第一話 “幼馴染み”
「チッ……」
つい、誰に向けるでもない舌打ちが口から漏れた。
「何でこんなに週始めってのは憂鬱なんだ…。まぁ、学校がある日はいつでもキツいんだけどな。このままじゃ憂鬱すぎてハゲるぞ。ハゲたら学校恨むからな、一生」
癖のない黒髪に整った顔つき、黒をベースに薄く青みがかった瞳を持つ17歳の青年 エルム・カーバイン は
そんな中身スカスカの愚痴をこぼし、未だに開き切っていない瞼を余計に擦りながら、重い足を引きずるように学校への道を進んでいた。
背中には、週末に出された課題によって丸みを帯びてしまったリュックが背負われていて、それもエルムの足取りを重くさせる要因になっていた。
腕時計の針は午前7時35分を淀みなく指し示し、これから嫌でも長い1日が始まってしまうという事をエルムに報せている。
「一体、俺の学校の教職員は何を考えているんだ。休日ってのは読んで字の如く“休む日”だろうに。なぜだろう、俺には心休まる時間がこれっぽっちも無かったぞ。ホント死んじゃうって……」
エルムが向かっているのは上級学校と呼ばれる場所だ。
上級学校の他にも、中級学校、初級学校がある。
主は学習内容としては、中級学校までに習った内容の応用と発展、更にそこから新たな技術を生み出していくというものになる。
初級学校、中級学校を順当に進学さえすれば基本的に誰でも上級学校に行くチャンスはあるし、中級学校からも上級学校に積極的に進学するよう推奨されている。
だが、実のところあまり上級学校に通う人間は多くない。
より正確に言うなら、通い続けられる人間が多くないのだ。
その理由として挙げられているのが、中級学校からの難易度の上がり具合が半端ではないということだ。
上級学校は入学する事こそ比較的簡単なものの、入学後からの勉強量が尋常ではないと言われる。
上級学校側が敢えて生徒をふるいにかけているのでは?という疑惑があちこちで噴出する位には凄まじいのだ。
それらのストレスやプレッシャー、ギャップに気圧されて去っていく人間も多々いる。
もう一つ、上級学校での研究成果が世間に十分に反映されていないという事がある。
上級学校での核となる研究にも係わらず、その内容が大衆に知られたり役に立つような使われ方をする事は稀なのだそうだ。
結果、上級学校に籍を置く意味を見失ってしまう者が後を絶たないのだ。
エルムもまた、上級学校に行くことへの倦怠感を感じつつある1人だった。
「うー、目が痒い痒い。あぁ、急性登校アレルギーかなこれは。俺にもついに発症してしまったか…。いずれ発症すると思ってたけどね。むしろ発症させるつもりだったけどね。ともかくこれは一大事だな。早くおうちに帰っておねんねしなきゃ!」
一刻も早くこの症状を緩和するという大義名分のため、ついさっきまでとは打って変わってキレのある動きで家の方向に180°回転する。
すると、自分の背後に居た景色が目の前にやってくる。
今朝歩いて見てきた景色と何ら変わりない。
そりゃそうだ、ついさっきここを歩いて来たんだからな。
視線の先には、焦げ茶色や黄土色の土壁が延々と続き、その景色は一向に変わる気配はない。頭上には心許ない電球達が上から一定の間隔を空けて吊るされていて、今にも力尽きそうな弱々しい光を放っている。鼠色を鈍らせたような岩がちらほらと顔を覗かせていて、元々の殺風景さにより無骨な印象を上乗せしてくる。ここら一帯はやや薄暗く、遠くにいる人々の姿を正確に捉えることは出来ない。空気も心なしか澱んでいるようで、進んで深呼吸をしたくなるようなものではなかった。
そう。ここはこういう世界なのだ。
この環境の中で人々が様々な営みを行うことで、この世界はここだけの存在価値を手に入れる事が出来た。
《アウター》にあると言われる、どこまでも広がる《ソラ》なんてものは知らないし、
遥か遠くから光と熱を与える《タイヨウ》というものには恐怖すら感じた。
緑の葉を目一杯に広げるという《ジュモク》は、俺には想像すらつかない代物だ。
この世界に存在するものが俺にとって、そして《ナウラル》の世界の人間にとって当たり前で、それが大切な拠り所となる。
そんな事は、疑いようの無いものなのだ。
そんな事は、とうに分かっているのだ。
なのに。
「………はぁ……全く」
俺は今更何でこんな事を考えてるんだ。
つい頭をガシガシと乱暴に掻いてしまった。
いくら考えたって何も答えなんか出ないというのに。出る筈がないのに―――。
随分と無駄な時間を過ごしてしまった。
つーか傍から見たら、俺って180°ターンの後ただ突っ立っているだけのアホじゃないか。それって相当嫌なんですが。
そもそもこんなくだらない考えに耽ってしまったのも、日々のストレスが影響してるんだろう。そうに違いない。
そうだな、主なストレス要因は学校とか学校かな。あ、あと学校も。
ちょっとそれって俺の全てが学校に集約されているみたいじゃん嫌だわ。
……って、また突っ立っているアホの図を作り出してしまう所だった。危ない危ない。
これ以上危ない目に遭う前にさっさとおうちにかえっておねんねしなきゃな。
と思い、棒立ちになっていた右足を前に出そうとしたのだが…
……ん?
