2 抜け落ちる羽
きゅるる、きゅる、ぎゅるるっ
その鳴き声にはっとして、僕は野菜を刻む手を止めた。
恐る恐る振り返ればトリーが黒い瞳をぱちりと開けて、籠の中からじっと僕を見つめている。もう少し寝ていてくれると思ったのに、もう目が覚めたんだ。
まずい、アレが来る。
包丁をそっと降ろしてトリーを見ながら僕はそろそろと移動した。頼むから、もう少しだけ我慢して。そんな願いを視線にこめて、足元に置いた木箱に手を伸ばす。けれど、あとほんの少しというところでトリーはかぱっと大きく口を開けた。
きゃー! きゃー! きゃー! きゃー!
お腹がすいた、お腹がすいた、ひもじいよう。早くご飯ちょうだいよう。
遅かった。トリーの声がきんきん響いて耳が痛い。
「もうちょっとだからね、トリー。少しだけ待っててね」
慌てて木箱を抱えて優しくなだめてみたけれど、声はますます大きくなる。僕は急いでふたを開けた。
雛の成長は本当に早い。ついこの間まで握りこぶしひとつぶんだったのに、いまでは握りこぶし2つぶん。トリーはあっという間に大きくなった。
そして食べる量も急に増えた。芋虫を1匹食べるのがやっとだったのに、いまでは芋虫なら5匹、地虫なら3匹は食べないとお腹がいっぱいにならないようだ。小魚なら1匹で済むけれど、魚は相変わらず釣れないし、がんばっても3日に1匹ではどう考えても足りやしない。
トリーは1日になんどもお腹が空いたと訴えるから餌を集めるのも大変で、僕はついに地虫を集めて飼うことになってしまった。
「ううっ……虫ばっかり食べてたら、トリーまで虫になりそう」
地虫は畑に住む芋虫に似た害虫で、地面を掘ればすぐに見つかる。
だけどトリーが食べるには小さいうえに固そうで、足を喉に詰まらせないかと心配だった。だから僕は獲った地虫を箱に入れ、餌を与えて太らせてからトリーに与えることにした。餌は野菜くず。特別なことはしなくていい。
これでひとまず餌の心配はなくなったけど、でもやっぱり鷹の雛に虫というのはどうだろう。将来虫しか食べない鷹になったらどうしようかと常に不安がつきまとう。
トリーを飢えさせるわけにはいかないから餌が虫でもしかたがない。そう自分に言い聞かせるけど、どうしてもトリーに悪い気がしてならなかった。
だからせめて、お腹が空いたときにはすぐに食べさせてやりたかった。それに早くトリーを静かにしないと僕の耳がおかしくなる。
「トリー? もうご飯ができるからね。すぐだよ?」
餌の用意は本当にすぐできる。
僕はまず、木箱の中から丸々太った地虫を1匹選んで取り出した。それを手の上でころころ転がして、余分なおがくずを落としてやる。次に腹側でちきちき動く足の間のゴミを丁寧に取り除く。最後に皮をつまんでぷっと息を吹きかけ埃を払ってできあがりだ。急いでいても余計なモノを食べさせて腹を壊したらいけないから、そこはじゅうぶん気を使っている。
「ほらほら、できたぞー」
地虫をつまんでトリーに見せると、早く早くと声がさらに大きくなった。
水色綿毛の小さな翼をばたつかせ、頭より大きく口を開け、首を伸ばしてトリーは必死になって餌をねだる。このとき短い尻尾がぴこぴこ動いてこれがまた可愛い。たとえ耳が痛くなってもこれを見るのだけはやめられない。
頬をにんまり緩めながら、手にした虫の頭をそっと口の中に入れてやる。するとトリーはぱくりと食いつき大きな地虫を一生懸命飲み込みだした。
クチバシを大きく開けて天に向け、僕の親指より太くて人差し指より長い地虫をゆっくり腹の中に納めていく。全部食べると一度僕を確認し、そしてまたきゃーきゃー鳴いて「もっと」とねだる。
今日も1度に3匹食べて、トリーはやっと満腹したようだ。くるくるくーと喉を鳴らして「美味しかった」と言っている。そこで喉の下をくすぐると、トリーはうっとりと目を閉じた。
