とっておきのプレゼント
「いらっしゃい、優月ちゃん」
麻由美の第一声は、恋人であり本日の主役であるはずの僕にではなく、妹の優月に向けられた。
「やっと来てくれたわね。三度目の正直。プラス一で」
「だって、お兄ちゃんの誕生日なんてどうでもいいし」
優月は面倒くさそうに僕を見て、ため息をついた。
「今回だって正直、私の婚約祝い付きだって聞いてなかったら来てませんよ」
「良かった。作戦がうまくいったのね。ほら、綾子も喜んでるわ」
「います?」
「ええ。和樹のすぐ隣に」
「綾子ちゃん、来たよ」
優月は僕の左隣の空間に手を振る。
僕にはその姿は見えない。優月にも見えていないはずだ。
綾子は麻由美の妹で、僕たちが出会う少し前にこの世を去っている。
理由は聞かされていないし、聞いていない。
ただ、麻由美にとって綾子の損失がとてつもなく大きかったことはわかる。
すでにこの世にいない存在が、今でも見えていると言うのだから。
「綾子は、ずっと私のためにいてくれてるの」
麻由美は言い、優月もそれを信じているらしい。
僕はというと、そうした話を信じていない。というより、むしろバカにしているくらいなので、麻由美が見ているのは妹の霊などではなくただの錯覚、もしくは思いこみだと結論づけている。
もちろん、口には出さない。
錯覚や思いこみだとしても、彼女の支えになっているのなら、それはそれでいいと思っているからだ。
「さ、二人ともあがって」
「お邪魔します」
優月はさっさと靴を脱ぎ、小走りで部屋の奥へと消えた。知らないうちにずいぶん親しくなっていることに、少し驚く。
「和樹も、ほら」
麻由美がようやく僕を見て笑顔を浮かべる。
「今日は素敵なバースディになるわよ」
「どうせ、優月の婚約祝いのおまけだろ」
「おまけは婚約祝いのほう。メインはあくまでも和樹の誕生日祝いよ」
「ほんとかな」
「ほんとよ。綾子と二人で考えて、とっておきのプレゼントを用意したんだから」
「へえ」
見えない妹と二人で用意したプレゼント。
「ほら、入って」
麻由美に腕をとられて、僕は彼女の部屋へと足を踏み入れる。
「そのプレゼント、ちゃんと見えるのか?」
そんなジョークを思いついたけれど、言わないでおいた。
※
麻由美の部屋で開かれる僕の誕生祝いは、彼女とつきあい始めてからずっと続いている。
派手な演出はないけれど、ちょっと贅沢な手料理は嬉しかったし、僕の趣味を度外視したプレゼントも―― 一年目はクジラのぬいぐるみ。二年目はプリザーブドフラワーの壁掛け、三年目となる去年はオルゴール付きの小物入れだった―― 何だかんだで楽しみになっていた。
四回目となる今年も、いつもと同じように期待していたけれど……。
「それで、相手はどんな人?」
「普通ですよ。普通の会社員」
「プロポーズはどっちから?」
「まあ、一応、向こうから」
「なんて?」
「えー。言うの?」
僕の誕生日と優月の婚約を祝う乾杯のあとは、どう言うわけか、おまけのはずの婚約話のほうが盛り上がっていた。
優月も面倒くさそうな素振りをしてみせるだけで、まんざらではなさそうだ。仕草のたびに薬指のリングをちらつかせるのが鬱陶しい。
僕は疎外感を覚えながら、プレートのサラダをつまむ。
ヘルシーとお洒落に比重をおいたメニューは、不味くはないが美味しさがわかりづらい。
「これ、なに?」
「スモークサーモンとモッツァレラチーズのピンチョスよ」
「…へえ」
「いいですよね、ピンチョス。お洒落で好き」
確かにお洒落だけど、小さすぎて食べた気がしない。
「優月ちゃんが来るって聞いたから作ったのよ」
「ほんと?」
「ええ。和樹に出しても、どうせ食べた気がしないって言うだけだし。ね?」
その通りだった。
「そうなんだ。でも、どうせだったら一緒に作りたかったな」
「あ、本当ね! 本当にそうだわ」
