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さいしょ



 彼女は、綺麗な人でした。


 これまでに出会ったたくさんの人の中でも、特別綺麗な人でした。


 彼女の頭のてっぺんから足の爪先までも、すべてひっくるめてとても綺麗な人でした。


 疑いようもないくらいに。


 彼女を、愛していました。





 春というのは、いつも嬉しくて暖かくて優しい季節。


 お山の桜の花も、ほんのり色づく桃、紫混じりの紅、清廉な白、とにかくたくさんの色に染まって、花を見事に咲かせていた。


 カラコロ、カラコロ、


青い鼻緒の付いた下駄が石畳にぶつかって立てる音を楽しみながら、僕は石畳沿いにずらりと並ぶ桜の木を見上げた。夜の帳は深かったけれど、空の星や月の明かりは十分で昼間とは違う桜の艶やかな顔を見せてくれる。


 藍色の着物の袖口に両手を入れて、誰もいないことをいいことに笑みをこぼす。優雅に舞う花びらが、僕の脇を通り過ぎていった。


「お桜さま、今年も見事に咲かせましたね」


 返事をするように、一際桜吹雪が強くなる。


 まるで私をもっと見て、とせがまれているようで僕の口元から笑みが消えることはない。


「まるで恋する乙女みたいだ。お願いだから、そんなに急いで散らせてしまわないでください」


 軽口をたたいた途端に桜花の舞いが静かになってしまったものだから、堪えられずに吹きだしてしまったのは仕方ないことだっただろう。


 勢いをなくして小雨のようになった花びらの中をくぐりながら、カラコロと足音高く歩く。気を抜くと丸まってしまう背筋をしゃんと伸ばして歩くのは、年の離れた友人に叱られたときから続けていることの一つだ。


「さくらさくら やよいの空は 見わたす限り かすみか雲か 匂いぞ出ずる いざやいざや 見にゆかん」


 唄を口ずさみながら上機嫌に歩いていると、ふいに強い風が吹いた。地面に敷き詰められたたくさんの花びらが舞いあがる程の勢いに、思わず足を止め、顔を腕で守りながら瞼を閉じてしまう。お山の気候は変わりやすいから、少しの間を置いて、それでも腕は下ろさずにそろりと瞼を開けた。


「わ、あ……」


 艶やかな色彩を月明かりに妖しく放つ桜の花びらが、世界を覆っていた。風の勢いで舞い上がった花びらを加えて地に降り注ぐ姿は、天神さえも見惚れるだろう。さすがはお山のお桜さまだと、呆けたように口を開けたまま思った。


 しばらくして鮮やかな村雨が降り終わり、僕が満悦に緩んだ笑みを浮かべながら余韻に浸るように辺りの桜を見渡したときだった。


 女の紅のように色づく花を咲かした桜の根本を見て、思わず目を見開いた。太い幹に寄りかかるようにして無防備に眠る少女の姿に、つい先ほどまであんなに僕の心を騒がした桜の存在さえ忘れて、ただ呆けるように見惚れていた。


 極彩色を纏っているのでも、傾国の美姫ほど美しいのでもない。


 ただ、彼女の持つ宵よりも深く、夜の神に祝福されたかのような混じり気のない見事な色が、僕の心を何よりも揺さぶったのだ。


 閉じられた瞼の下も、こんな色なのだろうか?


 恋に落ちてしまったかのように、僕の足は自然と彼女へと動き出していた。歩を進めるたびにもともと離れてはいなかった距離がぐっと縮まり、彼女の整った顔の細部や、服のしわさえはっきりと見える。少しだけ腰を屈めて、はしゃぐ心のままに手を伸ばしかけたところで、ようやく我に返った。


「あ……」


 慌てて手を引っ込めて急いで立ち去ろうとしたのだけれど、それには少しだけ遅く。


 長い睫毛で覆われたぬばたまの瞳が、僕の視線と交わった。


「……だれ?」


 降り続ける花弁によく似た色をした小さな唇が動いて、僕に問いかける。音は耳に入っていたけれど、僕はすっかりぬばたまの瞳に魅入られてしまっていた。けれど円く濡れた瞳は、まったく表情(いろ)を映さない。


 胸にじわりと滲んでいた懐古の情に、ほんのり苦みが混じって眉が下がりそうになるのを、笑みをはくことで堪えた。


「山上悟、と申します。失礼致しました。女性の顔を覗きこむなど、いきなりの無礼お許しください」


 吸い込まれそうになる視線を反らしながら、矢継ぎ早に謝り頭を下げた。僕の視界から、濃艶な闇が消える。


 彼女は僅かな間を開けて、


「別に、いい。気にしてないから」


 木の根元から立ち上がりながら吐き出された言葉に、僕はほっと顔を上げた。彼女が気にしてないというのなら、頭を下げ続けても仕方ないと言い訳のように思いながら、それでも胸に残る居心地の悪さに痒くもない頭をかいた。ワンピースの土汚れを払う彼女との間にそれきり言葉はなく、紅に彩色された花びらが地面に横たわるように積もる沈黙に、僕が堪えられなくなる前に彼女の方が唐突に声を上げた。


「……え?」


 驚いたような声に、途方に暮れて彷徨わせていた視線が彼女に戻る。


「どうかしましたか?」


 僕の言葉に返るものはなく、返事の代わりのように彼女は柳眉を顰めた難しい顔をして僕のことを睨んでいた。


「……聞こえない」

「?」


 ぽつりと吐き出された言葉の不可解さに首を傾げたが、彼女は難しい顔のままぐるりと視線を巡らせるだけで何も答えなかった。少しして、彼女はなにかに集中するように瞳を閉じた。眉がきつく寄せられて、眉間にしわが刻まれるほど集中しているようなのに、彼女は少しの間の後に緩く首を振った。


