの空白を置いたまま座り、着ぐるみの中ではどうか知らないがウサギの顔はカヤのほうを向くことすらない。
ぼうぼうという観覧車の稼働する音を聞きながら、カヤは思い切ってウサギに智恵美がいないかどうかを尋ねた。
同時に智恵美の身体的特徴を告げたのだったが、ウサギは断言するかのごとく「ここにはいません」と答えた。
「いちゃいけません」とも言った。
その意味はカヤにはわからなかった。
ひどい沈黙である。
カヤは観覧車が一周するまでのあいだ、ウサギになぜ観覧車だけが動いているのか、裏野ドリームランドの神隠しの噂は本当なのかを聞いてみることにした。
カヤは、このウサギはどうも〝この場〟に慣れていると感じたからであった。
ウサギは微動だにせずこう答える。
「うろつく人間がここに迷い込むのは仕方ないことでしょうね」
それが最初の言葉だった。神隠しについて答えてくれているらしかった。
「その多くは幼児ですが、中にはたまに成人や高齢者も神隠しに遭っているんですよ。最近は……そう、高齢者が多いですね。あなたのおじい様おばあ様のような。いいや会ったことはありませんがね。しかし高齢者がよくうろつくものだと思いますよ。でもみんなここに迷い込み、きちんと戻るべき場所に戻っているのだから、いえ……本来戻るためにここに迷い込むのですから、けっして神隠しではないとわたしは思いますよ」
ウサギは相変わらず男か女かわからない声だ。
性格や態度も、およそ子ども向けのマスコットキャラクターとは思えない淡白なものである。
それとも〝そういうキャラクター〟なのだろうか。
カヤには流行はわからない。
「観覧車は、迷子の気持ちを落ち着かせるためにちょうどいい時間と空間を設けてくれますから、こうして動かしているんです」
と淡白なウサギは締めくくった。
以上がカヤの質問に対する返答ということだった。
もしもこのウサギが本物のウサギだったなら、そしてそれを焼いて食べたなら、おそろしく乾燥していそうだなとカヤはぼんやり考えた。
ウサギの言葉を省みてみる。
密閉された空気の中でカヤは不思議に思った。
ウサギの口ぶりだと、まるで「迷子のためだけに観覧車が動いている」ようだと思った。
思ってすぐ、カヤはその旨を包み隠さずウサギに伝えた。
「何をおっしゃいますか」
ウサギは言う。
「観覧車だけでなく裏野ドリームランドそのものがそのためにあるんですよ。この世界にはどうしても、迷子というのが生まれますから」
とウサギは言うのだった。
そのときちょうど観覧車が一周し終えた。
扉が開いた。
カヤは急いで観覧車を降りる。
温暖な風が頬をかすめたそのとき――「出して」そんな声が聞こえた。
かすかに聞こえた。
「出して」?
カヤは声がした方、己の背後へと振り向く。
ウサギだろうか? いいや、幼児のような声だった。
カヤが背後へ振り向いた瞬間、ジェットコースターの稼働音と乗客の楽しそうな悲鳴が聞こえてきた。
カヤは驚く。
ジェットコースターやメリーゴーラウンドは解体途中のまま放置されていたはずだ。
だがメリーゴーラウンドもメルヘンチックな音楽を鳴らしながら客を乗せて回っている。
馬や馬車が剥ぎ取られた様子はない。
ジェットコースターだって進路はきちんと整備されている。
アクアツアーやキャッスルも、ミラーハウスも営業しているようだ。
なにより敷地はライトアップされており、非常に明るく、客も多い。
そう、「客がいる」のだ。
カヤは混乱し、開いたままの車輌に残っていたウサギに詰め寄った。
「ここは裏野ドリームランドじゃないの?」
カヤが言いたいのはここは廃園された遊園地ではないのかということだった。
「まぎれもなく裏野ドリームランドですよ」
ウサギは続けて、
「君は四九日間だけ遊ぶことを許されています。今日からね。ほかの客も同じです」
と言った。
「さっき声が聞こえたのは?」
カヤは車輌を無理やり引き止めながら言った。
「声?」
ウサギは首をひねる。
カヤは無性に腹が立った。
「〝出して〟って言った! なんかここ、やばいんじゃないの⁉︎」
「それはきっと未練がある子どもの声だったのでしょう」
「未練? なにが? なんの話?」
「行方不明になった子どもの、いつまで経っても自分を捜しに来てくれない親への、この裏野ドリームランドを〝通過〟してもなお死んでも死にきれない未練だということですよ」
カヤは自我を失い、呆然としつつも改めて遊園地の中を見渡す。
幼児が多く、時おり成人や高齢者が通りすがっている。
子どもが手離してしまったらしき風船がいくつも舞っている。
その風船を追いかける子どもの声はどこか嬉しそうだ。
ごくふつうの――ふつうの遊園地だ。
だがその光景はひどく不自然である。
カヤが遊園地の風景に気を取られているうちにもウサギが乗ったままの観覧車は動き続けていた。
「元の場所に戻して!」
ウサギは自分を置き去りにしようとしている。
そう悟ったカヤは、ウサギが上空へ行ってしまう前に、ウサギへと叫んだ。
だがウサギから返ってきたのは、
「死んだ者に戻るべき現実世界はありません。ここがあなたが戻っていくべき世界です」
という言葉だった。
それ以来、何周待とうがカヤの前にウサギがふたたび現れることはなかった。
観覧車に乗っても、またこの明るい場に戻ってくるだけであった。
一方、闇夜に侵食された暗い裏野ドリームランドの跡地にて、一人観覧車に乗り続けるウサギは頭部を取った。
その顔は、カヤの捜していた智恵美だった。
智恵美は肩からぶら下げたブルーのポシェットから一枚の紙を取り出す。
その紙にはこう記されていた。
【迷子案内通知】
予定日:迷子死亡者から十年後の二〇一七年八月三◯日夜
案内人:親類縁者
(備考)
迷子死因:遭難による餓死
捜索者おらず
「智恵美ちゃーん! もう朝よ。夏休み最後だからって寝てばかりいないの」
S県郊外の住宅街にある、とある家庭では午前九時現在、主婦のものらしき声が響いていた。
「おばちゃん今日は町内会の集まりだから。朝ごはんはチンしてねー!」
智恵美はベッドの中で身をよじった。
叔母の声で目が覚めた。
智恵美は枕元に置いておいたスマートフォンで現在の時刻を確認する。
二〇一七年八月三一日、午前九時ちょうどだ。
いま一分が経過した。
スマートフォンの画面をオフにしようとボタンに触れかけたとき、タイミングよくポップアップが現れた。
「ん? 案内……完了? なんだこれ……」
なんのアプリから出現したポップアップなのだろう。
ポップアップが消えたのち探そうとしたが、ポップアップの通知一覧は空白である。
それらしきアプリも見当たらない。
「まいっか……」
昨日ここで開かれた法事の後片付けが残っている。
智恵美はベッドから起き上がった。
「ねえ智恵美出して、帰りたい」
智恵美がいなくなったベッドの上で、智恵美のスマートフォンにふたたびポップアップが映し出された。
(了)