十八話 沼地の住人
*1*
森の中はしっとりと湿った空気が漂っていた。殆ど陽の光が届かないのか、木々の根元には苔が生えていて足を滑らせてしまいそうになる。
三人は周囲に気を配りながらその森の中を進んだ。リリィは両手に剣を、トルザは大剣を剥き出しにしていつでも臨戦態勢になる状態でいた。
時折、茂みの陰から物音がしたり、小動物が飛び出してきたりする事に逐一反応していた。だが、今の所野人の気配は感じられなかった。
そして三人は森の中を一時間程進み、目的地の池にたどり着いた。
「さぁ、着いたぞ。」
リリィが示すその池は、とても神秘的な雰囲気を醸し出していた。
底が見える程澄んだ水、そして小魚や水生昆虫の様な生物が浅瀬にいるのが見える。
水面は鏡の様に静まり返り、そこに睡蓮の様な花を咲かせた植物があちこちに浮いていた。
「ここもいいポイントだ。」
笠原は早速釣りの支度をし、ルアーケースからこの池にいる小魚と同じ位の大きさのルアーを選んだ。
ルアー釣りの世界には、”マッチザベイト”と言う言葉があり、そこに棲んでいたり泳いでいたりする小魚の大きさにルアーを合わせる事がセオリーとして確立されている。もちろん、それはセオリーと言うだけでその場その時の状況でルアーの色や形、そして大きさを自身の経験を活かし、柔軟に思考でルアーを変える事が最も大事であるのだ。
だが今回の様に初めてのポイントではとりあえずセオリーに沿ってそのマッチザベイト手法で試みてみる事にした。
笠原は池に浮かぶ睡蓮の様な植物のすぐ近くに狙いを定め、静かにルアーを投げる。
ルアーが着水した際に出来た小さな波紋で睡蓮の様な植物がユラユラと揺れていた。
そして魚に警戒心を与えない様にゆっくり、静かにルアーを動かす。
すると一投目、ルアーのすぐ近くで水面がもわもわと怪しい波を立てた。
「来るぞ…。」
その笠原の言葉のすぐ後に、そのもわもわとした怪しい波が急に激しく水飛沫を上げるほどの大きな波を立てた。
「来たっ!!」
竿がグイグイと曲がり、池の水面を滑る様に右へ左へと魚が走る。
すると突然、フッと軽くなる様な感覚がした。だがその直後、魚が水面から飛び出して大きなジャンプをした。
先ほどまで静まり返っていた水面は、今や水飛沫や白波で荒れた様子に変わっている。
それ程大きく無いこの池で、これだけ魚に暴れ回られたら他の魚は警戒しきってもう釣れ無いだろう。笠原は自身の経験からそう組み立てた。つまり、この魚を逃したら次は無い。そういう事だ。
笠原はいつに無く慎重になり、魚の感覚をしっかりと把握する。水中の水草や睡蓮の様な植物に絡みつかぬ様、しっかりと魚をコントロールした。
ただ魚を掛けるだけでは無く、そこからの取り込み方、そして臨機応変で柔軟な思考と分析力がプロとしての技術である。その技術の結晶が、魚との勝負の勝敗を分けるのであった。
そしてこの勝負は、笠原の勝利で幕を閉じた。
「これは…何ていう魚ですか?」
笠原はタモ網に入った魚をトルザに見せる。
その魚はナマズの様な口髭を生やし、やたらと背中が盛り上がっていて艶のある濃い緑色の鱗と赤色の斑点の模様した80センチ程の巨大な魚であった。
「こいつはやたらデカイ燃油魚だ。やったな!本命が釣れたぞ!」
それを聞いて笠原はまたガッツポーズをして喜びを表した。
だがそれも束の間、喜んでいる暇も無くリリィが慌ただしく声を上げた。
「二人とも早く戻るわよ!雲がかかって来た!」
その言葉にふと上を見上げると、先ほどまで木々の隙間から僅かに差し込んでいた陽の光が殆ど見え無くなり、辺りが薄暗くなって来ていた。
すぐさま釣り上げた燃油魚を、持ち合わせた布袋に入れ森を出る支度をした。
*2*
三人は森の来た道をを急いで戻った。既に陽の光は殆ど無くなり、足元すら見えずらくなっていた。
枯葉や小枝を踏む音が森の中に響き渡り、あたかも野人に自分達の居場所を知らせてしまっている状態になっている。
すると、少し遠くの方で同じ様な音が聞こえる。それはおかしなもので、三人の動きに合わせてパキパキと小枝の折れる様な音が聞こえるのだ。
「マズイわね…。奴ら、もう近くまで来ている。」
リリィ、トルザは剣を構えて辺りを警戒した。笠原もすかさず腰の剣を抜き、左手に釣り竿、右手に剣を持った格好はどこかおかしな物だった。
三人は警戒を強めながら森の出口までゆっくりと向かう。
先ほどまでいた小動物達は姿を消し、巣穴や物陰に潜んでいる様だ。それは何かの危険にいち早く感づいた野生動物の行動である。
