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空色少年物語  作者: 青波零也
第一部 空色少年と賢者の行方
115/131

23:沈黙の深淵(4)

 水に潜ったのと同じような、耳を圧迫するような感覚。

 沈む。沈んでいく。

 そして、金色の世界を何かが駆けていくのを、見る。

 それは、人影のように見えた。ふわりと長いスカートを翻し、金色の世界を両腕を振って駆けていく。肩の上で、二つに編んだ髪が揺れているのがわかる。あれは、誰だろう。その背中に向けて手を伸ばそうとして……その手に、シュンランの体を抱いていたことを自覚した、その瞬間幻は消え去り、体にかかっていた圧迫感がすうっと取り除かれる。

 金色の光が晴れた後に、セイルが見たものは、船の天井に灯る薄暗い照明。少しだけ視線を動かすと、窓の外から差し込む光はいつの間にか消えていて、外は真っ暗になっていた。痛む体を起こすと、シュンランがぐったりとセイルの体に体重を預けていた。自分も、微かな疲労感を覚えてはいたが、とにかく慌ててシュンランの肩を揺さぶる。

「シュンラン、シュンラン! 大丈夫?」

 すると、シュンランが小さく呻いて身じろぎしたので、ほっと息をつく。だが、その安堵も束の間、再び耳に響いた鈴の音に身を硬くする。

 金色の光を尾のように引いて振り向いたティンクルは、セイルを真っ向から睨む。それこそ、今まで窓の外にあった深淵を映しこんだような、深い、深い、吸い込まれそうな闇の双眸がそこにある。

 そして、今までブランに対して見せていた態度とは打って変わって、吐き捨てるように言った。

「そんなの、大丈夫に決まってるじゃない。馬鹿みたい」

「……っ、馬鹿って何だよ!」

 思わず、言葉が出た。ティンクルの視線がよりきつくなったのには気づいたが、シュンランの体をしっかりと抱き寄せて、負けじと睨み返す。

「アンタだって、兄貴が大切ならわかるだろ! どんな時だって、大切な人が苦しそうなら、心配するもんじゃないのかよ!」

「……しん、ぱい……?」

 ティンクルは、こくりと首を傾げた。こちらの言っていることが通じていないのか、とも思ったが、よく見れば、ティンクルはぎゅっと手を握り締めていた。何かを堪えるように。

 思わぬ反応にセイルは小さく息を飲むが、すぐにティンクルは棘を混ぜた言葉を降らせる。

「馬鹿じゃない。シュンラン、シュンランってそればっかり。心配なんて必要ないよ、シュンランは強いもの」

 そんなことはない。さっき、シュンランのすみれ色の瞳が映していたのは、不安だ。シュンランだって、弱さを抱えているというのに、この道化に何がわかるというのだろう。

 そう思って、歯を食いしばり、ティンクルを見上げたその瞬間。

「だから……ワタシは、勝てない」

 ぽつり、と。黒塗りの唇が紡いだのは、乾いた声。

「勝てない。勝てないよ。それなら、ノーグのために、ワタシにしかできないことをするの。シュンランにも、頭のおかしいあの男にもできないこと。それはとっても素敵なこと。そう、これでいいの。ワタシは何も、悪くないんだから!」

 徐々に声を高くするティンクルは、愉快そうに笑っていたけれど……何故だろう。セイルには、素顔を隠す大げさな化粧の下で、今にも泣き出しそうな表情をしているように、見えた。

「ティンクル……?」

 どうして。どうして、そんな顔をするのだろう。

 今までは不愉快で不可解なだけだった道化の、素顔を垣間見てしまったような気がして。セイルは、戸惑いがちにその名を呼ぶ。すると、ティンクルはセイルには背を向けて、しゃらりと両手を振る。

「さあ、素敵な宴の始まり始まり! 骸骨奏でる笛の音に合わせて、ダンス・マカブルを踊りましょう!」

 高い声と共に三回踵を打ち鳴らしたかと思うと、ティンクルの姿はその場から忽然と消えていた。微かな、金色の軌跡だけを残して。

『死の舞踏、か。物騒なこと言いやがって』

 ディスが、低い声で呟く。ダンス・マカブル――死の舞踏。意味はわからないが、不吉な響きであることは、確か。

「ティンクルは……何を、考えてるんだろう」

『さあな。ろくなことじゃあなさそうだが』

 ティンクルの考えが読めないのは、今に始まったことではない。いつも、あの道化はセイルの思いも及ばないようなことを言い放ち、周囲を混乱させてきたのだから。

 けれど、ティンクルには、ティンクルなりの思いや決意があって、胸の内から湧き出てくるものに従って動いているのだ、と。あの表情を見てしまったら、改めて考えずにはいられない。