それにしても、この麻由美のはしゃぎようは何だろう。
テンションが上がりっぱなしで、落ちつく様子がまるでない。
優月が来たことが、彼女にとってそれほど大きな出来事なのだろうか。
思い返してみると、つきあい始めて最初の誕生祝いのときから、麻由美は優月を呼ぼうとしていた。
断られてもあきらめず、一昨年も去年も招待メールを送り続け、四度目の今年、ついに念願が叶ったというわけだ。
はしゃぎたくなる気持ちは理解できる。
ただ、そこまでして優月にこだわる理由がわからなかった。
ひょっとしたら、亡くなった妹と優月を重ね合わせているのかもしれない。
それはでも、麻由美が見えると言い張っている 『綾子の霊』 が、自分の思いこみだと認めていることにならないだろうか。
もし妹の霊が実在しているのなら、わざわざその代役を優月に求めたりはしないはずだ。
あるいは、もっとべつの理由があるのか。
「やっぱり、結婚式は挙げないの?」
「うん。お金かかるし、親族を呼ぶのも大変だし。彼も大騒ぎするのが好きじゃないから」
「優月ちゃんは?」
「うーん。そこまでこだわらないかな。その分、べつのことにお金を使えるし」
話は、いつの間にか優月の結婚式の話題に移っていた。僕の誕生祝いがますます遠ざかっていく気がする。
「でも、ウェディングドレスはちょっと着てみたいって思わない?」
「……まあ、ちょっとは」
「でしょ」
「あー。でも、やっぱお金かかるし。二人で決めたことだから」
「だめ?」
「だめっていうか、無理」
「ここで着てみるのも?」
唐突な言葉に、グラスに手を伸ばしかけた優月の手が止まった。
そのまま首を左に回して、いたずらっぽい笑みを浮かべる麻由美を見る。
「えっと…」
「あ、引いちゃった?」
「や、引くっていうか…… 意味がわかんなくて」
わからないのは僕も同じだった。
麻由美からは、僕の誕生日と優月の婚約を一緒に祝いたいと聞いていただけで、ほかには何も知らされていない。
しかも、今のところ誕生祝いはそっちのけときている。
ウェディングドレスを着る?
優月が?
「優月ちゃんから結婚式を挙げないって聞いたときにね、思いついたの。せめてウェディングドレスで着飾ってあげたいなって」
麻由美は用意していた言葉を思い出しているかのように、ゆっくりと話す。
「押しつけがましいのはわかってるし、引かれたり嫌がられたりしたらどうしようって思ったけど―― 綾子も見たいって言うし」
「綾子ちゃんが?」
「ええ。あの子はもう、着られないから」
せめてウェディングドレスを着た優月を、綾子に見せてやりたい。
その言葉で、優月の警戒心は蝶結びをほどくようにあっさりと解けた。
「わざわざ購入したんですか?」
「わざわざって言うより、勢いで。かな」
「返品、できないんでしょ?」
「したほうがいい?」
優月は観念したように微笑んだ。
「…しなくていいです」
※
「じゃあ、奥の部屋で着替えよう。準備してくるから、二人はテレビでも観てて」
麻由美はリモコンを幾つか操作してテレビをつけると、優月の気が変わらないうちにと言わんばかりの勢いでリビングを出ていった。
とり残された僕たちは何となくお互いの顔を見て、何となくつけられたテレビに目を向けた。
番組はワイドショーの報道コーナーらしく、男性レポーターが深刻そうな顔を作って公園の中を歩いていく。
『死体が発見されたのは、あちらの茂みです。立ち入り禁止の規制線が張られているのが見えるでしょうか』
画面右上には『公園で女性の遺体。身体に複数の刺し傷』という、おどろおどろしいフォントのテロップが表示されていた。
『捜査当局の調べに寄りますと、遺体は二十代ぐらいの女性で、身体には刃物で刺されたと思われる傷が複数見られるとのことです。発見されたのは今朝の九時ごろ。発見者は犬の散歩をしていた近所の老夫婦だったそうです。現場からは女性の身元が確認できる物が見つかっておらず、犯人が持ち去った可能性もふまえて、慎重に捜査が進められています』