その彼ら野生動物にとっての危険とは、笠原達三人の人間、もしくは野人のどちらかであろう。それが後者で無い事を祈りながら、三人は森の出口に向かった。
そして森の中は次第に明るみを取り戻し、とうとう出口が先に見えてきた。
「もうすぐ出口だ。トルザ、カサハラ。一気にここを抜けるぞ」
リリィがそう言ったその時、木の陰から三人の目の前に突然何かが現れた。
「うわぁっ!?な、なんだコイツ?」
それはとても小さな野人であった。まだ子供なのであろうか、大きさは大人のニホンザル程度で、笠原達の様な人間が珍しく思えたのか、襲ってくることも無ければ逃げることも無く、時折首をかしげては四つの黒い瞳をパチパチと瞬きしていた。
「何か…思っていたよりかわいい奴ですね…。」
笠原はこの小さな野人を見て少しだけ愛らしく思えた。
「コイツがさっきの音の正体か。ビックリさせやがって……」
トルザがそう言った瞬間、リリィが声を荒げて叫んだ。
「後ろだっ!!」
それと同時に、この世の物とは思え無い奇声を上げて数匹の野人が四方から物凄い速さで襲って来た。
「クソッ!ハメられた!」
そう、先ほどの小さな野人は隙の無い敵を油断させる為の”囮”だったのだ。
その原始的な生態とは裏腹に、こうした狩猟方法を用いてくる事から野人の知能の高さを垣間見る瞬間であった。
「1、2、3、4……全部で6匹か。こっち側は任せとけ!」
トルザはその大剣を構え、一気に三体の野人と対峙した。
案の定、笠原は足が震えてしまい何をして良いのか分から無くなってしまっていた。
するとリリィが笠原の前にスッと立ち、両手に剣を構えて言った。
「そこを動くな。安心しろ…私とトルザで一気に片付ける。」
迫り迫り来る野人の猛攻に、リリィとトルザは笠原を挟み背中合わせになった。
そしてトルザ側から来る野人が奇声を上げ三体同時に飛びかかって来た。
トルザは薄っすらと笑みを浮かべ、その大剣を地面に引きずり草木を舞い上げながら渾身の力を持って振りかざした。
すると肉や骨が断ち切れる異様な音と悲痛な叫び声を上げて、野人三体が空中で真っ二つになった。笠原とトルザはその野人の夥しい大量の血を頭から浴びてしまう。
ボタ…ボタ…と野人の上半身と下半身が笠原の足元に落ちて来た。無残に横たわる半身の野人は、まだピクピクと痙攣する様に動いていた。
内蔵が飛び出し、その白く半透明な野人の肌が赤黒く染まる。森の匂いの中に、鉄臭い血の匂いが漂った。
笠原は、それに耐え切れずその場で嘔吐した。
「う…うぇ…ぇっ……っ。」
そんな笠原に御構い無しと、今度はリリィが舞う様な身のこなしで剣を振る。
迫り来る野人に向かって真っ正面から突っ込み、次々と野人を切り裂いて行く。
腹を切り、腕や脚を落とし、そして首を切り落とす。その野人の頭部がゴツっと鈍い音を立てて地面を転がった。
「あと一匹…。」
そう呟いたリリィの目は、まるで何かに取り憑かれた様に冷徹で曇っていた。
リリィの持つ二本の剣からは野人の血が滴り落ち、そのべったりと付いた血糊の隙間から鋭く光る白銀の刃が顔を出している。あたかもまだ足りないと言わんばかりに、血を欲している様だった。
そこら中に転がる野人の残骸。最後の一匹となった野人は襲い掛かるのを躊躇して威嚇しているだけであった。
そしてリリィが最後の一匹を仕留めようと剣を構えたその時、先ほどの小さな野人の子供が飛び出して来てリリィの前に立ちはだかった。
「フゥゥゥ…フゥゥゥ…。」
その子供の野人は、小さな体を精一杯大きく見せてリリィに威嚇した。それはまるで、自分の親を守る為かの様に思えた。
その様子を、リリィは冷たい目で睨みつける。
「なんだ貴様…殺すぞ。」
リリィと子供の野人との間に僅かな沈黙が訪れる。
だがその小さな野人はその場を動こうとせず、リリィに向けて威嚇を繰り返していた。
その様子を見ていた笠原が思わず声をかける。
「ちょ、ちょっと…リリィ。」
リリィは一度肩越しに振り返り、笠原に小さく笑って見せた。
そしてリリィは、両手の剣を振り下ろした。
「リ、リリィ…!やめ…っ!?」
その剣は空を切り、刀身に付いた血糊を飛ばした。
そしてリリィは、腰の鞘に剣を静かに納めた。
「…行きなさい。」
リリィは小さな野人に向け、静かに一言だけ言った。すると威嚇していたのをやめ、親の野人と共に森の奥へと消えていった。
「リリィ…。」
笠原は野人の襲撃が終わった事より、リリィがあの小さな野人を殺さなかった事に安堵した。
リリィはゆっくりと振り返り、野人の返り血を浴びた姿でニッコリと笑った。
「さぁ、戻りましょう。」
笠原はそのリリィの姿を見て、彼女の中に潜む底知れぬ恐怖を感じ取った。




