玉座に眠る
当時フランス各地の都市で、七月王政に対する反対運動が革命宴会という形で進展していた。改革宴会というのは酒食を楽しむ文字通りの宴会と、主義主張を訴える演説会を合わせたようなもので、グラスを片手に政治・社会問題などが論じられれ、『普通選挙』『人民主権』ために乾杯がなされていた。私はというと、今となってはおこがましいが名の知れた牧師で、言われて悪い気はしなかったのが熱心な自由主義者でもあった。
一つ断っておきたいことがある。私が言いたいのは運命というものと信仰は別だということだ。神を信じなかったファラオはその軍勢と共に海中に沈んだが、それも運命と言うなら一体、彼らは神のなんであったのだろうか。運命が神の御業というならば、彼らは神を信じないことで神から与えられた役割を、全うしたということになるのではないだろうか。あり得ない。であるなら運命の方が神の上位に立つのか。いや、それもない。運命自体は何も創造し得ないし、何もないところにその存在はあり得ないのだ。しかし、だからといってそれから誰も逃れられないのも事実である。誤解を生むといけないので敢えて申し上げておくが、ご存じの通りファラオは少なくとも神に、進む道の選択を何度も与えられていた。
これは私が実際にあった体験である。それを話そうと思っている。一つ付け加えるのなら、私が神に背を向けたのではないことを、どうか皆さまにはご理解していただきたい。
忘れもしない。厚い灰色の雲が朝からどんよりとたれ込めたかと思うとぐっと冷え込み、やがてぱらぱらと降ってきた雨が、いつ雪に変わるのかと何度も空を見上げていた、十一月の末のことである。
その日は幸いにも、夜になっても雨は雪には変わらず、その境界でうろうろとしているようであった。冷え込みだけは増し、明日は間違いなく雪景色だろうなと外を眺めていた私は、革命宴会の帰り道を馬車に揺られていた。
ぼんやり眺めていた街並みであったが、不意に不可思議な光景が目に入って、はて?っと思った。ちょうどその時、十字路であったためだろう、馬車が止まった。私は疑問を確かめるべく、その一点を凝視した。間違いない。一人の少年が軒もないのっぺらなレンガの壁に背を付けて立っている。あれでも雨を避けているのだろうか。そこらじゅうに軒があるのに少年はなぜそこにいる? 雨は止みそうになく、明日を待たずして雪に変わるだろう。
私はその日、演説が受けたので気分が良かったのだろう、らしくもなく馬車の中から彼に声をかけた。
「そんなところにいたら風邪ひくよ。家はどこだい? 送っていってやるよ」
彼は襟を立て、ポケットの奥まで手を突っ込んでいた。しずくが毛先からポトリポトリと落ち、その髪の間から青い瞳をのぞかせていた。
「おまえは運のいい奴だ」
彼の言った意味が、よく分からなかった。だが、彼を家へ送っていってその態度と口調の理由を知った。彼の両親は十四年前の四月、トランスノナン街の虐殺で亡くなっていて、そのためにお祖母さんに引き取られていた。
この日の私は、何度でもいうがらしくなかった。彼の誘いになんとなくつられその家に入り、お祖母さんの勧めで少し休むことにする。テーブルに置かれているランプは淡い光を放ちながら、埃をかぶった別のランプを照らし出していた。二年前以来の大凶作、そして恐慌。生活は苦しそうで、差し出されたミルクの入ったコップはひびが入り、今にも滴ってきそうである。部屋をぐるり見回すと、買い替えなんて出来ないのだろう、どれもこれもいたんでいて、多分に漏れず諦めて、そういうものだと思って使っているに違いない。街角でそんな話をしているご婦人たちを何回も見た。それでもこの家と比べればあのご婦人らは断然ましなはずだが。
話を彼に戻そう。四つのときだったそうだ。ちょうどお祖母さんの所へ来て二年半らしいが、その日は昼間から、通りの並木が大きく揺れるほどの強風が吹いていた。それが夜になっても止まず、ゴーゴーという風の音とザーザーという葉擦れの音が街角で反響しあい、しかも暗闇に響き渡るので彼は怯え、お祖母さんの袖をずっと掴んで離さなかった。ベットに入ってもだめで、お祖母さんは、大丈夫、大丈夫、ただの風だよとずっと慰めていた、そんな深夜のことである。入口のドアを叩く者がいた。
