にばん
「もうすぐ、お桜さまが咲く」
俯く男の周りで、戯れるように鮮やかな花弁が舞う。視界が桜で覆い尽くされたどこかぼやけた世界に、ぽつりと佇む男。それは、浮世離れした雰囲気を纏っていた。
「眷属等じゃなく、おまえが見たがっていたお桜さまだ」
男の声に、返る声はない。
「ようやく、連れて行こうと思ったのだぞ」
男は、深く項垂れた。
「当のおまえがいないなど、お笑いだ。私は、おまえに残された時を計り違えてしまった」
男が、笑い声を上げた。空々しい笑い声が桜と男しか存在しない世界の空気を揺らし、やがてそれもふつりと途切れる。何かを求めるように上向いた男の顔は、それきり動かない。口が僅かに、音を紡いだ。
「 」
「おじいちゃんの、おしりあい?」
幼い声が、世界を震わした。
それは男すらも予期せぬ、出逢いだった。
「すみません」
「ああ、お久しぶりですこと。いらっしゃいませ」
お山の麓に、数百年前から続く老舗の茶屋がある。
代々続くその茶屋は、お山の山腹近くにある神社へ続く道の途中にあり、昔から参拝客でにぎわっていた。
暖簾の間から顔を出し、忙しそうに働く女将さんに挨拶をしてから僕はいつもの席に腰をかける。たった一つ、店の外に置かれている古いイグサの長椅子は僕の特等席だ。
「いつものようにお願いします」
「へえ。お任せですね」
注文を聞く為に店から出てきた女将が、目尻のシワを緩ませて笑いながらイグサの上にお冷を置く。ありがとう、と笑うと、もう一度気安い笑みを浮かべて忙しそうに店の中へと消えた。
喉の渇きを潤そうとお冷を持つと、薄らと汗をかいている。僅かに濡れた手を見下ろすと、店から出てきた恪幅のよい男が額を流れる汗を拭いながら暑いな、と呟いた。
「あつい……」
視線を空に向けると、蒼穹の空に皓然とした日輪の光が熱く目を焼いて、思わず目を細めた。そのまま直視することは出来ず、視線を彷徨わせると白い浮雲がのろのろと空を彷徨っている。その無垢な白さが名残の雪を彷彿とさせ、あの日出逢った少女の顔を思い出させた。
あの日、彼女は雪に濡れなかっただろうか。あの細い肩を寒さに震わせはしなかっただろうか。
溜息を吐きだし、呷るように水を飲んだ。器の中で揺れる水面が僕の顔を醜く歪ませた。
「お待たせしました」
振り返ると、えくぼを作った女将が盆を持って立っていた。どうぞ、と湯気の上る湯呑みと、菓子を乗せた皿が置かれ、首を傾げる。初々しい桜色に染まる小さな菓子は、初めて見るものだ。
「桜の練りきり、ですか?」
「ええ。お山の方ではお桜さまが見事に花を咲かせてますでしょう。その花を似せて作ってみたんです」
皿の中で、確かにお桜さまが咲いている。一片一片見事に再現されたその繊細さに、切り分けることを躊躇しながらも楊枝を入れた。
「いただきます」
一片の花びらを口に運ぶ。あっさりとした口どけと、甘さの抑えられたしっとりとした餡が僕の顔を緩ます。
「とても、美味しいです」
心からの言葉を伝えると、女将がほっとしたように肩の力を抜いて笑った。
「お出しするのはこれが初めてだったんですが、安心しました。ごゆっくりしていって下さいな」
丁寧に頭を下げる女将に頷いて、湯呑みを傾けた。熱いお茶が喉を通り過ぎていく。やはり、菓子には冷えた水よりも熱いお茶の方が合う。
僕がほう、と一息ついた時だった。
カラン、コロン
高らかに響いた下駄の奏でる音に、何気なく顔を向けた。下駄の奏でる音など、自分のもの以外とんと聞いていなかったから珍しいと思ったのだ。