気のせいだろうか?
俺の背後に尋常じゃない視線を感じる。
心なしか殺気も混じっているような……
よく「視線が突き刺さる」なんていう比喩表現が使われるが、今の俺マジで視線に貫かれてるんじゃないのか。
死因:“視線”とか、ぼくすっごいイヤだよ!
そんな妄想を展開して誤魔化そうとしても、その視線が止む気配はない。
どうしよう……ここは振り向くべきなのだろうか…
それとも、このままこの視線を振り切って逃げるべきなのだろうか……
………あ、後者は無理そうだわ。
逃げようものなら、もっと惨いことになりかねない気がしてならん。
俺が覚悟を決め、振り返る為の心の準備をしていると、それより先に視線の発信者が俺の右肩を叩いてきた。
もちろん俺はそのまま身を固くして目を瞑り、ただただ環境と同化すること一点にのみ集中していた訳だが、どうやらその相手には通用しなかったらしい。
相手は肩を叩いたその手で俺を引っ張り、回転させるという荒技に出た。
俺は引き続き環境同化を試みていた為に、無抵抗にクルっと、更に180°回るハメになってしまった。
最後の手段を打ち砕かれてしまった俺はもう何も出来なかった。
あぁ…俺の人生という名の物語はここで終わるんだな…今まで悔いが7割を占める人生でした……。
え、せめて5割くらいにしてくれよ死ぬ俺が報われないだろ。
そんな残念な事を考えながら静かに自分の最期の時を噛み締めた……。
―― ―― ――
「おい!おーい!」
……んん?
聞き覚えのある声が目の前から聞こえてくる。
「ねえ!いつまで目瞑ってんの?語りってやつ開いちゃった??」
…あぁー………。
やっぱり。
この声とテンションの高さは…
てか、“悟り”と“語り”を間違えるなよ。
字面だけで覚えようとして、結局覚えられてないってのがバレバレだぞ。
なんて余計な事を考えていたら、相手はどうやら俺が無視したと捉えたらしい。
「もう!いい加減にその目開けなさい!!」
「う”ぇっ!?」
目の前にいる視線の送り主は、あろうことか俺の瞼を指でこじ開けるというとんでもない実力行使に打って出た。
いやいや短絡的過ぎでしょ。ミジンコでももうちょっと思慮深いだろうに。
形容しがたい呻き声を上げちゃったじゃないか。
流石に本格的に危険を感じたので、相手の手を制しつつ、瞼をゆっくりと開いていくと…
そこには。
おそらく10人に聞いたら10人が美少女と答えるであろう、そんな女の子が立っていた。
茶色がかった明るい色の瞳はぱっちりと開かれ、長く揃ったまつ毛は、その瞳の美しさを一層引き立たせる。
すらりと通った鼻梁に、ほど良い厚さの唇は彼女に艶やかさを与えていた。
指は細く長く、肌はどこまでも透き通るような色だった。
艶のある滑らかな茶髪は肩の少し下まで伸ばされていて、その立ち姿は凛としていて美しかった。
「あ、ようやく目開けた……って、おい!また棒立ちですか!」
「やっぱりお前だったか…」
そこにいたのは、俺の幼馴染みである ミレイラ・フェンルリル だった。
ほぼ毎日のように顔を合わせている間柄だ。
こいつとは小さい頃から時々一緒に遊ばされていた。
幼い頃から勝気な性格で、少しでも歯向かおうものならよく殴られたものだ。まだ覚えてるからな。ちくしょうめ。
こいつの家庭事情は中々に複雑で、身内と呼べる人間はあまり多くないらしい。
せめてもの気遣いとして、同年代である俺と一緒に遊ばせていたのだろう。
なんて言ってる俺も、そこまであいつの家庭について知っている訳じゃないけどな。
とにかく、その事情とやらのせいで初級、中級学校にはあまり来られていなかった。
たまに学校に行ったら行ったで、その容姿故に男子からは告白の嵐だったようで、それが火種となり、女子から難癖をつけられる事も少なくなかったようだ。
そんな事があまりにも起こるので、学校に行くのが面倒になっていってしまったらしい。
やはり女子は闇が深い。おぉ怖いぜ。
結果的に、ミレイラには“友達”と呼べるまでの関係はあまり出来なかった。
ミレイラ自身は、信頼をおける人が少しでもいれば大丈夫だと、そう言っていたが。
―― ――
「? まだ考え事してるの??」
ミレイラは訝しげに俺の顔を覗き込んでくる。
「あ?いや、なんでもない」
俺はあえてそんな素っ気ない返事をする。
強いて言うなら顔が近い。
気恥ずかしくなり、ふっと顔を逸らす。
すると、ミレイラはより一層お怒りになったようだった。
頬を膨らませ、腰を手にあてて“いかにも”な怒り方をしている。
あるぇー。
まさか今の受け答えの態度に怒ったのか?