こんな夜更けにどういうことでしょうとお祖母さんが袖を離さない彼とドアを開けてみた。そこには見知らぬ男が立っていた。白く長いひげに黒い服、そして異教徒の短刀ほどの大きな十字架を首からぶら下げている大男。それがその口元に穏やかな笑みをたたえ、軽く会釈したという。きっとお祖母さんは知性や品性を感じたのだろう、男を由緒ある寺院の、名のある方だと思ったそうだ。その男が、旅の途中だという。そして何も聞かずに今夜一晩泊めてほしいと頼んできた。これも神のおぼしめしだろうと、心やさしいお祖母さんは快く受け入れた。
夜が明けて暴風は通り過ぎ、昨日と打って変って街は清々しい朝を迎えた。男は出ていく段となって、礼の換わりにと、こう言った。
「あなたのお孫さんは実におもしろい星の生まれだ。彼はいつか玉座で眠るでしょう」
以来、お祖母さんは彼に玉座で居眠りする第二のナポレオンを夢見るようになった。そしてそのお祖母さんといとなむ歳月が少年をも、僕は第二のナポレオンだと信じ込ませたというわけだ。それで彼の態度や口調はナポレオンのごときになった。もちろん、彼が想像したナポレオンであるが。
少し滑稽ではあるが、彼が軒のない壁に立っていた理由も分かる。約束された人生なのだから、彼に施しを与えたものは、いずれはその恩恵にあずかれる。ちょっとした遊びだったのだろう。彼はその恩恵を与える相手を待っていたのである。それにしても、世には奇妙な話もあるものだと感心はしたものの、あまり快く思えなかった。私たちが目指しているのは『普通選挙』『人民主権』で、皇帝なんかじゃないんだよ。だが、それは心の中で押しとどめ、馬車をまたしているのでとお祖母さんに断って、そうそうにそこをあとにした。
それから三か月経った二月二十二日。共和主義者や労働者、学生たちを含む民衆がデモを起こした。政府の革命宴会の禁止令に憤慨したのだ。一部の主催者は命令に従ったが、もはや誰も革命への動きを抑えきれなくなる。その日も冷たい雨であった。人の数はしだいに膨れ上がり、やがて民衆は「ギゾーを倒せ!」「革命を!」と口々に叫んでいた。
翌日も雨の中、デモは続けられた。だが、それをいつまででも手をこまねいて見ている政府ではない。ついに軍を招集し鎮圧に乗り出してきた。予想はしていたが、あまく見ていたと言わざるを得ない。一旦爆発した民衆の怒りはいかばかりか。暴徒と化して政府の軍を押し返すと一転、反撃に備え、武装し、指揮命令系統を構築、いわゆる革命軍を組織した。それが夜九時半ごろ、ギゾーの官邸付近で、おそらく偶然のことからだろう、警備の軍隊と衝突する。
この事件はさらに民衆を刺激し、二十四日朝にもなるとバリケートが作られ、状況は市街戦の様相を呈する。銃弾が飛び交い、大砲の弾が家を崩した。果たして王は、国外に逃亡する。
王がいなくなって、革命成就のセレモニーは玉座が担うことになった。バスティーユの広場でそれが焼き払われると聞いたので、私はそこに出かけることにした。この時まですっかり忘れていたのだが、玉座といえばあの少年である。無責任にも、短刀ほどの十字架の男はよくもまぁいい加減なことを言ったものだと思い、聖職者にあるまじき行為だと憤慨する。広場までは通り道でもあったし、気を落としているかもしれないと少年の家を訪ねることにした。
激しい市街戦がうかがい知れる。燃えカスの煙だろう、街は霧に包まれているようで、通りには人がごった返していた。すれちがう人々のどの顔も煤まみれで、疲れ果てたのだろう、亡霊のようにさまよっていた。
少年の家は以前に来たときより、みすぼらしくなっていた。壁にはひびが入り、至る所に穴が開いていた。そのうえ悪いことに前の通りでバリケートが張られていたようである。その片づけに、引いたり転がしたりであろう、その破片や残骸がドアの前で散々になっていた。
