8 マスタードラゴン
ついこの間までトリーの入っていた小さな籠。これはいま、おもちゃ入れになっている。トリー一番のお気に入りは、紐の先に小さな鈴のついた布製のネズミだった。
「ネズミ? これが?」
「ネズミなの!」
三角形の布のふちを縫って綿を入れて絞って紐をつけただけだけど、ネズミに見えなくもないじゃないか。とにかくトリーはこれが好きで、ひとり遊びには最適なんだ。
寝室からおもちゃを取って戻ってくると、とたんにトリーが目の色を変えて足にまとわりついてきた。視線はネズミのおもちゃに当てたまま、長い尻尾をピンと立て、くーるるるると嬉しそうに喉を鳴らして待っている。
「トリー、いくよ? ほらっ」
ネズミを見せて軽く振り、ぽいっと遠くに投げてやる。
ぎゃるっ!
ちゃかちゃか床を引っ掻きながら、トリーは一目散におもちゃめがけて駆けてゆく。壁にぶつかり跳ね返ったネズミと一緒にトリーも跳ねて、とったとったと音がした。ちりんと落ちたネズミを一度くわえて持ち上げ離すと、ネズミは落ちてまたちりんと鈴が鳴る。音がするのが楽しいのかトリーは何度もそれを繰り返し、満足するとくわえて僕の手元に持ってきた。
僕はネズミを受け取ると、もう一度、今度は別の方向に投げてやる。
きゃるっと叫んでトリーはまた走り出した。
「ほんっとーに犬みたいだな」
「だよねぇ」
笑いながらもう一度、今度はアキがネズミを投げた。トリーは後足で立ちながら首を巡らし軌跡を追って、そして猛然と駆けてゆく。
ちりりん
壁に跳ね返ったネズミがトリーの前足に当たったようだ。くるくる回りながら扉の隙間を通ると食料庫に入ってしまった。トリーはそれを追いかけて、扉を鼻でぐいと押す。そうしてできたわずかな隙間をするりと抜けて、トリーの姿も奥に消えた。
扉の向こうからは、とすんぱたんとなにやら奮闘する音が聞こえてくる。
「あー、行っちまった。わり」
「いいよ。あっちにあるのは芋とか玉葱とか、トリーが食べられるものは置いてないから。扉にも隙間があるし、飽きたらまた戻ってくるよ」
「でもさ、あの羽……折れたりしないかな」
「大丈夫。僕も最初びっくりしたけどね、意外に丈夫みたいだよ?」
あの透明な虹色の羽をトリーは特別扱いしなかった。これまであった翼と同じように首をひねると両手で持って、普通にちゅくちゅく羽繕いをしているのだ。ときに折れそうなほどしならせるので見ているほうがヒヤヒヤする。付け根の部分も触られるのを嫌がっていたのに、いまではトリーの方から強く押し付けてくる。そのうえ軽く掻いてやると、きゅーうと気持ち良さそうな声を出すものだから、僕も遠慮しなくなっていた。
ならいいか。
アキはそう呟くと、居間の椅子に座り直した。
「……続き」
「…………」
ひたと見据える真剣な眼差しにはとてもじゃないけど逆らえない。
顎をしゃくられ僕もしぶしぶ腰を下ろす。
僕が落ち着くのを確認すると唇を湿らせるように茶を含み、アキは顎の下で手を組んだ。
「俺さ、こないだ街に行ってきたんだ」
「うん……知ってる」
「でもって、ドラゴンのこと色々聞いてきた」
「そう、なんだ……」
「で、考えた」
アキは僕と違って学があるからどんなことでも知ってるし、訊けば正しい答えを教えてくれる。もしアキがいなかったら、僕ひとりでトリーをここまで育てることはできなかった。僕は本当に、心から感謝してるんだ。でもいまは、これ以上アキと話したくなかった。
──怖いんだ。
アキに、トリーと別れろって言われることが。
トリーはどう見ても鷹ではない。
ひょっとしたらドラゴンかもしれない。