あまりに気持ち良さそうなので、さらに両手で身体全体をくすぐってやる。すると、水色羽毛がぶわりと膨らみ黄色いクチバシがちょっぴり開いた。
きゅー……るるる……
ああ、幸せ。
そんな声が聞こえた気がして僕も嬉しくなってくる。
嬉しいとか楽しいとか、こんな気持ちになったのは久しぶりだ。父さんと母さんが死んでから、二人が残した家と畑を守らなくっちゃって、ずっとそれしか考えなかった。だから寂しいだなんてこれっぽっちも感じなかった。けれどトリーと暮らし始めて僕はやっと思い出した。
家の中でひとりじゃないって、こんなにも安心するものだったんだ。
疲れていてもトリーの気配を感じると、優しい気持ちになってくる。トリーが喜ぶと、僕も嬉しくなってくる。だからトリーのためならなんだってしてやりたい。トリーの幸せが、僕にとっても幸せだから。
食べては寝る、そんなトリーの生活もこのごろ少し変わってきた。
大きくなって力がついて、ほんの少し自分で動けるようになったんだ。そのせいか、色々な行動をみせてくれるようになってきた。
きゃる、きゃる、きゃるるっるー
小さなお尻を高く上げ、ぴょこりと飛び出た尻尾を振りながら、トリーが指の間に懸命にクチバシを這わせている。小刻みに動かしながら根元から指先へ、何度も何度も啄むような仕草をする。どうやら僕に毛繕いをしているつもりのようだ。
ずっと餌と病気の心配ばかりで、なにかを教えるなんてこれまで一度も考えなかった。なのに喉の下をくすぐったらトリーはちゃんとお礼をしてくれる。
知らない間にちゃんと成長してるんだ。
動物って凄い。
感動して、僕はトリーを抱き上げた。
ついこの間まで吹けば転がるぐらいに軽かったのに、いまはずっしり重くなった。
太い足には鋭く尖った黒い爪。顔立ちも細長くなってきて、少し大人びてきたように見える。身体はまだふわふわ水色の産毛に覆われているけれど、じきにこれも生え変わるだろう。
「ほんと、トリーは凄い。でもって可愛い」
腕の中で居心地のいい場所に落ち着くと、トリーは頬をすり寄せ甘えてくる。その身体を抱きしめて、僕は黒い瞳に視線を合わせて約束した。
「飛べるようになったら、二人で一緒に狩りをしようね」
小さな翼を軽く握って握手すると、トリーはぴゃーと返事をした。
◇ ◇
ふわふわ、ふわふわ
水色羽毛が宙を舞う。
もうすぐ夏になって暑くなるからその前に、とでもいうように、トリーの産毛が抜け始めた。
換羽だ。
産毛が抜けて大人の羽に生え変わる、鳥にとって大事な時期。
「こういうときは病気になりやすいから気をつけろ」
アキも言っていたように、トリーもどこか落ち着かなかった。
しょっちゅうぶるぶる身震いするし、痒いのか、あちこちの毛をクチバシでつまんで引っ張っている。産毛が抜けて地肌が見えても爪やクチバシでがりがり引っ掻いてしまうから、皮膚がささくれ赤くなってしまっていた。これ以上は傷がつく。掻かないようにと手を出すと、トリーはがぶりと噛みついた。
「いつっ……!」
とっさに手を引っ込めると、トリーはきゅーと哀しそうに一声鳴いた。
ごめんね、ごめんね。
そう言うように、きゅんきゅん鼻を鳴らして項垂れる。
「いいよ、トリー。急に手を出したから、びっくりしたんだよな」
クチバシの尖りが当たった部分が赤くなっている。けれど血は出ていない。噛みついたといっても、じゅうぶん手加減してくれたんだ。まだ小さいのにこんなに僕を気遣って、トリーはなんて親思いなんだろう。
そんなトリーが愛しくて愛しくて、羽が抜けてまだらになってしまった身体をそっと抱き上げ頬を寄せる。するとトリーは首を伸ばして僕の髪にクチバシを入れ、ちゅくちゅく毛繕いをし始めた。お礼に僕もトリーの身体を優しく掻く。これで二人は仲直り。
僕たちは家族なんだから、遠慮しなくてもいいんだよ。
◇ ◇
ひゃー、ひゃー、ぴゃーぁあ
