ろくばん
かたり、とわざと扉を動かして立てた音に彼女は振り返る。広い敷地の端に隔離されたようにぽつりと建っていた小さな蔵が、彼女の居場所のようだった。
「……あなた」
僕の姿を認めて、彼女の眉が微かに寄る。それは驚いたというより、単純に不思議に思っているだけのように見えた。
「鍵を掛けておいたのに、どうやって?」
僕は優しく微笑みを浮かべて、人差し指を立てた。
「秘密です。それよりも、散歩に出かけませんか?」
「散歩?」
彼女の視線が僕の背後に移る。彼女の黒い瞳には、薄暗い夜闇が映っているのだろう。
「月夜の散歩です。なかなかいいものですよ」
彼女は少しの沈黙のあと、頷く。僕が手を差し出すと、じっと見つめたあとに黙って繋いでくれた。細く白い手が優しい温もりをもって僕の手のひらに包まれている。それが、嬉しかった。
ただ黙って、二人で手を繋いで歩く。踏みならされた山道を歩きながら星空を見上げて、路傍に咲く花を眺めた。彼女は何も言わなかったけれど、繋いだ手が暖かくて、この手さえあればどこまでも優しくなれる気がした。
けれど、そんな穏やかな時間も終わる。目的とした場所についたのだ。僕は夜闇の香りを吸い込んで、隣に並ぶ彼女を見た。
「此処がどこか、わかりますか?」
「その昔、神樹があった(・・・)場所」
彼女はじっと、月明かりに照らされた目の前の切り株を見ている。よほど大きな樹が存在していたらしいと、一目でわかるほどに大きな切り株の短い幹に白い縄を巻かれていた。隣には歴史を紹介する粗末な札が立っている。
―……お山の神樹には、望む者に過去を見せてくれるという伝承がある。神気の宿った神聖なる大樹に触れ、語りかけるように願うのだ。けれども伝承通りに過去を見た者は、数千年に及ぶ歴史の中でほんの一握りの者だけである。何故なら神樹は、心ない者たちに幹を切られその昔に形を失ったのである。
「でも、神樹は未だ此処にある。目には見えないだけで、此処にいる」
彼女は僕に、確認するように首を傾げた。
「そうでしょう? 山神様」
私は目を伏せてそっと、彼女の手を離した。その確信的な言葉は、私が「僕」でいられた時間の終わりを告げている。
「そうだ、鈴音。もっと正確に言うのなら、神樹は異界にいる」
「異界?」
「ああ。力のある者ならば、創ることができる。明確に形の在る、棲家のようなものもあれば、匂いなどを媒介に現し、己を優位に立たせる厄介な異界もある」
簡単な説明を終えて、私は短い幹だけを残したお桜さまに近づく。紺青の空に薄くたなびく雲間から射す月明かりは、物言わぬ大樹の苔むした無残な亡骸を照らしている。
「この地には、お桜さまの信仰が未だ根付いている。だから神樹は桜の眷族たちから力を得て、生き永らえている。そして私も、お桜さまの信仰の一端を担っている。私について、お前はどこまで知っている?」
背中を向けたまま返答を待っていると、しばらくの沈黙のあと彼女は答えた。
「詳しくは知らない。山神様は猿の形をした、元々は化生の者だったということくらい。それがどうして、山神様と呼ばれる存在になったのかは聞いてない」
瞼を下ろして、細く息を吐きだした。数百年前の話だ。私にとっては、昔のことのような最近のことのような、そんな曖昧な記憶。
「私は当時、定住の地を持たない妖だった。あてもなく彷徨い、山から山に移る生活。移動を繰り返して、私はついにこの山に入った。当時からこの地にはお桜さまの信仰があった。そこで私は、参拝に訪れていた人間を脅かすようになる。ある時だ。私は気まぐれを起こして山の中で迷っていた一人の子供を助け、村に送り返してやった。きっかけはそんな些細なことだったのだろう。気まぐれを起こし続けた私は、いつの間にかお山の守神とまで呼ばれるようになった。そう呼ばれたときから、私は人を脅かすことはなくなった。言葉というものは、時に強力な力を持っている。守神と呼ばれた私は、もう元の気楽な生活には戻ることが出来なかった。この地に縛られ、人を襲うことも出来ず、私は言葉に従いお桜さまを護り続けた。偶然の重なりにしてはあまりに出来過ぎた、今も続く昔の話だ」
鈴音が次に何を言うのか、私は知っていた。
「あなたはどんな、妖怪なの?」
唇が震える。
「私は、サトリだ」
鈴音の心が、ぎしりと軋んだような気がした。
「サトリはお前じゃない。私なのだよ、鈴音」
「……じゃあ、わたしはなに?」
ゆっくりと、鈴音に振り返る。作り物めいた彼女の表情のない白い顔が月明かりに青白く映ったのが、妙に印象的だった。
「お前は人間だ」
彼女の瞳から、一切の感情が姿を消した。全く命の匂いをさせない、ただの黒い硝子玉がぼうっと此方を見つめている。
「なら、わたしはどうして人の心が読めるの? 同じ人間のはずなのに、どうしてわたしだけ仲間はずれなの? どうして、化け物と言われるの?」
彼女は自分の言葉に感情を籠めることをしなかった。淡々とした、抑揚のない疑問の声がそれだけ彼女の心に巣食った闇を思わせる。濁りのないぬばたまの瞳が、深い闇への入り口に思えた。
「それでもお前は、人間だ。身体に傷を負えば血が流れるし、心が悲鳴を上げたら涙を流す。暑いと言って汗を流し、寒いと思って服を着込む。誰かを愛し、誰かを憎むことの出来る生き物だ」