カメラはレポーターを越えて犯行現場らしき場所をズームアップしたが、とくに何が見えるわけでもなく、キープアウトの規制線が画面を埋めただけだった。
『また、現場近くにはネコの死体も見つかっており、最近この辺りで起きているネコの惨殺事件と同一の手口だったとのことです。警察では、今回の殺人事件との関係性についても調べているとのことでした』
画面が切り替わって、発見者らしき老夫婦と犬が映し出された。二人は当時の様子をお互いの記憶でおぎあいながら、たどたどしく説明している。
その光景に、僕は何となく既視感を覚えた。
以前にも似たようなシーンを見た気がする。
「複数の刺し傷って、ようするにめった刺しってことでしょ」
画面を見つめたまま、優月がつぶやく。
「そうだな」
「相手によっぽどの恨みがあったのかな」
「かもしれないし、そう見せかけただけかもしれない」
「あ、なるほど」
「単に頭がおかしい奴だっったって可能性もあるしな。理由なんて、いくらでも考えられるさ」
あるいは、死んだかどうか判断できなくて何度も刺した。とか。
「綾子ちゃんの時と似てるよね」
優月はふいに麻由美の妹の名を口にした。あまりの脈絡のなさに、僕は彼女を見返す。
その反応に、優月も怪訝な顔を向けた。
「……お兄ちゃん、綾子ちゃんが何で死んじゃったのか知ってる? よね?」
「いや、知らない。何年か前に亡くなったってことは聞いてるけど」
「うそ」
「向こうから話してくれるならともかく、こっちから聞けないだろ」
「お兄ちゃんには言ってないんだ。……じゃあ、言わないほうがいいのかな」
こういう焦しかたは、意図的であっても天然であっても質が悪い。どうしたって気になってしまう。
「いや、教えてくれよ。おまえに話したんなら、俺だって聞いていいはずだ」
「麻由美さんに聞いたほうがよくない?」
「いきなり妹の死因なんて聞けるか」
「…まあ、そうだよね」
優月はそれでも躊躇いをみせていたが、やがて独り言のようにつぶやいた。
「――この事件と似てるの」
「え?」
テレビはいつの間にかスタジオを映しており、コメンテーターらしき男が犯人の心理を勝手に分析していた。
この事件と似てる?
事件?
画面右上のテロップに目が行く。
『公園で女性の遺体。身体に複数の刺し傷』
「……似てる?」
「綾子ちゃん、殺されたのよ」
優月の乾いた声が耳に響く。
「この事件と、同じような状況で」
「………」
同じ状況。
公園で刺し殺された。
めった刺しにされて。
「当時も少しは騒ぎになったらしいんだけどね。でも、テレビは芸能人の自殺騒ぎを追っかけてて、一部のワイドショーしか取り上げなかったんだって。私も麻由美さんから聞くまで知らなかった」
「………」
――ああ、そうか。
既視感の正体は、それだ。
僕は当時、そのワイドショーを観ていた。
そして、同じワイドショーが今、同じような事件を取り上げているのだ。
少し、気分が悪くなる。
「その事件って、すぐに犯人が自首して捕まったよな」
「うん。…って、なんだ。知ってるんじゃん」
「思い出したんだよ。確か、頭のおかしいホームレスが警察に捕まりたくてやったってやつだろ。寝床と食う物に困らなくて済むとか言って」
「まあ。そうだった、らしいんだけどねえ……」
歯切れの悪い答えかたに、僕は首を傾げる。
「違うのか?」
「違うっていうか」
優月はそこで言葉を切り、しばらく躊躇ってから、もう一度口を開いた。
「…お兄ちゃんはさ、見えてるの?」
「はあ?」
僕は思わず間の抜けた声を出してしまう。妹の質問は唐突な上に、まるで意味がわからない。
見えてる?
何が?
