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空色少年物語  作者: 青波零也
第一部 空色少年と賢者の行方
72/131

15:対峙(1)

 セイルは、言葉を失い、立ち尽くす。

 蒼空を背に笑うブランは、確かにセイルの知るブランだ。そのはずだというのに、全く見知らぬ相手を前にしているような錯覚に陥る。

 それは彼が髪を結っていたリボンを解き、見慣れぬ神殿の法衣を纏っているということもあったのかもしれないが……それ以上に、ブランの持つ気配が、普段の彼とは異なっていた。

 ルクスの、静かでありながら何もかもを圧倒するような気配とも違う。

 それは――弦に似ている。今にも切れてしまいそうなほどに細く、それでいて限界まで張り詰めた弦が微かに震える音色。

 酷く不安定で、しかし触れればたやすく触れた者の指を傷つけるような。背筋がちりちりするような冷たい気配を湛えて、ブランは薄い唇を開く。

「ルクスはどうした?」

「通してもらえたよ。ディスが、力を貸してくれたから」

「ああ……そうか。『ディスコード』にはルクスの手の内は通用しねえんだったな。それは俺様も失念してたわね」

 言って、ブランは大げさに肩を竦め「それにしても」と言葉を続ける。

「正直、お前さんがここまで来るとは思ってなかったよ」

 その言葉は果たして呆れだったのか、それとも純粋な賞賛だったのか。それすらもセイルにはわからなかった。ブランの声からは何の感情も見出せず、ただ事実を淡々と述べるような響きだけがあったから。

 何かが変だ。

 セイルは軽く唇を噛んで思う。

 ここにいるのは、本当に自分の知っているブランなのか。自分の知っているブランは、多少人とずれた部分はあっても、きちんと「そこにいる」と感じられる存在だった。

 だが、今目の前にいるブランは、完全にセイルの理解を拒んでいた。

 否……これが、セイルの知らなかった、本来のブランなのかもしれない。笑顔を浮かべながら心の底では本気で笑っていたことなどなかったことは、セイルも既に気づいていたことだ。

 果たして、そんなブランに自分の言葉が届くのか。

 セイルは背筋が冷たくなるのを感じながら、思わずにはいられなかった。

 だが、

『確かに奴に手前の言葉が届くかどうかはわからん。だが、届くか届かないかじゃねえ』

 脳裏で、ディスが静かに囁く。

『思い知らせてやるんだ。無理やりにでも』

「ディス……」

「失礼なことを言ってくれるじゃない、『ディスコード』?」

 ディスの声が聞こえていたらしいブランが、大げさに肩を竦める。その零下の双眸だけは、笑みの色を湛えないままに。

「俺様、人の話はきちんと聞いてたつもりだがな」

『手前は、確かに「聞いてた」だろうよ。だが、それだけだ』

 ディスはセイルの頭の中で淡々と言う。

『手前は、聞いていながらさっぱり理解出来てなかったじゃねえか。こいつのことも、シュンランのことも』

「理解……理解、か」

 ブランの瞳が、微かに揺れた……ように、見えた。一体、何がブランの心を動かしたのか、それはセイルにはわからなかったけれど。しばし、ブランは額に手を当てて何かを考えていたようだが、すぐに鋭い瞳でセイル、というよりその奥に沈むディスを睨みつける。

「随分とわかったような口を利くじゃねえか、クソガキ」

 ぴん、と。空気が張り詰める。

 ざわざわとした不快感が支配していた背中に決定的な冷たい「何か」が当てられた感覚。セイルは思わず背筋を伸ばし、ブランを凝視する。

 ――ブランの表情から、笑みが消えていた。

 その青ざめた顔に張り付いているのは、人形のような「無表情」。揺れる瞳と目蓋の動きだけがかろうじてそれを「生きた人」であると認識させてくれたが、呼吸の気配すらなくそこに立つブランは、まさしく氷で出来た彫像のように、見えた。

 思考も感情も読み取れない彫像を前に戸惑うセイルだが、ディスはそれすらも予測していたのか、セイルの脳裏で皮肉げに笑う。

『ようやく本性見せやがったな、天才様よ』

 ああ――そうか。

 セイルも、ディスの放った言葉の意味を自然と理解していた。

 これが、ブランのあるべき姿。作り物の笑みに隠していた素顔、人間らしさを全く感じさせない、凍りついた表情だけがそこにあった。

 ブランはディスを睨んだまま、しゃがれた声で言う。

「ここまで来て、話すことはそれだけか」

『はっ、そりゃあ俺からわざわざ言うことはねえからな。後は全部、セイル次第だ。そうだろ、セイル』

 セイルははっとした。

 そうだ、ブランに気圧されている場合ではない。自分が何のためにこの場所に立ったのかを思い出せ。思い出せば、自ずとすべきことも見えてくる。

 震えそうになる体を叱咤して、セイルは銀の瞳で目の前に立つブランを見据える。

「ブラン。シュンランは、何処?」

「……嬢ちゃんは向こうよ」

 ブランはセイルから目を離さないままに、横を指した。ちらりと視線を向ければ、そちらには小さな扉があった。多分、この向こうにシュンランは閉じ込められている、のだろう。

