6 苦手なもの
「うわああぁっ!」
きゃるるっるー!
「と、ととと、トリー! クチバシがっ!」
トリー! トリー! きゃるきゃるる!
「とれ、とれ……とれたっ!」
トリトリトリー、トリタタタっ!
「……トリー?」
るるるぴるー、きゃるるるるー
「……痛く、ないの?」
ぎゅるるるるっ、ぎゅるっ
トリーは嬉しそうに眼を細め、頭を僕にすりつけた。
ねえねえ、もっと遊ぼうよ。
つぶらな瞳が僕を見上げ、きゅるきゅる軽やかに喉を鳴らす。
その姿は元気いっぱい、具合の悪いところなんてどこにもない。
僕の手のひらには剥がれ落ちた黄色いクチバシ。周りには薄い皮がついていて、これがトリーの鼻をくすぐっていたようだ。
病気じゃなかったんだ。
はああっと大きく息を吐き、僕はトリーを抱き寄せた。
柔らかな顎を肩に乗せ、翼の上から撫でてやる。
トリーはくるくる喉を鳴らすと小さな両手で僕の服にしがみついた。
とくとく、とくとく。
そのままじっとしていると、規則正しいトリーの鼓動が響いてくる。
僕のほうは本当に心臓が止まるかと思ったのに。
クチバシがとれるだなんて、人間だったら突然口が落ちるようなものだ。なのにトリーときたら、慌てふためく僕を余所に楽しそうに笑っている。
ほっとしたけど、なんだか損した気分になった。だから僕は頬を膨らませ、トリーを眼の高さに持ち上げた。
「こら。すっごいびっくりしたんだからな?」
僕としては精一杯、父親としての威厳を示したつもりだった。だけどトリーにとってはこれも遊びのようなもの。手と足と、そして翼をばたつかせ、きゃらきゃらとても楽しそうだ。
その様子に僕もおかしくなってきた。
勝手に心配して驚いて。なのにトリーを叱るなんてもってのほかだ。病気でなくて良かったと、それでいいじゃないか。
これは歯が生え変わるようなものなんだ。立派な牙が生え揃ったから、クチバシはもうなくても大丈夫。つまりそういうことだろう。
クチバシがなくなってしばらくすると、トリーの表情は以前にも増して豊かになった。
犬が遠吠えをするように、口をすぼめてぴーと鳴く。あくびをすると、鼻の頭にしわが寄る。そしてたくさんの言葉を喋れるようになっていった。
つーぴーつーぴーきゃーるるる、カワイイトリー、りーるるる
甲高い小鳥の声から少し低めの僕の声まで、トリーは自由自在に使いこなす。意味はたぶんわかっていない。でももっと寒くなって時間ができたら、ちゃんと言葉を教えてみよう。そしたらきっと、楽しい冬になるだろうから。
◇ ◇
死んだ父さんと母さんが残したのは小さな家と小さな畑、そしてほんの少しの鶏だ。
鶏は外の小屋に全部で5羽いて、一番の年寄りがメスのヒナさんだ。次に唯一のオスのコッコちゃん。そして若いメスの1号、2号、3号と続いている。
彼らは2日に1個は卵を産んでくれるので、僕はそれをありがたくいただいていた。
鶏は大切な家畜だから、畑と同じように世話をする。けれどトリーはそれが気に食わないようだった。
ぎゃる、ぎゅるるー、るるーう
鶏小屋掃除用の箒を手に取ると、トリーは低いうなり声をあげて僕の前に伏せをした。
どうして行くの。ここにいて。
長く伸びた青い尻尾が左右に振られ、縋るように黒い瞳が見上げてくる。でもこればかりはトリーの希望を叶えるわけにはいかなかった。
「一緒に来ても良いんだよ?」
そう声をかけて手を伸ばしても動かないどころか、トリーはじわりと後じさる。ぼくは腰を下ろしてトリーに優しく声をかけた。
「やっぱり……コッコちゃんは苦手?」
ぎゃるぎゃる、ぐるぐるるー、ぎゅるーるるー
あたりまえだよ。あんなヤツ、嫌い。
まるでそう言うようにトリーは唸った。その姿に僕はもう、苦笑いするしかない。言葉の意味は理解していないけど、「コッコちゃん」が「嫌なもの」だとトリーはしっかり覚えてるんだ。
あれはそう、まだ暑かったころの出来事だ。トリーは歩けるようになったけれどまだ産毛が残っていて、翼にはぽやぽやの羽が生えていた。
鶏小屋の世話をするのに外に出た僕を、尾で反動をつけスズメのようにちょんちょん飛び跳ねながら、トリーは必死になってついてきた。僕が立ち止まると首を伸ばし、きゅるきゅる可愛らしく抱っこをねだるものだから、トリーをシャツに入れて首だけ外に出してやったんだ。これなら両手を使えるし、トリーも退屈しないだろうからって。
それから鶏たちの様子を見ようと小屋をのぞき込んだそのとき、事件は起きた。
コケッ!