困惑する僕を見て、言葉足らずだったと気づいたのだろう。
優月はだからさと、前置きをして言った。
「綾子ちゃん。見えてるの?」
「……ああ」
そういうことか。
僕は質問の意味を理解する。
優月が聞いているのは、麻由美が 『見えている』 と言い張り 『そこにいるじゃない』 と僕の隣を指をさす、綾子の霊のことだ。
それが、僕にも見えているのか。と。
「見えてるわけないだろ」
素っ気なく答えた。
もともと僕は、死後の世界や幽霊といった類を信じていない。むしろバカにしているくらいだ。
そんな人間に見えるわけがない。
「おまえは見えてるのか?」
優月は首を振る。
「でも、麻由美さんには見えてるんだよ」
「まあ、ある意味ではな。錯覚でも、思いこみでも 『見えている』 と言えば見えているわけだし」
「……綾子ちゃんが、教えてくれたんだって」
「何を?」
「ホームレスの人は、自分が捕まりたくて自首をしたんだって」
「それはテレビでもやってたよ。俺も知ってる」
「そうじゃなくて」
優月はすぐに否定した。
「そうじゃなくてね。その人は自分が捕まりたいために、やってもいないことで捕まったの」
「え?」
「綾子ちゃんが教えてくれたって。麻由美さん言ってた」
やってもいないことで捕まった。
「……なんだ、それ」
「それってさ、犯人がまだ――」
「優月ちゃん、準備できたよ!」
綾子の言いかけた言葉は、麻由美の場違いに明るい声によてさえぎられた。
「さ、着替えよう」
優月はほとんど反射的にテレビを消して、何事もなかったように笑顔を浮かべてみせた。
「ほんとにあるんですか? ウエディングドレス」
「ええ。綾子と二人で選んだの。きっと気に入ると思うわ」
「いいのかなあ。こんなことしてもらって」
「受け取ってっもらわないと困るのよ。私たちのとっておきのプレゼントなんだから」
困り顔を作りながらも、優月はどこか嬉しそうだ。なんだかんだ言いつつも、ウエディングドレスへの憧れはあるらしい。
「和樹はそこにいてね。私たちは妹さんの着替えを手伝ってくるから」
「俺の誕生祝いは?」
「もう少し待ってて。あとで盛大にお祝いするわ」
「ほんとかよ」
「ほんとほんと。さ、優月ちゃん」
「あ、はい」
麻由美は楽しくてしかたがないといった様子で、戸惑い気味の優月の腕を引いて奥の部屋へ姿を消した。
残された僕はソファにもたれ、消されたままのテレビと向かい合う。
ふと貧乏ゆすりをしていることに気づいて、足を組む。
どうも落ちつかない。
みぞおちの奥にざらついた感覚がある。
張りつめた、痛がゆいような感覚だ。
『そうじゃなくてね』
頭の中で、優月の言葉が再生される。
『その人は自分が捕まりたいために、やってもいないことで捕まったの』
それは、つまり。
ホームレスが偶然、綾子の死体を見つける。
男は通報するのではなく、それを利用して捕まろうと考えた。眠る場所と食べ物に困らない生活のために。
そして翌日、男は自分が綾子を殺したことにして警察へ自首をした。…ということだ。
麻由美の言い分を信じれば、これが綾子の霊によって伝えられた真実ということになる。
殺された本人の証言なのだから、まさに真実だ。疑う余地などない。
オカルト好きが大喜びしそうな展開だ。
ただ、これを実際に警察に話したりしたら、一笑に付されるか、憐れまれるか、怒られるか、いずれかの反応をされて追い返されるだろう。
じゃあ、僕は?
その話を麻由美から直接聞かされていたら、僕はどんな反応していただろうか。
きっと――
「和樹って、今年で二十七だよね」
いきなり奥のドアが開かれて、麻由美が顔を出した。
ふいをつかれた僕はネコのように身をすくませ、それから取り繕うようにソファに座り直した。
「いきなり何だよ」
「あれ、二十六だっけ? 五ってことはないよね」
麻由美はこちらの様子など意に介さず、ひたすら僕の年齢を聞く。
「八だよ。二十八」
「そっか。おめでとう」
「おい。お祝いって、その言葉だけじゃないよな」
「じゃあ、優月ちゃん待たせてるからあとでね」
麻由美はヒラヒラ手を振ると、再び奥の部屋に消えていった。
――と思ったら、すぐにまた顔を出した。
「テレビ」
「え?」
「駄目じゃない」
麻由美は僕に近づくと、テーブルの上のリモコンを手に取って電源を入れた。
映し出されたのは、先ほどまで僕と優月が観ていたワイドショーだった。
事件報道はまだ続いているらしく、画面の右上には『公園で女性の遺体。身体には複数の刺し傷』というテロップが表示されたままだ。
「じゃあ、もうちょっと待っててね」
麻由美はリモコンをテーブルの上に置くと、今度こそ奥の部屋へ姿を消した。
再び取り残された僕は、つけられたテレビを観るともなしに観る。
しばらく雑談めいた事件の分析が続いたあとで、ふいに現れたスタッフが司会者に一枚の原稿を渡した。
『――ええ、たった今入ってきました事件の速報です』
「お?」
いきなりの展開に、思わず声がでてしまう。
スタジオはにわかに慌ただしくなり、司会者は渡されたばかりの原稿を読み始める。
『先ほど、公園で起きた殺人事件の犯人と思われる男が、警察に自首したとのことです』
画面から外されたコメンテーターたちの驚く声が響く。
犯人が自首?