 焦るな、落ちつけ。相手が誰であろうとも、ここで折れるわけにはいかないのだから。深呼吸一つ、セイルはブランに視線を戻して言葉を紡ぐ。

「シュンランを、神殿に連れて行かせるわけにはいかない。まだ、俺も、シュンランも、こんなところで終わりたいなんて、思ってないから」

 だから。 

 言って、一歩を踏み出して――

 ひゅっ、と空気を切る音と共に、踏み出した足が否応無く止まる。

 踏み出した足すれすれの位置に、一本のナイフが突き刺さっていた。顔を上げて見れば、ブランの右手にはいつの間にか床に刺さったものと同じ数本のナイフが握られていた。『ディスコード』のような造りのナイフではなく、おそらくは「投げる」ために洗練された小ぶりのナイフ。

 この場で銃を使えない、という不利を覆しにかかったのだろう、ディスも『流石に飛び道具は持ってたか』と脳裏で舌打ちする。膂力に関しては人に劣るブランにとって、距離を取って戦う手段を講じるのは当然といえば当然だ。

 だが、さして威力の無い投げナイフを効果的に扱う、という技術そのものは、やはりブランの天性の才能によるもの。何処までも、何処までも。皮肉なまでにブランは「天才」であった。

 いつでもナイフを放てる姿勢で、ブランはにこりともせずに言う。

「悪いが、通すわけにはいかねえ。それが、今この場における俺様の役目だからな」

 下手に動けば、次はその四肢を縫いとめる。ブランは言外にそう宣言していた。今の一撃は完全に牽制だ。未来を視る力を持つブランであれば、セイルの足の甲を床に縫いとめることも不可能ではなかったはずなのだから。

 それでも。それでも――

「それでも、俺はシュンランを助けるよ。絶対に、助けるんだ」

 凛と背筋を伸ばし、右手を構える。ブランが本気で来るというならば、自分もまた本気であることをブランに示さなければならない。体の中にばらけていた『ディスコード』の欠片を寄り集め、右手に集中させるイメージ。ディスはいつもそうしているのだ、自分にだって出来る。そう信じて、意識を集中させて……

 ブランの声に、遮られる。

「助ける? 誰からだ? 何からだ?」

 それは、何もセイルの言葉を否定するために放たれたものではなかった。

「何……言ってんだよ、ブラン?」

 セイルの声にも答えず、ブランは無表情ながらも呆然と立ち尽くす。セイルの言葉を全くもって理解できていない、凍りついた瞳はその事実を如実に語っていた。

 にわかに、苛立ちがセイルの中に広がる。シュンランの心を踏みにじり、無理やりここまでつれてきたのは他でもないブランその人だ。そのブランが、何故今更他人事のような顔をするのか。自分でやったことの意味がまるでわかっていないような顔をするのか。

 ――もしかすると、本当にわかっていない、のか。

 怒りに流されかけたセイルの心が、何かに引っかかる。

 そういえば、ロジャーは言っていたはずだ。セイル・フレイザー……ブランは、決して嘘はついていない。最低でも、本人はそうは思っていないのだ、と。

 もしそれが事実だとすれば、セイルとシュンランを守る、その言葉もまた嘘ではないはずだ。それならば。それならば――

「ブラン……もしかして」

 シュンランを神殿に引き渡す、

「これが、シュンランを助ける手段だってこと?」

 ブランが下した選択もまた、セイルたちとの約束の延長線上にある、はずで。

 硬い表情のセイルに対し、ブランは表情を失ったままに、当たり前のように言い放つ。

「決まってるじゃねえか。俺の目的はただ一つ、お前と嬢ちゃんの無事を確保することだ」

 頭に冷たいものを浴びせかけられた気分になって、セイルはその場で固まる。何か、何か絶対に伝えなければならないことがある、思うのに言葉が出ない。

 そんなセイルの思いを知ることのないブランは、抑揚の無い声で言葉を重ねる。

「本当は、もう少し余裕があると思ってた。奴らが必要としている嬢ちゃんと『ディスコード』はこちらにある。その利を生かして『エメス』の連中が大きな動きに出る前に、嬢ちゃんの望み通り賢者様に会えるなら、そっちの方が俺としても都合が良かった。だが」

