3 しゃべる鳥
翼でバランスをとりながら、おっかなびっくり歩いたトリーが振り返ってきゃーと鳴く。
まるで「すごいでしょ」と言っているようだ。
けれど偉いぞ、と褒める前にすとんと尻餅をついてしまい、小さな尻尾を左右に振って、トリーは低くきゃるると鳴いた。
落ち込んだ様子もまた可愛くて、僕は笑いながらトリーを籠に戻してやる。
ふわふわだった水色羽毛はほとんどが抜け落ちてしまっていた。耳の近くと胸の前、そして両の翼の付け根に少し残っているだけで、ほかは地肌が露出してしまっている。あのふわふわがなくなったせいでトリーの面差しもすっかり変わってしまい、身体は2周りほど小さくなったような気さえする。それに柔らかかった肌がだんだんと固くなり、淡い桃色だった肌の色もどこかくすんだ色になってきた。
産毛の後には大人の羽の芽、「軸」が生えてくるとアキは言っていたのに、そんな気配はぜんぜんない。
なにか悪い病気なのかと心配したが、トリーは上機嫌で食欲も旺盛だ。
るるるー、きゃるー、きゃるー、きゃるー、ぴーるるる
僕が畑仕事をしている間、畑のそばの、涼しい木陰でトリーはひとりで遊んでいる。
風にそよぐ柔らかそうな草の新芽、可愛らしい小さな花。飛んでくる羽虫や地面を歩く丸い虫。とにかく動くものをじっと見つめてトリーはぱくりと口に入れる。そして食べられるものはそのまま食べているようだ。
すこしだけでも歩けるようになって嬉しいのか、トリーは籠に入れてもいつのまにか外に出ていることがよくあった。僕は最初、鳶や森の動物に襲われないかと心配で、とてもじゃないけど目が離せないと思っていた。けれど畑の周りは柵で囲われているし、トリーは籠から出るといってもその周りからほとんど離れない。数日様子をみたけど大丈夫そうなので、なにかあってもすぐに駆けつけられる場所に限って僕はトリーを自由にさせることにした。
横目で見るトリーはとても楽しそうだ。
近くの草を引っ張ったりクチバシで地面を掘ってみたり、そして自分で地虫を獲ったりもする。
それでも僕の与える地虫の方がやはり美味しいようで、トリーはお腹がすくと餌をねだる。満腹すると籠で寝て、目が覚めると小鳥を真似してさえずるような歌を歌う。
るるるるぴー、ぴーるるる、つーぴーつーぴー、きゃーるるる
畑仕事が終わったあと、膝の上にトリーを乗せて僕はつぶらな黒い瞳をのぞき込んだ。トリーは元気だから、きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせても、僕はやっぱり不安だった。
トリーは鷹のはずなのに、小さい耳が出てきたんだ。向こうが透けるぐらいに薄くて小さいトリーの耳。残った産毛に埋もれているけれど、確かにそこには耳があった。
それに、胸の前の産毛の中にも膨らみがある。さわるとトリーは「やめて」って身をよじるから触れないようにしているけれど、これはデキモノじゃないだろうか。
「トリー、辛いところはない? なにかあったら、すぐに僕に言うんだよ?」
両手で耳の後ろを掻いてやれば、トリーはうっとり目を閉じる。ここは最近見つけたトリーが喜ぶ場所だった。
きゅーうぅぅ……
羽が抜けてしまっているけれど、それでもトリーはやっぱり可愛い。ふわふわの毛玉でなくなってしまっても、トリーはトリーだ。
もしこのまま新しい羽が生えなくても、僕とトリーはずっと一緒。
だって僕らは家族だから。
どんな姿になっても家族であることに変わりはないんだ。
◇ ◇
ちゃ、……ちゃ、……ちゃか、……ちゃ、きゃるー……
おっかなびっくり歩く爪音に振り返ってみてみれば、トリーがぷるぷる震えながら立っていた。
「トリー! ひとりで寝台から降りられたの?」
きゃーう
「そうだよ」と翼をばたつかせ、そしてトリーはぽてんと尻餅をついた。
まだ歩くことだって覚束ないのに、たったひとりで寝室から台所まで歩くだなんて。毎日トリーを見ているのに、そんなことができるようになっていたとは僕はぜんぜん気づかなかった。本当に、雛はあっというまに大きくなる。
その成長が嬉しかった。そして僕を追いかけ家の中とはいえ冒険までしたトリーが愛しかった。頬が緩むそのままに、僕はトリーを抱き上げ両手でそっと抱きしめた。
「待ちきれなかったんだね。さ、向こうに行こう?」
トリーを抱えて居間兼台所から隣の寝室に移動する。
寝台に腰を下ろして膝の上に乗せてやると、トリーはくたりと力を抜いて僕に身を預けてきた。
お湯に濡らして絞った布で身体を綺麗に拭いてやるのだけれど、トリーはこれがとても好きなんだ。全身からすっかり力を抜いて、すべてが僕のなすがまま。るるるるるーと喉を鳴らす姿はとても鷹とは思えない。