ということは、これで事件は解決だろうか。
何となく、拍子抜けだ。
司会者に二枚目の原稿が渡される。
『男は住所不定の無職で、公園で寝泊まりを続けている―― いわゆる、ホームレスとのことです』
ホームレス。
ホームレスの自首?
『また、男は犯行動機を語っており 「警察に捕まりたくて殺した」 と供述しているそうです』
「………なんだ、これ?」
公園で女性の遺体。
殺人事件。
身体にはいくつもの刺し傷。
ホームレスの自首。
警察に捕まりたくて、殺した?
『綾子ちゃんの時と似てるよね』
僕は異様な既視感を覚えながら、優月の言葉を思い出す。
似てる?
違う。
似てるんじゃなくて――
『速報は以上です。……いや、一気に動きましたね』
『犯人、ホームレスだったんですか?』
『自首したんだから、そうでしょう』
『えらい急展開すぎません? いやまあ、犯人が捕まったのなら一安心ですけど』
コメンテーターたちは表情の選択に迷いながらも、間を持たせるための言葉を口にする。
そんな彼らのやりとりでさえ、見覚えがある気がした。
いや、見覚えがあるのだ。
『では一度コマーシャルをはさみまして、次はお天気コーナーです』
軽快なジングルが流れ、司会者が頭を下げる。
本来ならここで画面が切り替わり、コマーシャルが流れ出すところだ。
しかし、そうはならなかった。
突然、画面が暗転する。
電源が切れたわけではない。その証拠に、テレビ下にあるランプはONを示す緑色の光がついたままだ。
故障?
それにしても唐突すぎる。
とりあえずべつのチャンネルに切り替えてみようと、僕はリモコンに手をのばす。
その瞬間――
『死体が発見されたのは、あちらの茂みです』
突然、画面に深刻そうな顔をした男性レポーターが映し出された。
「……え?」
『立ち入り禁止の規制線が張られているのが見えるでしょうか』
男性レポーターはカメラ目線のまま、ゆっくりと公園の中を歩いていく。
画面右上には『公園で女性の遺体。身体に複数の刺し傷』という、おどろおどろしいフォントのテロップが表示されていた。
これは。この場面は。
『捜査当局の調べに寄りますと、遺体は二十代ぐらいの女性で、身体には刃物で刺されたと思われる傷が複数見られるとのことでした。発見されたのは今朝の九時ごろ。発見者は犬の散歩をしていた近所の老夫婦とのことです』
これは、先ほど優月と観ていた場面だ。
同じ報道が繰り返されている?
違う。
『また、現場近くにはネコの死体も見つかっており、最近この辺りで起きているネコの惨殺事件と同一の――』
「あの事件を取り上げたのは、そのワイドショーだけだったのよ」
その声はいつもと変わらない調子で、穏やかに僕の耳に届いた。
「動画サイトで偶然見つけて、録画しておいたの。操作を間違えてリピート設定になってたみたいね」
そう。
これは、今日起きた事件じゃない。
「懐かしいでしょ?」
『綾子ちゃんの時と似てるよね』
今となれば、優月の言葉が滑稽に思えてくる。
似てる?