 ブランの、零下の瞳が細められる。さながら氷の針のように。

「エリオットと会って確信した。『エメス』は嬢ちゃんって切り札抜きでも動けるだけの力を持っている。異端研究者を従える賢者様のカリスマと奴の知識があれば、楽園を完全に転覆させることは出来ないまでも……楽園の半分を塗り替えることくらいは可能と判断した」

 声にも、表情にも、感情は表れてはいなかったけれど。よく見れば、横に垂らした左手は硬く握り締められ、その手の平から血が滴っていた。

 ディスはセイルの脳裏で唇を噛み、この場の二人にしか聞こえない声で言う。

『それが、手前の見た未来か』

「ああ。慎重が遅きに失した。その点では、俺を恨んで構わない。だからこそ、もう、二度と手を誤るわけにはいかない」

 淡々と、淡々と。

 ブランは言いながら、一歩、前に出る。

 セイルの銀の瞳を射竦めたままに、氷河の瞳を持つ男は血を滴らせる左手をセイルの前に差し伸べて、きっぱりと言った。

「『ディスコード』を渡せ」

「……な……っ」

 思わぬ言葉に、セイルは絶句し一歩下がる。だが、ブランはそれに合わせてもう一歩踏み出しながら、言葉を重ねていく。

「時間が足らない。そいつをお前の手で遊ばせておく余裕ももう無い」

『ブラン……手前、まさか』

「嬢ちゃんを神殿に保護させて、俺が『ディスコード』を手にすれば、奴らが神殿には即座に手を出せない以上、しばらく賢者様の狙いは俺一人になる」

 そもそも、俺は俺で賢者様に狙われてるしな、とブランはそこで微かに笑う。笑っているように見えるのに、全く心が篭っていない笑い方で。

「最初から、そうすべきだった。そうすべきだったんだ。お前だってそれが最善だとわかっていて、それでもあの二人のために今まで時間稼ぎをしてみせたんじゃねえか、『ディスコード』」

『……っ、そうじゃねえ! 俺は、手前が!』

「答えは要らない。どうにせよ、遊びは終わりだ。時間が無い。本当に、あまりにも、足らない」

 だから、『ディスコード』を渡せ、と。

 ブランはセイルに肉薄するように、更に一歩。

 白い男を見上げるセイルは、足が固まって、動かない。その心には、一抹の迷いが生まれていた。

 何も、ブランはセイルたちを悲しませようと思ってこの行動に移ったわけではない。ただ、セイルたちが無事であればいいという思い、その一つの思いで動き続けていたというのだ。

 そして、セイルはそのブランの行動を、ただ非難することは出来ない。

 ブランの言うとおり、最初からそうしていればよかったのだ。初めてセイルに出会った時、『ディスコード』とシュンランだけを連れて、セイルなんかに目もくれず『紅姫号』で逃げていれば全ては終わっていた。

 セイルが何も知らない間に、全てが片付いていたに違いない。

 けれど。

 ――ディス、答えて。ディスが、ブランを止めてたの?

 セイルは、声無き声で呼びかける。

 ブランとディスのやり取りが意味するところはセイルにはわからなかったけれど、会話から判断するならば、絶対に、ブランとディスの間にセイルの知らない取り決めがあったのだ。

 案の定、ディスは歯噛みして、言った。

『ああ、そうだ。初めて会った時言ったんだよ。俺は素直に手前に従う気はねえ、従わせたいなら今の使い手の許可を取れってな。こいつは決して嘘をつかん、一度取り決めたことは破ることはねえ。だが』

 浅い呼吸の気配と共に、ディスの声が少しだけ沈む。

『それは、手前が望むなら俺を渡しても構わんってことだ。こいつの言う通り、シュンランを神殿に連れて行かせて俺をブランの手に渡すのが、一番安全な手段だということは否定しねえ』

 ――ディス……

 ディスの思いは言葉以上に複雑だ。否定しない、と言っているけれど、一番否定したがっているのがディス自身だということは、セイルの胸の中にしっかりと伝わった。

 セイルはぎゅっと左手を握り直し、俯いて、考える。

 そうだ、よく考えなくてはならない。

 きっとここで『ディスコード』とシュンランを渡すのは一番簡単なことだ。何も知らなかったあの頃とは違う、今は『ディスコード』が何なのかも、『エメス』、そしてこの楽園に対してどれだけの影響力を持つものなのかも、理解している。同じように、シュンランがどれだけ『エメス』の危険にさらされているのかも、理解している。

 そして、セイル以上に全てを理解しているであろうブランは、何もかもを背負って『エメス』の前に立とうとしている。セイルとシュンランを守るために。

 けれど、それは……!

 セイルは唇を噛み、勢いよく顔を上げた。銀の瞳で凍りついた瞳を見据えて、高く、声を上げる。

「違う。ブランは、間違ってるよ!」

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