4 小さな手
じゅわじゅわじゅわじゅわじー
きゃるきゃるきゃるきゃるくー
「トリー、蝉の鳴きまねはしなくていいよ」
きゅるくー、トリー!
「はははっ、名前はもう完璧だな」
背負い籠にトリーを入れて、僕は山を下っていた。
ばあちゃんの言った通り、たった一晩で獲物を獲ることができたのだ。
僕が獲るのはもっぱら雉。罠を仕掛けておいて、日を置いてから回収する。大物が獲れない代わりに畑仕事をしながらでもできるので、一人暮らしの僕にはじゅうぶんだった。
今日の獲物は雉が2羽。
あのときと同じだ。
トリーの卵を拾ったとき。
違うのは肌寒かった空気が熱を持ち、すっかり暑くなったこと。トリーが孵って元気に大きくなったこと。そして見上げても見下ろしても、草木の葉が茂って見通しが悪くなったこと。
あのときはもっと空が広かった。葉の落ちた枝の間からトリーの産まれた巣を必死に捜して、それで見つからなかったのだ。加えていまのこの様子では、トリーの仲間を捜そうにもどうやって捜していいのかわからない。
トリーの親が見たかった。もし兄弟がいるなら会いたかった。
大人になったトリーがいったいどんな姿になってしまうのか、僕は不安でしかたがなかった。
「おーい、ミカ!」
家の近くの木の下で、アキが手を振っていた。
帰ってきたんだ。
僕は急いで──でもトリーの入った背負い籠を揺らさないよう気をつけて、アキの元に駆けつけた。
「留守にしてて悪かったな。これ、土産」
「ありがと。でもそんなことしなくてもいいのに。……ってこれ」
「愛しのトリーちゃんに」
決まってるだろ、と差し出された箱の中には蝉の幼虫が詰まっていた。よくこれだけ集めたものだと感心してしまう量だ。
確かにトリーは蝉が好きだ。地虫よりも美味しいらしく、差し出せば喜んで食いついてくる。
でもそろそろ虫は卒業しようと思っていたのに。
ひっそりと溜息をついて、僕はアキを家の中に招き入れた。
勝手知ったる家の中、淹れておいた茶を湯飲みにとりわけるとテーブルの上に置き、アキはどっかと椅子に腰を下ろした。
「……で? どーしたよ」
「うん……」
雉を置いて荷物を片付け、籠の中からトリーを抱き上げアキの膝の上に乗せてやる。
アキとは何度も顔を合わせているからトリーは怖がることもない。きゃあきゃあ歓声をあげて翼を動かし、尾も上下に振って上機嫌だ。
「あらら。ずいぶんハゲちゃったなあ。でも翼には羽も出てきたから……いててっ」
興奮したトリーが嬉しさのあまり、アキの腹を蹴ったのだ。トリーの足はすっかり太くなり、爪も鋭いから蹴られると結構痛い。
「こーら。痛いだろ」
めっ、と翼の下に手を入れて、アキはトリーを持ち上げた。
翼と足を交互にばたつかせ、きゃるくーきゃるくーとトリーは楽しそうに声をあげる。その様子を目を細めて見ていたアキが、なにかに気づいて眉を寄せた。
「なんだ、こりゃ」
膝を揃え、アキはトリーの腹を上にして寝かせると、胸の辺りでふさふさしている二つの水色毛玉を手に取った。最後まで残っているトリーの産毛。風もないのに翼と一緒に左右に振れて、まるでそこにも翼があるようだ。
「……これ」
指先で毛玉を握ったアキの表情が険しくなった。
真剣な目つきでトリーの毛玉に指を這わせ、「身」の部分の形状を確かめている。やがて指を離すが人差し指は水色毛玉にふれたまま。そのまま指を動かすと、つられてトリーの毛玉も左右に揺れる。
羽毛に埋もれたアキの指は、トリーによってしっかりと握りしめられていた。
「うちに来たのって……これが理由か?」
「うん……」
翼のほかに、5本の指のある小さな手。産毛が抜けて、顔立ちも体つきも鳥とはどこか違ってきた。尻尾だって少しずつ伸びてきて、トリーは徐々に「鳥」ではなくなってきているようだ。
「ずっと鷹か鷲だと思ってたんだ。……違うっていわれても、いまさら名前は変えられないし」
「はあ? ……名前?」
アキは目を丸くした。
こんなときになにを言っているんだ。
そんなふうに睨まれたけど、これだって重要なことなんだ。
「鳥だから、トリー。もうトリーだって自分の名前、覚えてるからな」
きゅるくーきゅるくー、トリー!
