7 虹色の6枚羽
樹々の葉が色づくと、北から冷たい風が吹く。
ぴゅうぴゅう哀しい音色を奏でる風は、あっという間に景色を冬に染め変える。山はすっかり色を無くし、空がぐんと広くなった。
どこまでも深くて青い、澄んだ空。
トリーのウロコと同じ色。
まるでこの青い空から産まれたように、トリーは空と一体になっていた。
「トリー、帰るよ」
るるるーるるー、トリトリー!
両手を広げて仰向けば、羽音と共にトリーが胸に飛び込んでくる。
ふぅんっ……ぽすん
軽い衝撃とともに小さな手足が僕の服にしがみついた。着地が成功するとベルトの部分に後足を乗せ、胸の部分を前足で握りながらトリーは首を伸ばして僕を見る。
顎に当たる、ふっふっという荒い息。トリーは鼻から白い息を吐きながら、自慢げに「どお?」と首を傾げてみせた。
つい2、3日前まで、着地のときは踏ん張ってないと尻餅をつくような激しさで突っ込んできたものだ。そうでなければ僕に届く前に失速して、トリーが尻餅をついていた。だけど今回の着地は上出来だ。
「凄いね、トリー。ずいぶん巧くなったじゃないか」
短期間でトリーの着地はずいぶんと上達した。もう腰を蹴られたり、腹を殴られるような衝撃を味わうことがないと思うと知らず知らずに嬉しくなって笑みが浮かんでとまらない。ここのところずっと気分が晴れなかったから、喜びもまたひとしおだ。
心のままに両手で耳の後ろを掻いて褒めてやると、くるくるきゅうきゅうトリーは嬉しそうに喉を鳴らして僕の肩を登っていった。それから鼻先を頭の中に突っ込むと両足で僕の頭を挟み込んで翼でバランスをとりながら、小さな両手で僕の髪をかき分けてゆく。
毛繕いに夢中になったトリーに構わずに、僕は腰を屈めて獲物の兎を手に取った。肩は少し重いけど、こうやって普通に動いてもトリーは落ちたりしない。教えたりしなくとも、ちゃんと僕に合わせてくれるんだ。
「……よっと」
ばあちゃんの言った通り、今年は春告鳥がさかんに鳴いたから、山には獣がたくさんいた。秋には鮭や鱒が山ほど獲れたし、いまはこうして雉のほかにも兎が捕れる。この冬、トリーが食べるに困ることはなさそうだ。
冬の間のトリーの食事が一番の心配ごとだったから、少しだけ気が楽になった。
大丈夫、きっと大丈夫。
僕は何度も自分に言い聞かせる。
きゃるっ! トリリリりるりるトリタタタっ!
「トリー?」
嬉しそうにひとこえ鳴いて、とん、と肩からトリーが飛び降りた。翼を広げて地面すれすれを滑空しながら一度大地を強く蹴る。すると身体がふわりと浮いて、トリーは独特の音を立てながらゆっくり宙を進んでいった。
なんで急に。
けれどトリーが目指す先を見て、僕はぎくりと足を止めた。
──ああ、ついに。
ずっと胸の奥で凝っていたものが暴かれた。そんな気がして僕は逃げ出したくなった。
家の前には会いたいけれど一番会いたくない人物──アキがいたのだ。
◇ ◇
「……なか、入って。いますぐ火、強くするから……」
「……うん。あのさ、これ。獲ってきた」
「ありがと……」
立派なハヤが、5匹も手桶の中で泳いでいた。
台所で一番大きな桶に移してやると、ハヤはすいすい気持ちよさそうに泳ぎだす。腰を屈めてその様子をのぞいていると、トリーが隣にやってきた。背伸びをすると桶のふちに前足をかけてのぞき込み、頭を動かしながら泳ぐ魚を一生懸命追っている。
「トリー、まだだよ。ご飯の時間になったらね」
きゃるるる、ゴハン! ゴハンハンハンるるりるりるりー
桶の周りをぐるぐる周って名残惜しそうにしながらも、トリーは僕の後を追ってきた。
ちゃっちゃっちゃっ
板張りの床だから、見ていなくてもすぐわかる。
これはトリーの爪がたてる小さな足音。そして。
──うゎんっ
ふわりと飛んで、背中で止まった小さな重み。
この不思議な音はトリーの羽音。
深い青の翼の下で、きらめく虹色の6枚羽。
透明なこの羽のおかげでトリーは空を飛べるようになっていた。
「犬……みたいだな」
「うん。トリーはさ、すっごい賢いんだ」
背中にトリーを張り付かせ、薬缶を持って居間に行くとアキが困ったような笑顔をみせた。名前を呼ばれてトリーがアキの元に駆けていく。抱き上げられて、トリーはアキの顔を舐め回した。ここのところ会えなくて寂しかった、来てくれて嬉しいと熱烈に歓迎しているようだ。
「おい、トリー。そんなに……っぷ」
「油断するとさ、口の中まで舐めてくるよ?」
「そういうことはもっと早く、うひゃ!」
耳の中を舐められて、たまらずアキはトリーを両手で引き離した。
「わり。口、すすいでくる」
「顔も洗ったほうがいいんじゃない?」
「……そうする」
ぎゃー、ぎゃー、るるるーぅ