「ダメ、聞こえない。どうして?」


 開けられた烏羽色の瞳に、困惑の色が浮かんでいる。眉を寄せたままその視線は桜の木々をかすめ、地面を這ったが彼女の求めるものはそこにはないようだった。溜息のあと、ようやく彼女は顔を上げた。おいてけぼりだった僕は急に彼女に見据えられて、少しだけ体を震わせてしまう。


「あなた……」

「山上悟です」

「悟くん」


 はい、と返事をすると彼女は難しい顔を崩すことなく、考え込みながら言った。


「わたしは妖怪なの」

「……」


 唐突に言い放たれた言葉に、声もなく固まった。冗談なのか真剣なのか、判断しにくい難しい顔をしたまま彼女は先ほどまでの口数の少なさがうそのように言葉を紡いでいく。


「わたし実は男なの。こうみえても還暦を迎えているの。ひ孫のその次までいるの。太平洋を泳いで渡ったことがあるの。実はこの山の神様なの」

「……」


 明らかなほら話に、困惑しか浮かばない。彼女は一体なにが言いたいのだろうかと考えたが、意味のない言葉にしか思えなかった。困惑が深くなり、一、二歩後ろに下がったところでようやく彼女の言葉は途切れた。


「やっぱり、あなたみたい」


 反応に窮している内に、彼女の中でなにか片が付いたらしく再び色のなくした瞳に見据えられる。


「なにが、ですか?」


 彼女は、わらった。


 ふわりと一陣の風が彼女の黒髪とワンピースの裾を揺らしていく。月明かりを受けて、闇が光った。


「サトリという、妖を知っている?」


 彼女の色づいた唇が、言の葉を乗せて滑り出した。





 サトリ。


 山奥に住むと言われ、人の心を見透かすといわれる妖。


 人の姿をとるとも、猿が二足歩行をしたような姿とも言われている。


 人のもとに現れては隙を見て食おうとするとも言われるが、反対に人に危害を加えないという説もある。


 姿形など、他にも諸説ありはっきりと形のある妖しのモノではないが、人の考えを読むことが出来るというのは様々な説の中でも共通している。


 滔々と語った彼女の、絹糸のような髪を緩やかな風が花びらと共に揺らす。彼女の抑揚のない言葉を聞きながら、一枚の絵画のような見事さに瞳を細めて感心していた。


「わたしは、そのサトリなの」


 紅い唇が笑みを刻むのを見つめながら、僕は満月には不思議な力が宿るという話を思い出していた。もしかしてその類だろうかと顔を星空に向けても、月輪にはとても見えない。視線を彼女に戻すと、驚いた。


「ねえ、気狂いだと思う?」


 嗤っている。


 ぬばたまの瞳も、桜の花弁と同じ色をした唇も今夜の月のように弓なりになりながら。


「思いませんよ」


 僕には彼女が人間以外の何者にも見えないけれど、僕の目にはそうとしか映らないだけで、他の人から見れば違うのかもしれない。僕から見えるものと、他の人が見るものが一緒だとは思わない。


「そう」


 嘲るような笑みが消えた。また無表情に戻ったのかと思えば、その瞳にはおよそ妖怪(・・)らしくない感情が見えた気がした。瞬きの後には何も残っていなかったけれど。


「どうして、わたしがこんな話をしたと思う?」

「さあ。僕にはとんと見当がつきかねます」


 うそつき、と紅い唇が楽しそうに形作ったように見えたが、僕は頬にかかる髪を耳にかけ直すだけで返事は返さなかった。前言撤回だ、確かに彼女は妖怪らしい。


「あなたに気付いた途端、コエが聞こえなくなった」


 こんなに静かなのは幼い日以来、と彼女は語る。白い(かんばせ)は、眉一つ動くことはなかった。


「あなた、何者なの」


 くすり、


 吐息のような笑いが漏れた。いつの間にか口の端がつり上がっていたようだ。


「僕は、山上悟です」


 それ以外の何者でもありません。そう笑っても、やはり彼女の表情が動くことはなかった。


 ふいに、風が吹いて僕の髪を揺らした。夜空を見上げると、そこに星空は広がっていなかった。いつの間にか分厚い雲のベールにすっかり隠されてしまっている。


「いけません。もうすぐ、雪が降りますよ」

「雪?」


 彼女は、怪訝そうな声を上げる。


「ええ。お山の気候は変わりやすいですからね。貴女も、お早くおかえりなさった方がいいですよ」

「……そうね」


 僕につられるように一度だけ空を見上げた彼女は、案外素直に頷くと見送るように立ち止ったままの僕の脇をすり抜けていった。思わず視線で追い掛けると、白いワンピースの裾を翻して彼女が振り向く。


「言い忘れてた。わたしは上里鈴音、ここの社の娘」


 相変わらず何も浮かばない顔でそれだけを言い残すと、じゃあねと簡素な別れの言葉を告げ鈴音と名乗った彼女は石畳の上を山頂に向かって遠ざかって行った。


「あの子は……」


 小さな背中が、石畳の向こうに消えていくのをじっと見つめる。ゆらゆらと淡い色の波のなか、花びらのなかに白いものがちらついてみえて、僕はゆっくりと空を見上げた。


「……ああ、降り始めましたか」


 続くはずだった言葉は、僕の手の平に降り立った雪と一緒に溶けて消えた。



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