「よーしよし、よく言えたな、トリー」
顎の下をくすぐると、トリーはくるくるくーと喉を鳴らして喜んだ。
「喋るのか……」
「最近覚えたんだ。なー、トリー」
きゅるきゅーくーくー、トリー、トリー! きゅるきゅるきゅー
「ほら、アキおじちゃんから蝉を貰ったんだ。美味しいうちに食べような?」
きゅるきゅる、ぎゅるるっ、ぎゃー
食べる食べる、はやくちょうだい。
首を伸ばして口を開け、翼をばたつかせて餌をねだるトリーはまだまだ雛だ。
腹一杯になるまで食べさせてから耳の後ろをくすぐってやり、うとうとしだしたところを見計らって僕らは静かに部屋を出る。
声を潜めて僕はそっと囁いた。
「なあ、アキ。トリーは……なに?」
「……俺も見るのは初めてで、はっきりしたことはわからない。でも」
「でも?」
「恐らく……ドラゴンじゃないかと思う」
「ドラゴン……?」
頷くアキに、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「そっか……ドラゴンか」
「おい、なに安心してんだよ」
これは大変なことなんだぞと小突くアキに、僕は口をとがらせる。
「だってトリーは虫じゃないんだろ? いいことじゃないか」
「虫ぃ?」
「そうだよ。いままでずっと、トリーは虫ばっかり食べてきたんだよ? 大きくなって虫になったらどうしようって、ずっと心配してたんだ」
そう、それだけが気がかりで、僕はこのところ夜もまともに眠れなかった。
トリーがドラゴンで良かった。
もし虫だったりしたら、食事のたびに共食いさせることになっていたから。僕はそれがどうしても嫌だった。
とりあえず一安心だけれど、どうやらアキは違ったようだ。ものすごく疲れた顔をして、背中を壁に預けるとずるずると座りこんだ。
「……なんで……虫なんだよ……」
「足が6本あるから」
「ばっかやろっ! 虫は足の他にも羽があるだろ? だったらトリーはそれだけでも虫とは違う!」
「あ……」
そうか。トリーの翼が虫の羽だと考えれば、トリーの足は4本だ。それなら虫の仲間には入らない。やっぱりアキは物知りだ。
でも、もうひとつ心配なことがある。
アキの瞳をじっと見つめ、僕はその疑問を尋ねてみることにした。
「ならさ。トリーはカエルでもないよね?」
「あっ……たりまえだろ? なんでカエルなんだよ」
一瞬言葉を失ったが、アキはちゃんと答えてくれた。
なんだか怒っているのが気になるけれど、街から帰ったばかりできっと疲れているんだ。アキは、本当は信頼のおけるいい奴なんだから。
「だってさ、オタマジャクシやアマガエルを餌にしたことがあったから」
大きくなって手が生えるだなんて、まるでカエルそのものだ。
トリーは鳥の雛とはどこか違う。
もうだいぶ前からそんな気がしてならなかった。だからちょっとしたことでも不安にかられ、少し神経質になっていたのかもしれない。
でもトリーがドラゴンだと知って、僕はとても安心した。
トリーがたったひとりだけの生き物だったらどうしようって、それだけが怖かった。
それでもドラゴンなら。
少なくとも仲間がいるってことだ。
本物を見たことはないけれど、名前だけは知っている。全身ウロコに覆われた、トカゲに似た大きな生き物。鋭い牙と爪を持ち、背中には羽まで生えている。
子供心に格好良いと思っていた。トリーがまさかそのドラゴンだなんて、なんだかわくわくするじゃないか。
「トリーがドラゴンか……」
「ミカ、落ち着け。そしてよく考えろ」
このとき僕は、確かに浮かれていたのだろう。だから、アキがなにを心配しているのかよく理解していなかった。
ドラゴンだと言われても実感がわかなかったし、怖い生き物だという話を聞いてもオオカミみたいなものだと、そう思っていた。オオカミは犬の仲間で人に懐いたりもする。トリーはあんなに懐いているから、きっと僕のいうことも聞いてくれる。
僕は勝手に、そんなふうに考えていた。