鈴音の瞳が揺れた。
「私たちは違う。身体に傷を負えば痛いとも思うし血も流れるが、すぐに癒えてしまう。心が悲鳴を上げたとしても、涙は流せない。暑さも寒さも感じず、大抵が誰をも愛せず、誰かを憎むことしか出来ない」
「でも、あなたは泣いてる」
あの時の繰り返しのようだと、私は少しだけ可笑しくなった。頬を伝う熱い涙は、存外心地がいい。
「これは私の涙ではない。お前の涙だ」
「わたしの?」
不思議そうに彼女が首を傾げる。私の視線に従って頬に手をやり、その指先が濡れたことに驚いたようだった。困惑を露わに指先を見つめる間も、彼女の涙は止まらずに頬を流れてゆく。押し殺されていた心が存在を叫ぶように、長い間堰きとめられていたそれが雫となって零れだしたかのようで、ただ無心のまま溢れる涙は何物より美しかった。
「鈴音、お前は人間だよ」
彼女の瞳が、じっと私を見つめた。水の膜がゆらゆらと揺れて視界も悪いだろうに、月影のせいばかりではない光を宿し、確かに私を見て儚げに震えている。
「お前の手は、暖かった。温もりのある手を持つ者が、どうして生きていないと言える。恐れ、悩み、疲れ立ち止っただけだ。それが出来る生き物が何故人間以外あり得る? 妖は恐れることをせず、獣は悩むだけの頭がなく、亡者は疲れを知らない」
少しの間のあと、彼女の瞼がゆるゆると降りた。柔らかな夜風が互いの間を通り抜け、彼女の長い黒髪と戯れてゆく。そのせいで彼女がどんな顔をしていたのか、私は終ぞ知ることがなかった。
服の袖で彼女が無造作に涙を拭う。けれど私には未だ、言わねばならないことがある。すっと息を吸い込んで、私の荒れる胸の内を奥深くに封じ込めた。これは釈明ではない。だから感情は、必要なかった。
「お前が幼い頃に、ただ一度だけ出会った時のことを覚えているか?」
彼女は、首を振った。
「わからない。子供の頃のことは、微かにしか記憶がないから」
そうだろう。当時、彼女は未だいとけない子供に過ぎなかった。その後に起きたことの方が余程の衝撃を伴い記憶に焼き付いているのだろう。一拍の間を開けて、重たい唇を開いた。
「その力の原因を、お前も考えたことがあっただろう? 違和感はあった筈だ。幼い頃のお前は、そんな力を持ってなどいなかったのだから。では何故、そんなものが突然目覚めたか。原因は、私にある」
鈴音は少しだけ赤くなった瞳で、私を見つめた。
「お前に加護を授けたのだ。それなのに何故か、凶悪な力の一部をお前に植え付けてしまうことになった。私の願ったことと真逆の事が起きた理由は、私にも分からない。けれど問題は、私が知らなかったことだ。お前に力を与えてしまったことを知らず、そのせいでお前がどれだけ苦しみ血を流したか、知らなかった。私の傲慢さが、どれほどお前を狂わせたか。未だいとけない子供でいられた時間を、私は奪ってしまった」
語り終え俯いてしまった私の耳が彼女の溜息を聞いた。詰られるのだろうか、そう思った刹那、柔らかな声が耳朶を打った。
「それの何が、いけなかったの?」
驚いて、私は顔を上げた。言葉にならない気持ちの奔流が喉元までせり上がり、鈴音のいつになく穏やかな顔を見てそれがふっと掻き消える。
「あなたは、わたしを護ろうとしてくれたんでしょう?」
頷くことが、精一杯だった。鈴音は小さく唇を綻ばせて笑う。成長した彼女の笑みが、幼い頃の笑みと重なって、私の胸を塞いでいく。
「それじゃあ、いいの。もう、いいの」
それは、赦しの言葉だ。私がどこかで夢見た言葉。けれど私は、それを受け入れることをしなかった。
その短い言葉を口にするまで、どれだけの悪意に晒され、何を犠牲にしてきたか。彼女を護りたかったことに、嘘偽りはない。私は確かに、あの笑みを護りたかったのだから。
私は、薄い笑みを唇に模らせた。
「……私はまた、お前の天命を覆そう」
じわりと、私の身体から何かが逃げていく。彼女の細い眉が訝しげに寄った。
「天命?」
「鈴音の加護を消す、それだけだよ」
そう言って、手を伸ばした。触れようとした指先から、体中から、見えない何かが逃げていく。急速に失われてゆく力を自覚しながら、私は不明慮な響きの言葉を紡ぎだした。手を伸ばし、彼女の額に指先を接触させる。言葉を紡ぐごとに割れるように頭が痛み、力が抜けていく。身体中の骨が悲鳴を上げ、鋭利な刃物で刺されるようなひどい苦痛が臓腑を走り抜ける。身体が引き裂かれるような痛みの原因は、わかっている。取り除こうとしている加護の力が大き過ぎるのだ。天命を定めてしまうくらいの大きな影響力を持った力というものは、本来絶対に取り除いてはならない暗黙の決まりがある。天命を覆すのは並大抵のことではなく、仮に出来たとしても相応の犠牲を払うからだ。
私はきっと、生きてはいられない。
「すまなかった」
絞り出した言葉があまりに陳腐で、少しだけ可笑しかった。彼女が驚いたように瞳を見開き、唇を開く。けれどそれを最後まで聞くことの出来る時間は、私に残されていなかった。
「今度こそ、幸せにおなり」
それだけを言い残し、私は彼女の前から姿を消した。