二話 もう一つの世界へ
*1*
底の見えない薄暗い水の中の様な場所。上も下も、右も左も分からない。自分が今何処にいるのかも。
ただ全身の力が抜け、まるで宙にでも浮いているかの様なフワフワとした感覚だけがある。
今尚ハッキリとしない意識の中、ぼんやりと遠くの方に小さな白い点が見えた。
目を凝らしよく見ると、その白い点はゆっくりと揺らめき動いている。
『ーー何だ?あれ。』
その白い点が、やがて大きくなって揺らめきながらこちらに向かって来る。
次第にその姿が確認できる程の距離に近づき、彼はハッとした。それはまさしく、あの見た事も無い神々しい巨大魚の泳ぐ姿であった。
青白く発光している魚体は、ゆっくりとその羽衣のような尾ひれを揺らめかせ、赤褐色の大きな扇形の背びれを開いたり閉じたりして悠々と泳いでいる。
しばらくその神々しい姿に見とれていると、既に自身とその巨大魚の距離は間近に接近していた。
『ーーなんて美しい魚だ。』
その巨大魚は彼の方を向き、その場でとどまっている。大きな口をパクパクとしながら、ただその場でこちらを向いている。
すると、何やら曇った様な声が聞こえて来た。
(……きろ。)
『ーー何だ?”きろ”?』
その瞬間、謎の巨大魚は勢いを付けて反転し、一瞬で目の前から姿を消した。
それと同時に、今度はハッキリとした強い口調の声が聞こえて来た。
「オイ!お前、起きろ!」
「ーーう…う〜ん…。」
その声のお陰で、彼はようやく意識を取り戻してきた。体の感覚も次第に元通りになり、腕に力を入れて起き上がろうとした。
その手にはサラサラとした砂の感覚。口の中が少しザラっとした。
「う…俺は一体…。」
そう言って上体を起こそうとした時、何者かに力一杯抑えつけられ、また砂の上に倒れ込んでしまった。
「うぅっ…な、なんだ…。」
再度倒れ込んでしまった時、また口の中に砂が入った。それと同時に、先ほどと同じ曇った様な声が聞こえた。曇ったと言うより、何か篭った様な感じだ。
「そこを動くな。」
恐る恐る顔を上げると、そこには全身をフード付きのマントで覆い、目元だけ開いたスキーマスクの様な物をしている人の姿があった。
見るからに恐ろしい格好をしているが、幸い言葉が通じる所にいると分かっただけで少しばかり安心した。
だがそんな事は蚊帳の外、何よりも恐ろしく感じたのはその風貌では無く、白銀に輝く剣をこちらに向けていた事だ。
「貴様、何者だ?ここで何をしている?」
そのマントを被った人物の声は、低いトーンではあったがどこか艶めかしく感じた。しかしその問いに答えようとも、もう一人に力一杯抑えつけられているのでなかなか声が出せずにいた。
「お、俺は…その…。」
もう一度全身に力を入れて、抑えつけられている体を起こそうとした。それを制するように、もう一人が声を上げた。
「コイツ…コラ!動くなと言っただろ!」
もう一人の声は太く男らしい声だった。この抑えつけられている力の強さから考えても、恐らく特殊な訓練を積んで鍛え上げられたのだろう。そのせいで、彼の身体はピクリとも動かせずにいたのだ。
その様子を見ていたマスクの男は、剣をこちらに向けたまま問いかけて来た。
「貴様、どうやってここに来た。帝都の者か?」
「て…ていと…?」
何の事だかさっぱり分からなかった。”ていと”と聞いてもそれだけでは言葉の意味すら分からなかったが、話の流れで”ていと”と呼ばれる所に所在する人間か?と言う事は何となく読み取れた。
「いや…俺は東京から来て…。」