 シュンランをはじめとした仲間たち、そしてセイル自身を傷つけようというならば、剣を抜いて抵抗することに躊躇いはない。ただ、仮に、そうでないというなら……

『くだらないこと、考えてんじゃねえだろうな』

「えっ?」

『どうせ、あの道化と話が通じるかもしれない、なんて甘っちょろいこと考えてたんだろ』

 ディスの指摘は、いつも悔しいほどに的確だ。セイルが小さく頷いて返すと、ディスは大げさに溜息をついて言った。

『よせ、変に同情したところで、手前が傷つくだけだ。いいことねえよ』

「でも……何となく、だけどさ。わかる気がしたんだ」

『はあ?』

「ティンクル、自分にしかできないことをするんだ、って言ってた。俺も、何度も考えたことだったから。俺に、何ができるんだろう。俺がここにいる意味って何なんだろう、って」

 いや、ずっと、考え続けている。シュンランの体温を腕の中に感じている今でさえ、ここにいるのが自分である必要があるのかと、考えずにはいられない。

 もちろん、シュンランと過ごした時間やブランとの対峙、チェインと言葉を交わしたこと、そして、ディスと共に歩んできたこと。その全てが繋がって、今の自分がここにあることは、わかる。それは、自分以外の誰も辿ってこなかった道なのだということも、わかる。

 認めてもらっている、その実感はあるけれど……それでも、いつだって、不安なのだ。

 未だにそんなところで不安がっているなんて、ディスは呆れるだろうか。それとも今更の弱気に怒るだろうか。恐る恐る、ディスの様子を伺ってみると……ディスは、小さく息をつき、セイルの予想に反して静かに言った。

『……まあ、わからんでもねえよ。不安は消えちゃくれねえし、自信を持てっつったって、簡単なもんじゃねえ』

「ディス……」

『だが、ティンクルに同情するのはそれとは別の話だ。奴は、まともじゃねえ。俺たちとは根本的に相容れねえ……そう思ってねえと、寝首かかれるぞ』

 ディスの言葉も、もっともだ。本当に「まともじゃない」かはともかくとしても、ティンクルは何度もシュンランを狙って、過激な方法で襲ってきている。心を許してはいけない相手であることも、間違いないのだ。

「うん……ありがとう、ディス」

 何も、同情することをやめろと言われたわけではない。思いを馳せることは、それだけならば、悪ではないのだから。

 それでも、剣の切っ先を向ける場所と、手を差し伸べるべき場所は、間違えてはならないのだと、改めて胸に刻み込む。

 その時、腕の中のシュンランがうっすらと目を開き、桃色の唇でセイルの名を紡ぐ。セイルは、はっとしてシュンランの顔を覗き込み、声をかける。

「シュンラン、気分はどう?」

「はい、だいじょぶ、です。ティンクルは……どうしました、か?」

「何だか、いなくなっちゃった。何をされたわけでもない、と思うけど……」

 シュンランは、頭を軽く振って、微かにふらつく足で立ち上がろうとする。セイルは慌ててその肩を支えて、自分も一緒になって立ち上がった。

 先ほどと、部屋の状況自体は変わっていない。窓から差し込んでくる光がなくなったために、暗くは見えるが、それだけだ。その場に倒れこんでいたチェインやブラン、クラウディオも、目が覚めるまでに多少の時間差はあったが、眠っていただけで危害が加えられた様子はなかった。

 分厚い眼鏡をかけなおしたチェインは、窓越しに外を見つめて、問いを投げかける。

「それで……今、私たちはどこにいるんだい?」

「気圧から見るに、どうも、地上に近い場所のようだが……」

 クラウディオが、部屋に取り付けられていた計器を眺めて言う。その様子を見届けたブランが、コートの裾を翻して立ち上がると、「行くぞ」とセイルたちに声をかける。

「え、どこに」

「船の外に、だ。あの道化の嬢ちゃんが丁重にご招待してくれたんだ、乗らねえのは嘘だろ」

 それだけを言って、ブランはさっさと部屋を出て行ってしまう。クラウディオがブランを止めようと身を乗り出したが、その手は空を切る。セイルは、一瞬躊躇ったけれど……止めるにせよ、ついていくにせよ、とにかくブランに追いつかないと話にならないと判断し、シュンランの手を引いてブランの背中を追った。

 ブランは、船の出入り口辺りで計器を確認していたが、すぐに小さく頷くと扉の開閉装置を慣れた様子で操作した。ぷしゅう、と空気が抜けるような音を立てて、扉が開き……セイルは、そこに広がる光景を目に焼き付けることになる。