そうじゃない。
まったく同じだ。
僕たちはただ、録画されたあの日の報道を見直していただけだったのだ。
「私が何を言っても、警察は取り合ってくれなかったわ」
麻由美はゆっくりと僕の前に回り込み、テーブルをはさんだ向かいのソファへ腰を下ろす。
穏やかな顔をしていた。
「大切な妹を亡くして、気が触れたって思われたみたい」
穏やかな声で言う。
「仕方ないわよね。綾子の霊が教えてくれただなんて、見えていなければ信じられないもの」
その穏やかな瞳を見つめ返しながら、僕はボンヤリと思う。
ああ。
これが、とっておきのプレゼントか。
「猫を刺しているあなたを、綾子は見たの。…でも、最初は何をしているのかわからなくて、気分が悪くてうずくまっていると思ったそうよ」
――あの、大丈夫ですか。
声を掛けられたことは覚えている。
でも、どんな声だったのかは思い出せない。彼女の顔も。
麻由美に、似ていたのだろうか。
「見られたから刺したの? それとも、猫だけじゃ物足りなくなった?」
「…………」
ただ、まっ白だった。
気づいたら、刺していた。
刺したらもう、止まるわけにはいかなかった。
「何度もナイフを突き立てたのは、綾子が死んだかどうかわからなかったから。…猫とは勝手が違ったみたいね」
そう。
刺しても、刺しても、変な声を出すから。
喉に突き立てて、声が止まるまで。
「あのホームレスが自首をしていなかったら、あなたは捕まっていたかしら」
「…………」
本格的に捜査が行われていたなら、きっとそうなっていただろう。
僕の指紋のついたナイフも、ホームレスに拾われずに落ちたままだったはずだ。
「綾子に再会して事実を聞かされるまでね、私はずっと捕まったホームレスを殺す方法ばかり考えていたのよ」
……再会?
僕の表情から疑問を察したのだろう。麻由美は小さく笑った。
「綾子に再会したのは―― 再会って言うのかしらね、この場合。まあ、いいわ。再会したのは、あの子が殺されてから一年ほど経ってから」
「一年?」
思わず声が出てしまった。
麻由美は穏やかな表情のまま、頷く。
「意外だった? 場所を知ればもっと驚くわよ」
「………」
「綾子と再会したのは、遺体のそばでも、お墓でも、殺された公園でもない。…本当に偶然だったの」
言ってから、首をかしげる。
「偶然、だったのかしら。…ひょっとして、ずっと引き合わせようとしていたの? だからあの日、私はいつもと違う道を――」
わずかな沈黙のあと、麻由美はそうだったのねと納得したように微笑んだ。
「ねえ。初めてあなたに会ったとき、私が何て言ったか覚えてる?」
初めて会ったとき。
もちろん、覚えている。
町中の交差点だった。
信号が変わって、歩き始めた僕に。
『待って! 行かないでっ』
振り返った僕が見たのは、顔色を失った女性だった。血走った目はうつろで、焦点が合っていないように見えた。
それはでも、違ったのだ。
「あれは、あなたに言ったんじゃない」
そう。
そして、僕を見ていたわけでもない。
麻由美は、彼女を見て言ったのだ。
『待って! 行かないでっ』
「公園で殺された日から、ずっと」
麻由美は僕の左隣を見て、言う。
「綾子は、あなたについていたのよ」
そういう、ことだったのだ。
※
「綾子と話すために、私はあなたに近づいた」
麻由美とつき合うことになるまでの経緯は、ボンヤリとした記憶しかない。
人違いでしたと謝られてから、見かけたり、すれ違うことが多くなり、目が合えば頭を下げるようになって。
【よくお会いしますね】
【近くで働いてるんですよ】
【私もです。……あのときはすいませんでした】
【いえ、気にしないでください。……まあ、誰と間違えたのか気にはなりますけどね】
そんなふうに始まって、話すことが増え、気がついたらつき合うようになっていた。
「あなたと話すふりをしながら、私はずっと綾子の話を聞いていたわ。あの日、公園で何が起きたのか。あの子はすべて教えてくれた」
麻由美はよく、何もないところに向かって話しかけていた。
怪訝に思って聞くと、彼女は『妹の霊と話してるの』と笑い、僕は麻由美がそっち系の人間だったことに少し引いた覚えがある。
「あなたと夜を過ごす日は、とても苦痛で、でも、とても楽しみだった」
苦痛を越えれば、寝入った僕の隣でゆっくり綾子と語らうことができたから。
「誕生日プレゼント。毎年贈っているでしょう」
ふと思い出したように言う。
麻由美はつきあい始めた年からずっと僕の誕生祝いを開き、プレゼントを贈ってくれている。
「クジラのぬいぐるみ。プリザーブドフラワーの壁掛け。それから、オルゴール付きの小物入れ」
彼女からの贈り物は、いつも僕の好みを度外視したものばかりだった。
その意味も、今ならわかる。
当たり前のことだったのだ。
「ぜんぶ、綾子へのプレゼントよ。あなたに贈ったものなんて、ひとつもないわ」
麻由美はそう言うと、ソファにもたれて長いため息をついた。
全てを打ち明けて、呪縛から解放されたように。
それでもまだ、僕にはわからないことがあった。
ずっと隠し続けていたことを、どうして今になって打ち明けたのだろう。
断罪にしろ、復讐にしろ、その機会はいくらでもあったはずなのに。
「……最初に計画の話をしたとき、綾子は反対したの。私はお姉ちゃんに会えるだけでいいって」
眼を閉じたまま、麻由美は独り言のように語りだす。
計画?