ぽいと放り投げられトリーが抗議の声をあげた。
トリーはアキにも懐いている。時おり魚をくれるから、トリーはきっとアキのことを「魚のおじちゃん」だと思っているに違いない。でもアキは、釣りが苦手なばかりにトリーに魚を食べさせてやれないと僕が気にしていることを知っているから、この寒い中、わざわざ釣ってきてくれるんだ。
アキは、本当にいいヤツだ。
なのに僕は、トリーが飛べるようになったことを言えずにいた。
トリーのこの姿を見て、アキはどう思うだろう。
僕はそれが怖かった。
部屋がほどよく暖まり、茶で一息ついたところでアキは静かに切り出した。
「なあ……いつからだ?」
「ほんの少し……10日ぐらい、前」
アキの目つきが険しくなった。
どうしてなにも言わなかったと、無言で責める視線が痛い。
「だからおまえ、最近山にばっか行ってたんだな?」
アキの奴、どうしてそんなことまで知ってるんだ。
僕はそっと唇を噛んだ。
せっかく飛べるようになったのに、狭い家の中だけでしか自由にならないなんて可哀想だ。だから籠に入れて人気のない山の中まで連れて行った。そこでトリーを放してやると、それはもう嬉しそうで。
空を自由に駆けるトリーはとても気持ちが良さそうだった。
トリーが喜ぶと、つられて僕も楽しくなる。二人で一緒に歌を歌ってご飯を食べて。それのどこが悪いのか、僕にはさっぱりわからなかった。
なにも言えずに俯くと、トリーがひょいと僕をのぞき込んできた。
膝に乗ってつぶらな瞳で僕を見上げ、身体を伸ばしてそっと頬をすり寄せる。
きゅうるる、きゅうぅ
どうしたの? 元気出して。
トリーのその気遣い嬉しかった。そっと抱きしめ翼を撫でると、アキがぽつりと呟いた。
「ミカの考えていることは、わかるつもりだ」
「…………」
「なあ、ミカ。トリーが……やっぱり虫なんじゃないかって、そう思ったんだろ?」
「──なんで!?」
どうしてアキは、僕の心配事がわかってしまうんだろう。
目と口を丸くすると、なぜか疲れた顔をして、アキは大きな大きな溜息をついた。
「わかるさ……だって飛び方が、カブトムシそっくりだもんな」
「それだけじゃなくて。あの羽が生えたときも虫みたいだったんだよ!」
夜中に突然柱を登りだし、斜めに伸びた屋根の骨にしがみつくと背中側を下にして、そのままトリーは動かなくなったんだ。翼はだらんと垂れたまま、名前を呼んでもぴくりとも動かない。眠るように目を閉じて、腹が上下に動いているから息をしていることがわかるけど、そうでなかったらまるで死んでしまったようだった。
そのままはらはらしながら一夜を明かし、そして夜が明けるころ、トリーの背中に変化があった。ごつごつとした白い瘤のようなものが翼の付け根から現れて、みるみるうちに大きくなっていったんだ。いびつな形の6つのそれは、しっとりと濡れていた。そして徐々にしわが伸びるように広がって、白い葉脈のようなものまで見えてきた。やがて全体が半透明になり、しばらくして羽が乾くと透明になったんだ。
朝日を浴びて、きらきらと虹色に輝く3対の羽。
「確かに背中にデキモノみたいなものがあるなって、それは知っていたんだけど」
それに触れられるのをトリーはひどく嫌がった。ニキビのようなものだろうとそっとしておいたのだけれど、まさか羽になるだなんて想像すらしなかった。
「本当に、さなぎが羽化するみたいに羽が伸びて。夏に蝉を食べさせたのが悪かったのかと心配になって……っ!」
「いや。それはないと思うけど」
「どうしてさ」
「トリーは虫じゃないよ。それだけははっきりしてる」
ホントはちゃんとわかってるんだろ?
真顔でそう訊かれれば、僕はそうだとうなずくしかない。
アキがなにを言いたいのか知っているから、僕はぎゅっと目を閉じ息を止める。そんな言葉は聞きたくない。
そのとき。
きゃるりっ! るりるりムシムシトリームシ、ミカカムシムシきゃるきゃるるー
僕の膝で大人しくしていたトリーが突然、大声でしゃべりだした。
うっかりしていた。
トリーは人や動物の言葉を真似るんだ。じっと大人しくしていたのは言葉を覚えるためで、しかもたったいま覚えたのはよりにもよって「虫」という単語だったんだ。
どう? うまいでしょ? ほめて、ほめて。
小鼻をぴくぴく動かしながら、トリーが僕とアキを交互にみつめる。
だけどここで褒めてはいけない。褒めるとトリーは喜んで、また同じ言葉を何度も繰り返してしまうのだ。
僕はあえてしかつめらしい顔をして、アキにそっと囁いた。
「……あのさ」
「うん……」
「トリー、遊ばせてくるから。ちょっと待っててくれる?」
「そうだな。そうしたほうが良さそうだ」
アキも大きくうなずいて、心からの同意を示してくれた。