切ない声が部屋に響く。換羽が始まってから、トリーは夜になるとよくこうして鳴いていた。
「トリー。大丈夫だよ、トリー」
名前を呼ぶとそのときだけはトリーは落ち着き大人しくなる。そこでランプの光を落としてうとうとするまで背中を撫でて、それから僕も寝ることになっていた。なのに今日はいつもと違う。僕がそばを離れると、すぐに眼を覚まして鳴き出すのだ。
いつもならすぐに眠ってくれるのに、どうして。
寝台わきの小さな台。その上に置かれた籠の中からトリーはじっと僕を見つめている。そして布団に入ろうとすると「行かないで」と翼をばたつかせて悲痛な声をあげるのだ。
困った。
この時期は畑仕事が忙しくて、僕はいつもくたくただ。それに明日も早起きしなきゃならないから、もう眠ってしまいたい。離れるといっても手が届く距離だ。なにかあってもすぐに駆けつけられるのに、どうしてトリーは大人しく寝てくれないんだ。
トリーは鳴き止まない。仕方なく、僕は籠を枕元に移動させることにした。
ここなら本当に眼と鼻の先だ。これで落ち着いて眠ってくれるといいのだけれど。
そうやって布団に入って寝ようとする僕を、トリーが籠の中からじっと見ていた。
「おやすみ、トリー」
そっと頭を撫でて寝ようとすると、トリーは籠のふちにクチバシを引っ掛けて、よろよろと立ち上がる。眼を丸くする僕の前で籠を乗り越えようと身を乗り出して、そして頭から転がり落ちた。
「! 危ないっ……」
抱き上げ籠に戻そうとする手を押しのけて、トリーは必死になって這ってきた。ばたばた毛の抜けた翼を動かして、布団の中へと頭を入れる。そして振り返ってぴゃーとなにかを訴えた。ここで寝たいと、まるでそう言っているようだ。
つぶらな黒い瞳と眼が合って、僕ははっと気がついた。
そうだ。親鳥は雛をお腹の下に入れて寝る。雛は全身を柔らかな羽毛に包まれて、親に守られながら安心して眠るんだ。
僕はなんて馬鹿なんだろう。
小さい頃は、僕だって母さんと一緒に寝ていたのに。
なのに僕はトリーの親だと言いながら、一度だって一緒に眠ったことがなかったんだ。
トリーはまだ雛なのに。
産毛が抜けてしまってただでさえ心細くてしかたがないだろうに。
暗いところは怖いって、必死になって鳴いているのにひとりで寝ろだなんて、どうしてそんなことが言えるだろう。
「……トリー、ごめんな。一緒に寝よう?」
トリーを引き寄せ腕の中に囲ってやる。そっと布団を被せて背中を撫でるとあふ、とトリーはあくびをした。しぱしぱ黒い瞳が瞬いて、すぐにこてんと力が抜ける。
すー、すー、ぴすー、すー
小さな小さな寝息が聞こえて僕はなんだか嬉しくなった。そして同時に後悔した。
ああ、やはり。やっぱりずっと寂しかったんだ。
ごめんね、トリー。
もっと早くこうしていれば良かったね。
トリーが僕の腕の中にいる。それだけで、疲れもいらいらとした気持ちもいつのまにか消えていた。それで僕はやっと気がついた。
僕もトリーと一緒に寝たかったんだ。だからこんなにほっとするんだ。
目を閉じれば僕もすとんと眠りに落ちた。そして次の日は、とても気持ちよく目が覚めた。
またひとつ、トリーに教えられてしまったみたいだ。
情けないけど僕は教えられてばかりだね。
そうして一緒に眠るようになってから、トリーの夜鳴きはぴたりと止んだ。
僕はといえば、寝ている間にこの可愛い雛を潰してしまわないかとそれだけが心配だったけど、それはまったくの杞憂だった。
そもそも寝相は悪くないというのもあるけれど、トリーは僕の顔のそばで寝るのが好きだったんだ。だから目が覚めるとトリーは布団の中に入っていたり、いなかったり。でも大抵は、僕の頬にくっつくように眠っていた。だから僕はひとつの枕をトリーと半分ずつ使うことにした。
一緒に眠るなんてことができるのも、本当にいまだけなのに。
僕はなにを怖がっていたんだろう。