足の踏み場を探しつつ進み、傾いた姿勢でドアを前に立つと、お祖母さんを呼ぶ。だが中からは何の反応もない。ノブに触れるとカチャっと動く。どうやら鍵は開いているようだ。
「失礼しますよ」
ドアを引き、開けられる所まで開けると中を覗き込む。誰もいないし、椅子は倒れている。私は念のためもう一度、お祖母さんを呼ぶ。やはり反応がない。二人は玉座が焼かれると聞いて、いてもたってもいられずバスティーユの広場に向かった。そう想像し、私はその場をあとにした。
バスティーユの広場に到着したころ、玉座はというともう着いているようだった。あのお祖母さんと少年はこの群衆の中に混じっているのだろう。ものすごい数の人だかりである。そこかしこから罵声も飛んでいた。王権。絶対主義。人民の抑圧。それから脱したのだ。熱狂しない方がおかしい。だが、様子が変である。民衆の声は誰かを揶揄しているようだった。政府の要人の誰かがさらし者になっているのであろうか。いや、違う。ガキがどうのこうの言っている。胸騒ぎを覚えた私は見物人を押しのけて前に進む。と、どうだろう。あの少年が玉座に坐しているではないか。服の胸ははだけ、聖らかな顔をした少年が肘掛に手をのせ、濡れたタオルのようにグッタリと背もたれに上体を預けている。そしてその前で、かわいそうにあのお祖母さんは、うなだれている。私は正直、第二のナポレオンは信じていなかったが、まさか玉座で息絶えるとは。
いつかお祖母さんが言っていた。『玉座で(永久に)眠る』。まさにその通りだった。後で聞いた話だが、少年は傷付いた体で玉座に座らせてほしいと頼んだという。想像するに、死との瀬戸際で不意に放った自身の言葉で彼は、運命の意味を悟ったのであるまいか。あるいは戦いの最中、致命傷を負わされたその瞬間に、かもしれない。運命に気づき、それでもそれを受け入れたのだ。
少年の仲間だったのだろう、同じくらいの年頃の子供たちがそっと少年を抱き上げ、運んで行った。見かねたのか、いや、邪魔だと思ったのであったのだろう、見物人から出た男たちがお祖母さんを両脇からかかえ、引きずるようにして連れていく。
やがて罵倒も落ち着き静寂の中、座る人がもういない玉座はバリケートの残骸を積み上げたその上に移された。そして火が放たれる。熱気にゆらめく玉座はいつしか炎と一体となり、やがては崩れゆく。その変わりゆく姿が民衆の感慨を誘ったのか、歓喜するもの、悲哀するもの。私はというと。
私はというと、もし人が運命から逃れられないとするならば、と考えていた。私の革命への情熱はなんだったのであろうか。飲み、食い、歌い、演説をぶつ。それはわたしの意思のようでそうではなかった。それにもまして人が大勢死んだのだ。それが民衆の意思ではなかったというのなら、いったい。
二月二十七日、ラマルティーヌの「平和宣言」で街は沸き上がった。しかし、伝え聞くところによるとこの時、かわいそうにお祖母さんは白いベッドで血まみれとなりこの世を去ったという。
上がる凱歌が、遠くから近くから幾つも聞こえて来る。それもいつしかやみ、暗い部屋で私は、重い腰を上げた。カーテンを開けると淡い光が差し込み、外を覗けば、往来や窓に掲げられた幾つもの三色旗が勇ましげに、そして美しく、たなびいていた。
《了》
短編は、苦手だ。言葉の言い回しや、言葉そのものの使い方が作品の良し悪しに直結する。長編もそういう部分はないとはいえないが、勢いでカバーすることだってできる。実はこの作品、長編に挿入するために無理くり作った。話の内容は小説好きな探偵の推理ものだが、リアリティーを出すためにメジャーな小説の題名をいくつも使用している。もちろん題名だけではつまらないから小説も入れたい。それで作ったのがこの作品である。ただ、小説好きの探偵の話はこのサイトに載せるためには、小説の題名を架空のものにするか、してもなりたつのか、まだ熟慮が必要である。あるいは日の目を見ないか。ならば短編だけでもと思い、投稿したというわけです。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。