その言葉にマスクの男は首をかしげ、顔は見えないがマスク越しに怪訝そうな表情を浮かべていたのが分かった。
「とー…きょー…?聞いた事がないな。貴様、からかっているのか?」
マスクの男は更に剣の先をこちらに向け、首元にピタリと付けた。
「ひっ…。」
思わず息が止まる。背筋にはピリピリとした緊張感が走り、首元に付けられた白銀の刃からは冷んやりとした金属の感触がした。
笠原は身の危険を感じ、それ以上喋る事も動く事も出来なかった。
その完成に怯えきった様子に、上から抑え付けているもう一人の男が言葉を発した。
「隊長、コイツ本当に帝都の奴ですかね?なんと言うか、帝都の奴にしちゃあ弱すぎます。」
その男の言葉に、マスクの男はしばらくの沈黙の後その白銀の剣を笠原の首元からゆっくりと離し腰に付けてある鞘にスッと剣を納め、チラリと見えたマントの隙間からは、もう一本の剣が反対の腰にも携えられていた。
「確かに…。武器も持たずにこんなとこに倒れていたのだからな。だが、そのおかしな防護服の様な物を身に付けているなら、安心は出来ない。帝都の者でなくても、何処かの戦闘部隊だろう。」
『ーーぼ、防護服?あぁ、このフィッシングベストの事か。』
笠原は胸の辺りや背中に沢山のポケットを付けたフィッシングベストを着ていた。それが彼らには防護服や戦闘用の着衣に見えたのだろう。
「コイツ、どうします?」
「そうだな…。ひとまず”ばば様”の所へ連れて行こう。そこで詳しく取り調べる。」
マスクの男がそう言った後、抑え込まれて倒れた身体をもう一人の男にグイッと引っ張られた。
「了解です。ホラ、立て!」
砂まみれのまま襟首を掴まれもう一人の男に無理矢理立たされた時、思わず自分の目を疑った。
「なんだ…ここ…?」
そこは20平方メートル程の小さな無人島の様な場所で、周りを見渡す限り真っ青な海と広い空があるだけ。そして三人が今いるのは淡いクリーム色が眩しい波打ち際の砂浜だった。
全くの見覚えの無い場所に、笠原はキョロキョロと辺りを窺っている。
「何で俺はこんな所に…?確か今日は近くの川で釣りをしていたはず…。」
その様子を見ていたマスクの男は腕を組み小さく言葉を発した。
「貴様、本当に何一つ覚えてないのか…。」
笠原はそのマスクの男を見た。先ほどまで倒れ込んでいて見上げる様に見ていたが、実際起き上がってマスクの男を見ると思いの外小柄だった。身長は160前後と言ったところで、体格はマントのせいで分からなかったが肩幅はあまり広く無い。
そして恐る恐る後ろを振り向くと、そこにはフードを被ったかなり大柄な男の姿があった。
その男の顔には面白い形のゴーグルの様な物を装着し口髭を生やしていた。驚く事に、背中の方には背丈程ある巨大な大剣を担いでいる。
そして二人とも何故か素顔は見え無いようにしているらしい。その小柄なマスクの男が腕を組み直し、また静かに言った。
「帝都の奴でもそうでなくても、舟も使わずどうやってここへ来たか気になるところだ。急いでばば様の所へ連れて行くしかないな。トルザ、後は頼んだぞ。」
「了解です、隊長。」
そう言うと、”トルザ”と言うもう一人の男が笠原の両手を後ろで縛ろうとした。
「な、何をするんだ!は、離せっ!」
笠原は何か良からぬ事に巻込まれてしまったと感じ、非力だが必死で抵抗した。
が、その時。目にも留まらぬ速さでマスクの男が笠原の懐へ入り込み、腰に携えた剣の柄尻でドスッとみぞおちを突いた。
「ゔぐっ…ゔぅ…。」
笠原はその場に膝から崩れ落ち、あまりの激痛に喋ることはおろか呼吸すら出来なかった。