あなた、そんなにデリケートな方でしたっけ?
とりあえず面倒事になる前に、どう対応しようか。1人、対策会議を開いていた俺だったのだが、どうやらお怒りの原因は他にあるらしい。
「エルム、あなたなんで学校と真逆の方を向いてたの?
まさかサボろうだなんて思ってなかったよね?ね?」
あぁなんだ、その事について怒っていたのか。
それなら俺にも反論の余地はある。
「サボろうだなんて思うわけないだろ。俺には今朝、急性登校アレルギーというものが発症してだな。もし完治しないまま学校に行ってしまったら、全身から発疹が出て、帰宅を求めずにはいられなくなるという恐ろしい病なんだよ」
ちなみに似た病として、通勤アレルギーなんてのもある。
「またそんなバカ言って!これだからいつまで経ってもお子ちゃまなんだよ、エルムは。せっかく上級学校に入ったんだから、やることやんないともったいないじゃん!」
「そんなこと言うけどな、はっきり言って上級学校の学習内容は意味不明だぞ?学校での研究の何がナウラルの役に立っているのか分かったもんじゃないしな。1回この大変さを感じてみれば分かるんだろうけどなぁ」
「……………。」
ミレイラは急に黙って俯いてしまった。
「あ、ちょっと?」
呼び掛けても返事は返ってこない。
……ちょっと意地の悪い言い回しをしちまったか。
ミレイラは上級学校に通っていないのだ。
初級、中級学校での学習内容がほぼ抜けているミレイラにとって、それらを用いる上級学校の試験はハードルが高い。
以前彼女から上級学校に入りたいという話を聞いたが、それはどこか現実離れしているように俺には思えた。
ミレイラは俯いたままじっとしていたが、しばらくすると鼻をすする音が聞こえてきた。
クソ、居心地が悪いな。あまりこういう空気は好きじゃない。
それに、この構図では俺がすごいワルみたいになってしまう。というより現在進行系でなっていってる。
近くを通る人の目が冷たいぞ。あの、これは違うんです。
早くどうにかしなければ。
頭の中で問題解決までのシミュレーションを最高速で行い、内容を決定。早速実行に移すため口を開きかけたその時。
「アハハハハハッ!アハッ アハハハハハッ!」
………へ?え?
ミレイラが急に笑い出した。
なんの前触れもなく。
まさか……頭のネジが外れてしまったのか。
元々何本か外れていそうだったのだが、まさかここまで拡大しているとは。
いいネジを売ってる店ってどこにあったっけ……
少しすると、ひとしきり笑い終えたのだろうか。ブロークンミレイラさんが涙を拭いながら喋り出した。いやどんだけ笑ってんだよ。
「アハハッ、ほんっとおかしい。見事に私の予想通りにエルムが喋ってくれるんだもん」
「おい、マジでどうしたんだ?話がまるで掴めないぞ。」
かなり混乱しながら尋ねるが、なおもミレイラは笑いが堪えきれないといった様子で途切れ途切れに話していく。
「だって、普段なら私がこんな時間にエルムが通る道にいるわけないじゃん。まずそこが変だとか思わなかったの?」
あ、そういえば…
ミレイラは朝が苦手だ。
苦手という領域を超えて、敵対している可能性すらある。
なにせ朝が苦手だと自負していた俺がお顔真っ青になったレベルだ。
あまりのショックに暫くの間は夜しか眠れなかった。
誰が起こしても、自分が満足するまで布団から出ない日もあるらしい。
我ながら不覚だった。
だが、それが分かったところで腑に落ちないことがまだ残っている。
俺はまず1つ目の疑問をミレイラにぶつけた。
「にしても、どうやって俺を見つけたんだ?行き違いになる可能性だって十分あっただろ」
「んー……何となく分かるの!詳しい理由は知らないけど、探したい人の顔を思い浮かべると、不思議とね」
とんでもなくアバウトな回答だな。
正直全然納得出来てないんだが。
でもまぁ一番気になることがまだ残ってるから、そっちを先に聞いてみるか。
「そもそも、どうして俺に会いに来たんだ?わざわざ今来なくたって、会おうと思えば会えるだろ」
俺がそう言うと、ミレイラは待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべ、その口を開いた。
「フッフッフッ。よくぞ聞いてくれましたねエルム君よ」
「あ、そういうのハショってオッケーです」
「もう!ホントわかってないんだから…」
ミレイラはそこで溜めを作り、僅かに微笑んでみせる。
そこで今日初めて、ミレイラとバッチリ目が合った。
つい見惚れてしまうような微笑みを湛えるその姿は、かつての幼馴染みとは少し違って見えた。
それからほんの僅か、時が流れた後………。
ミレイラは満を持して言い放った。
「何を隠そう、私は今日から上級学校生となるのです!!」
・・・・・?
・・・・・・?
ほへ?
その一連の言葉を飲み込んで消化するまでに、幾ばくの時間を要した。
そして十二分にミレイラの言葉の意味を理解したつもりだったのだが。
俺の口をついて出た言葉は。
「どういうことですか?」