「でも、私は名案だと思った。絶対にこれしかないって。だから、何度も実行しようとしたわ」
名案?
実行?
何のことかわからず、僕は麻由美を見る。
麻由美は僕を見ていない。うつろな目は、綾子を見ているのだろうか。
「仲良くなることは簡単だったけれど、計画はなかなか上手くいかなかった。…だって、どう考えても無理があるんだもの。『一緒にお兄さんの誕生日祝いをしましょう』なんて」
「…え?」
誕生日?
一緒に?
「ようやく良い口実が見つかったのは、今年になってから。婚約をするって聞いたとき、最高のタイミングだと思ったわ」
僕のなかで、何かが形を作り始めようとしていた。
必死で否定しようとしても、それはますます輪郭をはっきりさせていく。
「三度目の正直。プラス一で」
「………」
「やっと、優月ちゃんが来てくれた」
僕の顔から色がなくなっていくのを、麻由美は穏やかな表情で眺めていた。
「――優月に、何を」
「プレゼントをしたわ。とっておきのプレゼント。まっ白なウェディングドレス。綾子と一緒に選んだのよ」
優月ちゃんも喜んでいたわと、麻由美は目を細めて微笑む。
優月が奥の部屋へ入ったのは、いつだ?
どれほどの時間が経っている?
「せめてウェディングドレスは着せてあげようって思ったの。お嫁さんにさせてあげられないけれど、その気分ぐらいは味わってほしかったから」
その言葉の意味を理解する前に僕は立ち上がり、麻由美の横をすり抜けて奥の部屋へ向かった。
ドアノブを回す。鍵がかかっている。
叩く。蹴る。
恐ろしく頑丈なドアは、ビクともしない。
「そのドアね、防音効果も兼ねているの」
麻由美はソファに座ったまま、こちらを見ることなく言う。
「ぜんぜん音が漏れなかったでしょ」
「開けろ」
「和樹。誕生日おめでとう」
場違いな言葉が、場違いなトーンで部屋に響き渡る。
「優月ちゃんのお祝いが終わって、やっとあなたのお祝いが出来るわ」
「ここを開けろって言ってるんだ!」
「ナイフの柄って、ハンドルっていうのよ。知ってた?」
麻由美は僕の言葉がまるで聞こえないかのように、言葉を続ける。
「そのハンドルをね、ロウソクにしたの。なかなかのアイデアだと思わない?」
ナイフ? ロウソク?
こいつは、何を言っているんだ。
「でも、付け替えるのには苦労したわ。何しろ二十八本もあるんだもの」
……二十八。
『八だよ。二十八』
それは。
その数は。
「今までのプレゼントは、ぜんぶ綾子への贈り物だったけれど」
麻由美がソファから立ち上がり、僕を見る。
「今日はちゃんと、あなたに用意したのよ」
右足を一歩前に。
左足をその先に。
僕の横をすり抜けて、ドアの前に立つ。
「さあ、どうぞ」
麻由美は手にしている鍵を差し込み、回した。
「ロウソクはもう、ぜんぶ立ててあるから」
――僕は震える手でドアノブをつかむ。
「火だってちゃんと、一本一本灯したのよ」
――ノブは何の抵抗もなく回る。
「誕生日おめでとう」
――音もなくドアが開く。
そして。
広がる光景に立ちすくむ僕の耳元で。
麻由美が、優しくささやく。
「私からの、とっておきのプレゼントよ」
了