「……あなたは」
ふわりと吹いた一陣の風が、彼の匂いを此処まで届けてくる。忘れもしない、強い土と葉の匂いにほんの僅かに混じった、腐った匂い。
悪趣味なその香りが鼻につく毎にえずきそうになりながら、矜持の為に素知らぬ顔で僕は立ち上がる。彼は案外、礼儀に煩い。
そしてようやく彼は、わざとらしく下駄を鳴らして僕から数歩離れたところで立ち止った。手に持った黄金に輝く錫杖を得意げにしゃらり、と鳴らして大仰な動きで白装束に包まれた両腕を広げる。
「やあやあ、これはこれは」
にやにや、といやらしく唇を吊り上げて彼が嗤う。
本当は、彼の顔など頭に乗せた笠の薄絹で隠れていてわからない。けれど僕は、いつでも彼はそんな風に笑いながら、いつでも世間を薄絹から透かして見ていて、いつでも高笑いしている、性質の悪い呑んだくれに思えてならない。
僕は片眉を跳ねあげて、彼をねめつけた。相変わらず、おかしな恰好をした、おかしな男である。
「お久しぶりでございます」
わかりやすい嫌悪の情にも、彼は気を悪くするでもなくカカ、と笑い声を上げて己の手を打ち鳴らした。
「ほほほ、その厭味たらしい所もそちはちぃとも変わらぬ。うぬなどすっかり薄汚れてしまって、折角の一張羅もほれ、今じゃただの襤褸よ」
確かに、彼の身に纏っているものはお世辞にも綺麗とは言えない。穴が空いていて、擦り切れている袈裟に、煤けて汚れている白装束。得体の知れない雰囲気が漂っていて、これではどこから見ても妖怪だ。
「うぬの法衣が台無しじゃあな」
何も言わずに佇むばかりの僕に、彼はしゃらしゃら錫杖を鳴らして老獪に笑う。身に纏っているのは確かに襤褸のようなものばかりだが、その錫杖だけは陽の光を跳ね返して曇りなく輝いていた。質が、異なるのだ。
「貴殿ともあろうお方が、かように辺鄙な地までお越しとはいかがされましたか」
瞳を伏せて、僕は頑なな態度を貫く。僕はどうしても、この老爺のような得体の知れない男が苦手でならない。
ふむ、と頷くと彼は笑いを引っ込めた。
「いやいや、なに。久しぶりに悪童の顔でも拝みに来ようと思ったまで。ちぃと小耳に挟んだ噂の真偽を確かめついでに、な」
「噂?」
なんじゃあ、知らんのか? と彼は呆れたように盛大に吐息を吐きだした。小馬鹿にした態度に僕が無言で眉を顰めると、彼はつまらなそうに軽く肩をすくめる。
「桜の神樹あるお山に、朱色の神域がある。そこな娘が、妙な力を有す、と」
神域の、娘。僕の頭に、一人の少女の白い顔が浮かんだ。
「なんでも、万物の心を読む、とな」
あの子のことだ。かろうじて、僕は口内で舌打ちを噛み殺すことに成功した。
逸る鼓動と共に思考に浸っていると、カラン、と下駄の音が嫌に高く響いた。
はっと顔を上げた時には、もう遅い。えずきそうになるほどの悪臭がむっと濃くなり、僕の胸を、肺を、脳を乱暴に犯していく。
「なあ、」
彼の声にもう、老いた響きはない。ぎらぎらとした鷹のように鋭い目が、薄絹から透けて見えるようであった。
「オメェ、決まりを犯してねえだろうなあ。オレは散々にオシエタ筈だぜ?」
くくく、と低い嘲笑が耳を擽る。生温い吐息が耳朶を舐め上げていき、ぞわりと全身の毛が逆立った。
「破ったら、喰っちまうぞ」
