15 トリーの歌う、愛のうた
ぎゅうーるるるーぅう
低いうなり声をあげ、ついと頭を下げてトリーは僕らを睨みつける。
その強い眼差しに、僕は目を逸らすことができなくなった。息することすらためらうほどで、ただただじっとトリーを見つめることしかできなかった。
トリーはきっと怒っている。だから僕に仕返しにきたんだ。
だってあんなに強い眼差しで、じっと僕を見据えているじゃないか。そのうえ目から耳にかけて赤い隈取りまでできて、身体の両側を走る黒い筋の下も、耳の後ろの飾り羽も背中の青い翼もところどころが綺麗な赤に染まっている。この炎のような赤い色は、まるで怒りの深さを現しているようだ。
ああ、でもそんなトリーの綺麗なことといったらどうだろう。僕はいままで生きていて、こんな美しい生き物を一度だって見たことがない。
うっとりとその姿を眺めながら、それでも隅々までトリーの身体を観察する。
トリーは少し、痩せたみたいだ。でも怪我はしてない。そのことに少し安心したけれど、僕の胸はずきんと刺すように痛みだした。知らない場所に突然ひとりで置き去りにされて、どんなに辛かったことだろう。あんなに甘えん坊だったのに、どんなに心細かったことだろう。
本当に、よく戻ってきてくれたね。
さあ、トリー。
悲しかったろう? 悔しかっただろう?
とても腹が立っただろう?
全部受け止めるから、思う存分僕に怒りをぶつけてくれ。
ゆっくりと一歩前に踏み出して、トリーの視線を受け止めた。
トリーを前にして、アキに支えてもらうわけにはいかなかった。
踏ん張りながらも一人で立って、トリーに向かって微笑みかける。すると青い翼がぶわりと膨らみ、長い尻尾がぴんと立った。それからトリーはふんっと鼻を鳴らして気合いを入れた。
コッコちゃんを威嚇したときと同じようなその姿勢。
いまにも飛びかかろうとするその気配に、後ろでアキが身じろいだ。それを制して僕はトリーに向かい合う。
視線が重なると、トリーの強い決意が伝わってきた。
ああ、本気なんだね。
さあトリー、早くおいで。
噛みつかれても引っ掻かれても、僕は目を閉じたりしないから。
きゅーるるるー
ついに、トリーが動きだした。
翼をいっぱいに広げると尻を上げ、頭を低くすることで背中側を僕に見せて身体を細かく震わせる。その下からは虹色に輝く羽がゆっくりと現れて、扇のように開いていった。
りー、りー、りりー
鈴のような不思議な音色が響いてくる。
なんだ、これ。
目を丸くする僕の後ろでアキが小さく囁いた。
「あの透明な小さい羽だ。コオロギみたいにすりあわせて、そこから音を出してるんだ」
意識すべてがトリーに向かって集中する。
あの羽からこんな綺麗な音がするなんて、とても信じられなかった。
高音だけど深みのある、心が穏やかに静まる優しい音色。
こんな素敵な音を聴かせてくれるなんて、トリーは怒ってないんだろうか。
すっかりトリーに魅入っていると、ぴんと立った尻尾がゆらゆらと揺れだした。
揺らぎは身体全体に広がって、やがてトリーは動き出す。
獲物の猪を舞台にして、右に左に滑らかに移動する。そのあいだにも鈴を振るような優しい音色は続いていて、まるで夢を見ているようだ。
りりりー、りりりー、りりりー
きゅるるーきゅうー、きゅるるるーるるー
びっくりした。
鈴の音を伴奏にして、トリーは歌いだしたんだ。
りーりーりー、りーりーりー
きゅるぴー、きゅるぴー、るるるるぴー
トリー、トリー、ボクハトリー、ナカヨクシテネ
ぎゅるるぎゅる、ぴるぴるぴー、つーつーぴー
りーりーりー、りーりーりー
歌が途切れ、トリーの身体がふわりと浮いた。
綿毛のようにゆらゆら揺れると円を描いて宙を舞い、再び舞台の猪に着地する。今度は足を使って端から端までつつつと動くと小さなお尻をくいと振った。
そのあいだにも鈴の音は絶え間なく続いている。歌いながらもトリーは踊り、ふわふわと飛んでいた。
「歌って踊って……そしてあの色……」
後ろでアキが呟いた。
頼むから、黙っててくれ。トリーが一生懸命歌ってるんだ。邪魔しないでやってくれないか。
腹立ち紛れに肘で小突くと静かになった。
僕はまた、トリーの歌と踊りに集中する。
きゅるりるりりる、りるりるりー
オトーサンハ、メリカムラノ、ミカデス!