 そこは、ほとんどが闇に包まれていたが、ドライグの格納庫とよく似た場所だった。たゆたう黒い水の上に漂う船、そのすぐ側には橋がかけられ、金属の床と繋がっている。そして、その床は、細い廊下へと繋がっているように、見えた。

 セイルのように夜目が利くわけではないシュンランが、小さな声で歌を歌い、青白い光を浮かび上がらせる。そうして、その場にいる全員が、自分たちの置かれている状況を把握した。

 自分たちは今、あの塔の中……塔の内部に繋がる場所に、いる。

 ブランは、軽々と船から橋へと飛び移り、扉から顔を覗かせていたクラウディオに鋭く声をかける。

「クラウディオ、他の二隻、ここに呼べるな?」

「……ああ。君たちは、行くんだね」

「もたもたしてると、賢者様を逃がしちまうかもしれねえからな」

 クラウディオは、一方的なブランの言葉にどう応えるべきか一瞬悩んだようだが、やがて、やれやれとばかりに肩を竦めて言った。

「わかったよ。この船の防衛は任せてくれたまえ。ただし、無理はしないように」

 応、とひらひら手を振るブラン。セイルも「行ってきます、クラウディオさん!」と声を上げて橋へと飛び移り、シュンランと、少しだけ苦しそうな表情を浮かべているチェインに手を貸す。

 チェインの指先は、思っていた以上に、冷たかった。

「チェイン……平気?」

「ああ、何とかね。聞いてた通り、空気が薄い感じだよ」

 ――やっぱり、マナが足らないんだ。

 フォイルやルーンから発生する濃いマナであれば視認できるセイルだが、通常の状態で大気中を漂うマナを感知することはできない。シュンランも不思議そうな顔をしているから、チェインのようにマナが足らないから呼吸が苦しい、という感覚は持っていないのだろう。

「ルーンは手放すなよ。姐御の場合、そいつが命綱みてえなもんだからな」

「わかってるよ。全く、こんなところに暮らしてる奴の気が知れないね」

 チェインは吐き捨てるように言って、通路の先を睨みつける。

 この先に、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスが待っている。楽園でその名を聞かない日はなかったにも関わらず、この六年間、一度もセイルの前に姿を現さなかった兄。楽園全土に宣戦布告した一方、病に苦しんでいたとも伝えられる、兄。

 マナに影響されない体ではあるが、息が苦しい。胸がどきどきして、揺れているわけでもないのに、足下が揺れるような感覚に陥る。

 セイルが今まで感じてきた不安、焦燥、恐怖が蘇る、けれど……それ以上に「会いたい」という思いが、そっと背中を押す。

 立ち止まって、震えているくらいならば、駆け出して何もかもを確かめるべきだ。ここまで来て、怖気づいている場合ではない。

 ぎゅっと、片手を握って、その感覚を確かめたところで、チェインが辺りを見渡していたブランに問う。

「しかし、あの道化が嘘をついてる、って可能性はないのかい?」

「それは、ないと思うです」

 その言葉に応えたのは、ブランではなく、シュンランだった。そちらを振り向いたチェインをすみれ色の瞳で見上げたシュンランは、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。

「ティンクルは、わたしたちを、会わせたいんだと思うです。理由は、わかりませんが……そこに、嘘はないです。その思いだけは、伝わった、です」

 その言葉には、セイルも異論はなかった。もちろん、理由も根拠もない。けれど、あの道化が今この瞬間は嘘をついていない、ということだけは信じてよいと思えたのだ。

「……そうかい。ま、アンタがそう言うなら、信じてよいだろうね」

 チェインは、言って腕を振る。じゃらり、という音は長い袖の下に隠された鎖が鳴る音色だ。

 この時のために、チェインは生きてきたのだ。断罪の鎖を手に、時には己の手を汚してでも、影追いとしてノーグ・カーティスを追跡しつづけた。その全てが、この場所で終わろうとしている。

 その横顔は、決然としたものではあったが……やはり、瞳の奥にちらつく色には、微かな鈍さがあった。それは、セイルへの気遣いだろうか。それとも、全く別の感情から来る迷いだろうか。

 それでも、チェインは俯くことなく、通路の先を見据えている。そして、紅を引いた唇を開く。

「私も、やっとここまで来たよ、姉さん」

 それは、既に世界樹に還ってしまった、大切な人への言葉。

 そして、

「私の答えを……探しに来たよ」

 自分自身に向けた言葉でも、あった。

 金属の音色を響かせ、チェインはすっとセイルの前を行き過ぎ、凛とした声で言う。

「行こう」

 うん、とセイルとシュンランは一緒に頷いて、チェインを追って駆け出す。そして、一歩先からセイルたちの方を向いていたブランは……どこか、遠くを見るような目つきで、チェインを見つめていたような、気がした。

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