そしてマスクの男がそんな笠原を見下ろす様に見つめ、静かに言った。
「大人しくしていろ。さもなくばこの場で斬り殺す。いいな?」
笠原の意識が徐々に遠のき、立つことすらままならない状態であった。
「全く、世話の焼ける奴だな。ヨッ…と。」
トルザは笠原を軽々と持ち上げ、肩に担いで歩き出した。
『ーーくそ、何で俺がこんな事に…。』
薄れ行く意識の中、笠原は見知らぬ男達に襲われ、何処かへ連れ去られてしまう恐怖を感じていた。
だが、そんな事はお構いなしと言わんばかりにマスクの男ともう一人の男のトルザはザクザクと砂浜を歩いている。
しばらく砂浜を歩き、ちょうど島の反対側にある自然に出来た小さな入江に到着した。
そこには帆も舵も無い一隻の小舟が停泊されていて、二人の男はそれに乗り込んだ。
トルザが笠原を小舟の船尾付近にドスンと降ろすと、今度は両足首をロープで縛った。
「これで良し。隊長、準備オーケーです。」
その合図にマスクの男が一度コクリと頷き、船首の突端にあるベルの様なものを鳴らした。
すると、その帆も舵も無い小舟がゆっくりと動き出した。
そしてその小舟は無人島を後にし、穏やかな海原へと航路を辿って行った。
*2*
しばらくの間、笠原は小舟の上で意識を失っていた。
そして彼が再度意識を取り戻したのは無人島を出てからおよそ一時間程度経った頃である。
『ーーう…今度は何だ?ここは…舟の上か…?』
だが笠原はその場で起き上がらず、あえてまだ意識を失っている”フリ”をしていた。
彼は薄目を開け、コッソリと辺りを確認した。
『ーーやっぱり舟の上か…。でも、なんかおかしい感じだ…揺れ?そうだ、舟の揺れとは何かが違う。』
笠原はマスクの男達に気づかれない様、ゆっくりと小舟を観察した。そしてそのプロの釣り師としての観察力をフルに使い、彼はある事に気付いた。
『ーーエンジンも帆も無いのに、どうして舟が動いているんだ?この舟の動力は一体何なんだろう…。』
その時、船首にいるマスクの男が笠原の元へ歩いて来た。
笠原は急もう一度急いで目を瞑り、また意識を失った”フリ”をした。
「おい、貴様。寝たフリなどは通用しないぞ。」
その言葉に思わずビクっと反応してしまい、観念したかの様に笠原はゆっくりと起き上がろうとした。だが、手も足も縛られている為、なかなか上手く起き上がる事が出来なかった。
それを見兼ねたマスクの男がブーツの横に付いている小さなナイフを取り出し、笠原の足を縛ったロープを切った。
「もうじき港へ着く。そこからは自分で歩くんだ。いいな?」
笠原は無言で頷き返事をした。
一体これからどんな恐ろしい事が待っているのか考えたくもなかったが、とりあえず”港”と言っていたので何処かの街に着くのだと言う事に少しばかりの期待と安心感を覚えた。
ふと、先ほどの気になっていたこの小舟の動力が何なのかと思い、船尾から海面を覗き込んだ。すると彼は信じられない光景を目の当たりにした。
「な…なんだ、これ…!?」
覗き込んだ海面のすぐ下から、淡い水色の肌をした見た事もない巨大な生物の尻尾の様な物がゆらゆらと伸びていたのだ。
尻尾の様な物の長さはおよそ3メートル程あり、この小舟の大きさから考えても8〜10メートル以上の巨大な生物だという事が推測出来る。
そして彼はこの小舟の動力が何であるかを一瞬で悟った。
その時、トルザと呼ばれている大柄な男が笠原に向けて話しかけて来た。
「何だお前?シドラも知らんのか?」
「し…しど…ら?」
笠原は何だか頭が混乱して来た。てっきり河岸で気を失ってから何処かの島へ票流して来たのだと思っていた。もちろん、自分の住んでいる日本の何処かだ。