声を出さずに笑いながら、僕は蜜蝋油を手に取った。ほんの少しだけ手に取って、地肌の部分に塗り込める。むき出しになった肌が乾いて荒れるから痒くなるんだ。ならば、と思ってこの方法を試してみたら、それからトリーは掻かなくなった。以来僕は毎日トリーの身体を綺麗に拭いて、蜜蝋油を塗ることにした。
目に入らないよう気をつけて、口の端と顎の下は丁寧に。ちょっぴり残った産毛には触れないように注意しながら蜜蝋油を薄く伸ばす。頭から順番にすり込んで、毛のない翼にとりかかり、そこで僕は気がついた。
翼がざらざらしている。
折り畳まれたそれを伸ばしてよくよく見れば、皮膚の下からぽつぽつ何かが芽吹こうとしているようだ。
「これ……これが『軸』?」
きっとそうだ。
これでやっと、トリーの翼に羽が生える。
「やったな、トリー!」
喜びのまま抱きしめると小さな尻尾をぴこぴこ振って、トリーも嬉しそうにきゃーと鳴いた。
◇ ◇
草の茂った細い道を全速力で駆け降りる。道の両脇から飛び出た枝が何度か身体を打ったけど、構ってなんていられない。夏の強い陽射しが目に痛い。だけど何度も通った道だから、眼をつぶっても大丈夫。それよりも、アキに会わなくちゃならなかった。
僕の家は村の外れに建っているから、アキの家に着くころにはすっかり息が上がっていた。
「ばあちゃん! アキは、アキはどこ!?」
村長宅の庭先で薬草を干していたばあちゃんに、汗を拭いながら声をかける。
ばあちゃんはアキのばあちゃんだ。小さくてシワシワだけれど村一番の長老で、薬草の知識は誰にも負けないすごい人だ。僕たちは皆、親しみを込めて「ばあちゃん」と呼んでいる。
「あれあれ、ミカ。どうしたね」
「ばあちゃん! アキはどこにいるの?」
「アキ? ああ、ああ……街に行っとるが」
「街? ってことは村長さんも一緒か……ばあちゃん、アキはいつ帰ってくるの!?」
「あれあれ、一度に言わんでも。そうさね。確か明後日戻るはずだがね」
「明後日!」
アキの馬鹿。なんでこんな時に街になんて行ってるんだ。
それまで僕は、どうすればいいだろう。
黙り込んだ僕になにか感じることがあったのか、ばあちゃんは腰を叩きながら何度も大きくうなずいた。
「今年は春告鳥があちこちで鳴いたから、山には動物がたんとおる。雉でも狩って食べたらええ」
そうか、雉だ!
はっとして顔をあげると皺だらけの顔をもっとしわしわにして、ばあちゃんは優しく微笑んでいた。
大丈夫、大丈夫。
力づけるようにぽんと背中を叩かれて、急に元気がわいてきた。
そうだ。僕が不安になってどうする。トリーの方がよっぽど心細いに違いないのに。
ばあちゃんに礼を言って、僕は家に向かって駆け出した。
「トリー、ただいまっ!」
寝台に置いてあった籠の中から立ち上がり、生えたばかりのぽやぽやの翼をばたつかせ、トリーはきゅんきゅん鳴いて僕を出迎えた。
トリーをひとりにするときは、僕は必ずここに置く。机の上だと落ちたときに危ないし、床に置くと今度はなにを口にするかわからないからだ。檻に入れたり繋いだりすればもっと簡単だし安全なのだろうけど、僕は家族を繋ぐような真似はしたくなかった。それに寝台はトリーにとって特別な場所のようで、籠から出ても僕がいなければ枕の近くからは離れない。
トリーが孵ってからというもの僕らはずっと一緒だった。だからトリーはひとりになると寂しがる。滅多にあることではないけれど、それでも留守番させるときにはトリーに良く言い聞かせ、帰ってからはべたべたに甘やかすことにしていた。
お留守番がんばったね、と抱き上げて、うんと撫でてあげようと手を伸ばしたそのときトリーが再びきゅーと鳴いた。
きゅーきゅー、ちょりー! きゅー
「……え?」
いま、トリーはなにか喋らなかっただろうか。
ぴたりと動きを止めた僕に「なにをしているの?」と言うように、首を上下に振りながら、トリーはだっこをねだって声をあげる。
ちょりー! ちょりー! とりー! きゃーう
言った。
確かにいま、トリーは「トリー」って喋った。
こんなことって。
トリーが……じゃあ、トリーは。
胸の中でなにかが膨らみ、大きくなって溢れ出す。
それは鼻の奥をつんとさせ、目の前を水の膜で滲ませた。
「トリー……」
「はやく」と急かすトリーを抱き上げて、胸の中に閉じ込める。
言葉をなくした僕を慰めようと、トリーが頬を寄せてきた。「どうしたの?」と鼻を鳴らして小首を傾げ、そして僕の頬を優しく舐める。
ちゅくちゅくと音を立て、ざらついた小さな舌で零れた涙を拭ってくれる。
その気遣いが嬉しかった。
もうトリーが何者でもかまわない。
たとえ鳥でなくなっても、僕はトリーを手放せない。




