さいご
桜が、降っている。
まるで血染めの桜のように紅く咲き乱れ、光のなかで狂ったように踊っていた。己の異界に還るだけで力を使い果たし、地面に崩れ落ち四肢を投げ出したままの恰好で、泡沫の花びらを捕まえようと震える指先を伸ばす。触れた瞬間に花びらは、夢幻の如く掻き消えた。
これだけたくさんの桜が降り続いているのに、触れることが出来ない。既に知っていたその事実が、私に寂しさに似たものを感じさせた。
腕を伸ばし続けているのも辛くなり、込めていた力を抜いた。ぱたりと音を立てて地面の上に落ちた手はたったこれだけの動作で痙攣を繰り返している。それを苦い笑みで見つめる私の顔に、濃い影が落ちた。
「死にそうじゃのぅ」
「……あなたも、たいがい、暇ですね」
胸に走る痛みに顔を顰めながらゆっくりと呼気を吐きだし悪態をつくと、彼は愉快そうにカカ、と嗤った。
「こうも長く生きとると、やることもなくてのぅ。決まりを破った悪童でも喰らおうかと思ぅたのじゃが、どうにも喰いごたえがなさそうでがっかりしておるところじゃて」
相変わらずの言いざまに、立ち上がるだけの力すらないのに口の端が勝手に持ち上がり、擦れた笑い声を上げていた。
私の身体は、既に瓦解を始めている。脆弱なことだと、他人事のように思った。
「可愛い弟子を、看取って、くれるんですか?」
「ほほほ。莫迦言うでない。屍骸を喰ろうてやろうと思ぅていたところよ」
「ご勝手に、」
この器に執着はない。だから私が逝ったあとに彼が私の身体をどうしようが、興味がなかった。彼の視線を感じながら、瞼を閉じる。
心地よい暗闇に包まれる感覚が酷く懐かしく、同時に彼女のことを思い出していた。
彼女の祖父の血を見事に受け継いだ、混じり気のない漆黒の髪と瞳を持つ愛おしい少女。
稚い彼女の言葉、花開くように笑った顔が隙間の空いた私の心に不思議なほどするりと入りこんで、あいつが遺した子供を護らねばと思ったのが始まり。
それは今でも変わらない想い。
だからこそ、自分のこんな姿など晒したくなくて異界に戻ったのだ。
ああ、人間臭くなったものだと思わず笑いが零れた。
だが、悪くない気分なのだ。作物など育つはずもなかった荒野を辛抱強く耕し、種を蒔いてくれあいつと、美しいと思える花を咲かせてくれた彼女。二人の人間を愛せた。
それだけで、長い時間を生きた私に舞台の幕を降ろさせるには十分な価値がある。
こぽりと、胸から押しあがってきた生温い液体が口腔から吐き出された。
どうやら終わりが近づいているらしい。重たい瞼をこじ開け、最期に桜と、ついでに彼のことも拝んでやろうと思った。
霞んだ視界で彼を映す。結局、この人の素顔を知らないままだと、ぼんやりする頭で思う。師匠と慕うには悪辣に過ぎる人で、私が心を読むことが出来ないほどによく頭が回る。だから、何を考えているのか全く分からなかった。それは今も、変わらない。
じっと私を見下ろす目と、薄絹越しに視線が絡まった気がした。
気味悪く感じるほどしんとした静寂の中で、彼から視線を移し桜を見上げる。ひらひらと舞い降りる血染めの花びらの陰に、絶対に見間違えることなどない闇が閃いたのがやけにはっきりと見えた。
あいに、きてくれたのか。
胸が悦びに震え、顔が自然と綻んだ。私はそれに向かって必死に腕を伸ばし、わななく唇を開く。
『 ありがとう 』
それは、誰の声だったのだろうか。私の声か、友の声か、それとも彼女の声か。その言葉を最期に捉えて、私はゆっくりと暖かなまどろみに身を任せた。
腕の中に青年の亡骸を抱いて、白装束の片袖を真っ赤に染めた男は立ち上がる。下駄の音をカラン、コロン、と響かせながら男はゆっくりと歩き出した。
「なんて間抜けな面だ、喰う気が失せるだろうが」
男は呆れたような声音で呟き、薄絹の奥から青年の顔を見下ろす。幸せそうに蕩けた微笑みを刻んでいる顔はただ眠りについているようにも見えたが、胸元にはおびただしい量の血が付着している。顔や顎の血痕は綺麗に拭われていた。
「おめぇは、大莫迦野郎だなぁ」
亡骸と共に姿を消す瞬間、ぽつりと響いた言葉は誰にも届くことはなく、崩れゆく世界に呑みこまれてゆく。
主を失くし崩壊を始めた異界で、鮮やかに桜が一片、宙に舞って消えた。