突然、コッコちゃんが鋭いクチバシを突き出したんだ。もし檻がなかったら、間違いなくトリーの顔は傷ついていた。
あまりのことにびっくりして僕の身体は凍りつき、ぴくりとも動けなかった。
トリーのほうも目を丸くして、黄色いクチバシをぽかんと開け、それからかたかた震えだした。
ひゃー…… ひゃー…… ひゃー……
弱々しく鳴きながら、トリーは丸まり小さくなった。檻越しとはいえ突然攻撃されたうえ、コッコちゃんのクチバシが目と鼻の先まで迫ったんだ。どんなに怖かったことだろう。
「酷いよコッコちゃん、トリーは餌じゃないんだよ?」
シャツの中で震えるトリーを抱きしめながら文句を言ったが、コッコちゃんは反省どころかさらにつつこうとするように、羽を膨らませて身構えた。
これはダメだ。僕はそう判断してトリーを家の中に避難させた。
それからたくさんなでて慰めてみたけれど、トリーの心にはこのことが深く刻まれてしまったようだ。以来、なにがあっても鶏小屋に近づこうとはしなかった。
「……じゃあ、ちょっとだけ待ってるんだよ? すぐ終わるからね」
美しい羽に彩られた耳の後ろをくすぐって、僕は鶏小屋に向かって歩き出す。すると少しして、小さな足音が聞こえてきた。足を止めて振り返るとトリーが僕の身体を背中側から駆け登り、肩に手を乗せひょいと顔をのぞかせる。
きゅるるー
「やっぱり来ることにしたの? でも無理しなくていいからね」
優しく喉の下を撫でてやるとトリーは気持ち良さそうに目を細め、それから僕の頬をぺろりと舐めた。
もう平気だもん。
すりりと頬を寄せるとトリーは澄ました顔で前を向く。
でも長くなった尻尾は僕のわきの下にしっかりと入れられて、小刻みに震えていた。強がるトリーが可愛くて、僕はもう一度、喉の下を撫でてやる。
苦手なコッコちゃんを克服して、歩み寄ろうとしてるんだね。
偉いぞ、トリー。
そうだよね、鶏のみんなとも仲良くなれるといいよね。
じゃー! じゃー! じゃー!
コケーッ! ケーッ! ケーッ!
「……やっぱダメか……」
トリーは頭と翼の青い羽をぶわりと立たせ、鋭い牙をむき出しにしてコッコちゃんを威嚇した。コッコちゃんはコッコちゃんでクチバシから繰り出す鋭い突きに加えて飛び蹴りまで炸裂し、鶏小屋がぐらぐらと傾いでいる。
檻越しの対面は失敗だ。
苦手意識を克服しようとするトリーの成長は嬉しいけれど、このままだと鶏小屋が壊れて血を見ることになってしまう。
僕はどちらにも怪我なんかして欲しくない。
だから耳元でじゃーじゃー威嚇しているトリーを連れて、ひとまず鶏小屋が見えない位置まで退散した。
肩の上でふうふう息を荒げるトリーを抱き寄せ背中をそっとさすってやる。逆立った羽もやがて落ち着きを取り戻し、ぺたりと小さくしぼんでいった。
「トリー、少しここで休んでいてね。すぐ来るからね、待ってるんだよ」
きゅうぅぅ
良くひとり遊びをする柵の丸太に乗せてやると、トリーはしゅんと項垂れた。なんだかひどく落ち込んでいるようで、でもその様子がやっぱり可愛くてしかたがない。
「いいんだよ、苦手なものは誰にだってあるんだから」
鼻と鼻をくっつけて、耳の後ろを掻いてやる。
少しのあいだ、気持ち良さそうに目を細め、ぴすぴす鼻を鳴らしていたトリーが僕の鼻をぺろりと舐めた。そして手のひらに何度も頭をすりつける。
ありがとう。
そんな声が聞こえた気がして、僕はなんだか嬉しくなった。
鶏に威嚇されてしょぼくれる、そんなドラゴンがいるだろうか。それにドラゴンは人には馴れなっいていうけれど、こんなに僕に懐いている。トリーはやっぱり違うんだ。
急いで鶏小屋を掃除して、トリーの元へ駆けつける。まだ落ち込んでいるかと心配だったけど、トリーはひとりで遊んでいた。
腰の高さぐらいの丸太の上から翼を広げてぴょんと跳び、そして飛びネズミのように滑空する。滑空というより落ちる距離が長くなっただけだけど、それでもちゃんと落ち葉の溜った場所に着地する。
後足を前に突き出し落ち葉の中にずぼっとはまり、ぷしっとくしゃみをしながら這い出てくる。4本の足でたかたか駆けて丸太を登り、そしてまた落ち葉に向かってジャンプする。
きっと空を跳びたいんだ。
けれどトリーが飛ぶことはないだろう。
すっかり身体は大きくなって、赤ん坊ぐらいの重さになった。そして尻尾も身体と同じぐらいの長さがある。だけど身体に対して小さすぎるトリーの翼。この翼では、飛ぶことなんてできやしない。
だからたとえドラゴンだったとしても、トリーは家より大きくならない。
その事実に、僕は少しだけ安心した。
「このままでいてね、トリー」
こちらに気がつき嬉しそうに駆けてきたトリーを抱きしめて、僕は小さく呟いた。