だが、この謎の巨大な生物が舟の動力で、それも”シドラ”などと訳の分からぬ名前を言ってくる。考えてみればこの二人の格好もおかしいし、”帝都”だか何だかとも言っていた。
「俺は一体、何処へ来ちまったんだ…?もしかして、あの時死んだのか?ここはいわゆる、死後の世界ってやつか?」
笠原は頭を抱えてその場にへたれ込んだ。
「何だお前…頭でも痛いのか?あ、隊長の一撃がまだ効いているんだな。ハハハっ。」
今の笠原にはそんな言葉は全く耳に入って来ない。冷静に考えようとも、考えれば考えるだけ訳が分からなくなる。
だが、この見た事も聞いた事もない謎の巨大生物について、恐る恐るトルザと言う男に聞いてみた。
「あ、あの…し、しどらって何ですか…?」
するとびっくりした様な素振りをしていたが、意外な事にトルザは答えてくれた。
「お前、本当にシドラも知らないのか…。まぁ、本当に知らないなら教えてやろう。」
トルザは背中の大剣をドスンと降ろし、笠原の前にあぐらをかいて座り込んだ。
先ほどの砂浜でのトルザとは打って変わった様に、暴力的な雰囲気は全く感じられなかった。
「シドラってのはな、この近海に生息する海竜種の一種で、肉食だが気性は温厚。古くから人々が餌付けをしたり飼育し、そして調教する事が出来たのだ。このシドラも、俺達が調教し、この舟の動力として役目を果たしてもらっている。俺と隊長からすれば、このシドラは俺たちの大切なパートナーだ。ちなみに、名前は”ヒューイ”って言う。」
トルザは丁寧に教えてくれたが、すんなりと理解する事は到底出来ずにいた。何故なら、そんな話がこの世にある訳無いからである。
だが、せっかく丁寧に説明して貰ったので今の所”理解した様にする事”が笠原なりの礼儀だった。
「わ、わかりました…。海竜種でシドラのヒューイ”君”ですね…。」
その言葉にトルザは不機嫌そうな顔をした。
「…メスだよ。」
「……ご、ごめんなさい。」
そんな二人の元へ、マスクの男がやって来た。
「何をボサっとしている。もう港は目の前だぞ。早く支度をしろ。」
トルザはその言葉に慌てて大剣を担ぎ、船首へと向かった。
笠原も、港がどんなものか気になっていたので、両手を縛られながらもトルザの後に続いた。
そして目前には何隻もの小舟が停泊している桟橋が見えた。
その停泊している小舟の前方の海面から、首長竜の様な巨大な生物”シドラ”が顔を出しているのが目に入り、笠原は思わず息を飲んだ。
「き、恐竜…みたいだな…。」
そのシドラと小舟の停泊している港の奥に、木造で建てられたいくつもの家が所狭しと連なっていた。
よく見ると、港を含め全ての家が海面から伸びた柱に支えられて建っている。
いや、家だけでは無く街全体が海上にある様に見えた。
「すごい…海上都市なのか…。」
その美しくも壮大な海上都市に目を奪われ、しばらくの間笠原は小舟の上で立ち尽くしていた。
そして笠原達を乗せた小舟は港の桟橋に付き、マスクの男とトルザは小舟から桟橋へと降り立った。
そして笠原も、両手を縛られたままその桟橋に足を着けた。
それを確認したマスクの男が小舟の船首にあるベルを鳴らすと、海面にシドラのヒューイが顔を出した。
「今日もご苦労様。しばらく自由に遊んでおいで。」
マスクの男は小舟の両脇と船首からロープを切り離し、シドラのヒューイを解放した。そのヒューイがゆっくりと海中に潜っていくのを見送り、二人の方に振り返り笠原に向けて静かに言葉を発した。
「ようこそ。我々の都『ミレナス』へ。」