凍えるように冷たい、温もりを持たない手が僕の頬を撫でていく。輪郭を辿るように触れられ、名残惜しげに首を掠めて離れてゆく手を、僕は瞬きすら出来ずに見送った。触れられた箇所から腐り落ちてしまいそうな強烈な嫌悪と怖気がぶわりと湧き上がり、胸がつかえたように震えた。堪えられずに嘔吐しそうになるのを、歯の根を強く噛みあわせて唾液を嚥下することで呑みこむ。
「そう怯えるな、悪童」
言いながら、彼はいつの間に盗ったのか、皿の上にあったはずの菓子をばくりと一呑みして、すっかり温くなっただろう茶を豪快に飲み干す。
「ほほほ、美味美味」
からからと、彼は嗤う。
それがあまりにもおぞましく凶悪な笑いで、僕は睨みつけずにいられなかった。
「わざわざ、ご忠告痛みいります」
わざわざを強調しても、彼は僕で遊ぶのを止めるつもりはないようだった。おお、おお、怖いなどと言うだけでくるりくるりと身軽に飛び回り柏手を打つ。
「ですが、それも徒労で終わります。ご老人共は大人しくご隠居しておられればよろしい。忠告、ましてや口出しされるまでもない」
「言うのう」
薄い笑みを唇に模らせて、濃い臭気の中で虚勢を張る。そんなものが彼には通用しない事など、己が一番よく知っている。
睨みあいのような、奇妙な緊張感を撒き散らした僅かな沈黙のあと、しゃらりと錫杖を鳴らして彼は僕に背を向けた。
「うぬは還るとする。爺共にも、全くの無駄足だったと伝えておこうぞ」
カラン、コロン
勝手なことばかりを言い捨てて、彼は来た道をあっさりと遠ざかってゆく。しゃんしゃんと鳴る錫杖の音と、高く響く下駄の音が最後まで不愉快だった。
「ああ、臭い」
彼の姿が消えて、異臭が大気に霧散しても胸に淀んだものは消えてくれない。沈みそうになる気を振り払うように頭を振って、僕は足音を立てぬよう極力ゆっくりとお山に向けて歩き出した。
「女将さーん、外に空の皿と湯呑みがあるんだけど……」
帳簿をつけていた女将が、今さっき暖簾を潜って外に消えたはずの客に振りむく。客は不思議そうな顔つきで首を傾げた。客の手には何故か、大きな鳥の羽根が握られていた。
「変だなあ? 外にゃあ椅子なんてないのによう」
女将は長年の客商売で培った笑顔を浮かべた。
「じゃああんた、和服を着た男の人は見なかったのかい?」
客は訝しんで、眉を寄せた。
「この山を登るのに和服だあ? どんな奇特な趣味だい、そりゃあ」
「いいから、答えなよ」
女将に促され、男は渋面を作って答えた。
「見なかったよ、ただの一度も。そんな恰好をした奴なんか見たら、忘れるはずがない」
「そうかい」
女将はおかしそうに笑う。客はさっきからの訳のわからないやりとりに眉を寄せた。
「それより、食い逃げとかじゃねえよな?」
「食い逃げ? やだよ、そんな訳ないじゃないか」
女将は目を丸くして、くすくすと笑いだす。客は納得のいかなそうな顔で、頭の後ろを一つ掻いた。
「なんだか、狐にでも化かされた気分だよ」
「あら、あながち間違いでもないねえ」
「それにこのでっかい羽根。こりゃあ鷹の羽根だが、この辺りにゃあいないはずだぜ」
女将の止まらない笑い声に、最後の客だった男は本当に狐にでもつままれたような顔をして店を出て行こうとした。けれどそれを、女将が止める。
「ちょいと。心配なら、奥の神棚で拝んで行くかい?」
男は少しの間考える素振りを見せたあと、結局首を縦に振った。
「有り難く、そうさせてもらおうかね。しっかし、いつ見ても不気味だねえ、山神さまは」
「およしよ、罰当たりな」
血相を変えて睨んでくる女将にはいはいと頷きながら、男は神棚に祀られた、猿の形をした奇妙な像に手を合わせた。