いや、十中八九そうだろう。
ドラゴンは凶暴な生き物だ。そして人には懐かないといわれてる。
でもトリーは違う。とても僕に懐いているし、優しい気遣いだってみせてくれる。
「凶暴」なことなんてぜんぜんないのに。
なのに、それでもダメなのだろうか。
僕はただ、トリーと一緒に暮らしたいだけなのに。
耳を塞ぐわけにもゆかず、顔を伏せた僕にアキは結論から口にした。
「トリーは、マスタードラゴンかもしれない」
「…………」
いやだ。これ以上聞きたくない。
黙りこくった僕に言葉を変えてもう一度、アキはゆっくりと繰り返した。
「つまり、ドラゴンの王様だ。前にも話したろ?」
「……うん、だけど」
「まあ聞けよ」
俺も初めて知ったけど、と前置きして、アキは調査の成果を披露した。
ドラゴンの卵というのは大きくて、小さなものでも人の頭ぐらいはあるらしい。だからトリーは普通のドラゴンではないだろう。そしてやはり人に懐くうえに空を飛べるドラゴンは、マスタードラゴンしかいないという。しかもマスタードラゴンの生態というのは謎だらけで、子供を見た人間はいないらしい。だからトリーがマスタードラゴンの子供だとすれば、すべてのことに説明がつく。
「マスタードラゴンってのはさ、世界で一番強いんだ。おまけに寿命は何百年もあるんだから、まさに動物の王様だ」
「…………」
「そのうえ身体もでかくなる。向こうにしたら、人間ってのはすいぶんひ弱に見えるんだろうな」
だから山でオオカミに襲われたとき助けてくれたとか、怪我して動けなくなったところを村まで送り届けてくれたとか、そんな昔話がたくさんある。
でもそれは「人に懐く」というより単なるドラゴンの気まぐれだ。マスタードラゴンを捕まえようとして失敗した愚かな騎士や、牙を獲ろうとして返り討ちにあったという話もたくさんあるのだ。そのうえマスタードラゴンは、人より遥かに賢いといわれている。
「……もしトリーが、そのマスタードラゴンだったとしたら」
じっと僕を見つめていたアキが、視線を手元に移すと拳をぐっと握りしめた。唇を何度も舐めて、眉の間に皺を寄せる。言い難いことを話すときの、アキの癖だ。
「餌が、足りなくなる。……いまはまだ、トリーの身体は小さいから」
だから雉や兎で済んでいる。けれどいつか、家より大きくなってしまうだろう。そうなったらいったいなにを食べさるせのか。毎日牛を1頭ずつ与えるなんて、そんなことができるだろうか。でなければこの辺りの動物を食べ尽くし、そして近くの村を襲うのか。懐くといっても腹が減ったらまた別だ。人を襲い、人食いドラゴンとして殺されるのがトリーの幸せなのだろうか。
今ならまだ間に合う。
「人間は怖い生き物だ」そう教えてやらなければ。「そばに寄れば酷い目にあう」そう学習すれば、トリーだって人間には近づかない。そしてドラゴンは賢いから、ちゃんと仲間を探せるはずだ。
ドラゴンの世界に戻してやる。それがトリーにとって一番の幸せじゃないだろうか。
「…………」
言葉がなかった。
きっと、アキの言うことは正しいのだろう。
けれど僕は頷けなかった。
無理なんだ。
たとえトリーが良くても僕のほうが耐えられない。
僕の髪をまさぐる小さな手。肩に乗るあの重み。さわれば少しひんやりして、でも滑らかな青いウロコ。翼の内側の、ふんわりとした柔かさ。僕の腕に巻き付く尻尾。くるくる楽しそうな鳴き声も、大きな寝言も僕の身体に染み付いて、僕の一部と言っていい。
トリーの代わりなんて世界のどこにもいやしないのに。
いまさらトリーを手放すなんて、もう無理だ。