りりーりー、りーりりー
トリーはちゃんと、僕が教えた言葉を覚えていた。
嬉しかった。こんなふうに歌ってくれるなんて、トリーはなんて親孝行なんだろう。
感動のあまり涙ぐむ僕に、ぼそりとアキが水を差した。
「春といえば恋の季節で……あれはもしかして、婚姻色?」
ほんっとうにうるさいな。少しぐらい静かにしててよ。せっかくのトリーの歌が台無しになるじゃないか。
踵で足の先を思い切り踏んでやると、今度こそアキは息を詰めて静かになった。
その間にも、トリーの歌と踊りは続いていた。
ふわり、ふわり、青いからだは軽やかに舞い上がり、そのたびにウロコが光を弾いてきらきら美しく輝いている。ゆっくりした動きなのに熱い想いがこれでもかと伝わって、僕の胸はどんどん熱いもので溢れてくる。
やがて歌も最高潮に達したようだ。震わせる羽の音もトリーの声も、身体の奥までびんびん響いて目頭がぐっと熱くなる。
──凄い。
もう、それしか言葉がなかった。
ぎゅるぎゅるぎゅる、るるりるりるりー、きゃーう
りーりーりー、りりりー、りりりー、りーりーりー、
きゃるっ、きゃるっ、きゃるっ、きゃるっ
トリー、トリー、カワイイトリー、トリリルタタタッ、ぴるぴるぴー
りりりー、りりりー、りーりーりー
きゃるきゃるりっ! トリーハウマレ、マシマシタ!
ぴーぴーるー
オトーサンハ、ミカデ、ネギ!
ネギ、ネギ、ネギデスタッ!
◇ ◇
「なんでネギなんだよ……しかも『ですた』って」
「ネギだってイモだってなんだっていい! トリーは頑張ったんだ。揚げ足取りなんてしないでよ」
ふっふっ、ふっふっ
トリーの息は弾んでいた。広げた翼は閉じたけど、まだふんわりと膨らんでいる。
山奥から戻ってすぐにあんなにたくさん歌って踊って、とても疲れているだろう。なのにトリーは熱のこもった黒い瞳で僕をまっすぐ見つめている。
怒りや恨みなんて欠片もない。「どう? ちゃんと見てくれた?」ってきらきら輝くつぶらな瞳に僕は涙が出そうになった。
僕はトリーを捨てたのに。
激しくぶって山の奥深くに置き去りにして。トリーの声が聞こえても、返事もせずに逃げるように帰ってきた。なのにトリーはそんな僕を責めるどころか元気を出せというように、歌って踊ってそのうえ大きな猪まで獲ってきてくれたんだ。
その気持ちが嬉しくて、僕はそっと手を伸ばす。
「トリー……」
きゅるるっ
一目散に、トリーが僕の胸に飛び込んできた。
甘えるように頬を寄せ、きゅるきゅる喜び顔中を舐め回す。
僕もトリーをしっかりと抱きしめて、身体全部を撫でてやった。
アキは呆気にとられていたけれど、やがてなにかに気付いたように呟いた。
「……なあ、ミカ。今の……」
「うん。トリーが……トリーが、許してくれたんだ」
「……その、なんだ。……これ、プロポーズじゃないのか?」
「うん。プロポ……って、なにが?」
ぎゅる、ぎゅーるるっ
胸に抱いたトリーが妙な調子でひとこえ鳴いた。
小さな前足が僕の頬に添えられる。輝く青の口が僕の口に合わせられ、そして。
けろけろけー
よりにもよって僕の口の中に!
トリーは胃の中のものをすべてそこに吐き出した。
後に知ったことだけど、これは求愛行動の一種で「愛の吐き戻し」というらしい。
最大限の愛情を示すものだそうだけど、そのとき僕は、精神的なショックとあまりの生臭さに意識を手放してしまっていた。
なのにそれをどう受け取ったのかトリーは歓喜の雄叫びをあげ、そしてそれ以降、なにがあっても僕のそばを離れようとしなかった。
またトリーと一緒に暮らせるようになったのは嬉しいけれど。
でも朝起きてから夜寝るまで、いや寝ているときも、トリーは僕にぴったりとくっついている。
それはトリーの愛の深さ。わかっているけど、だけど。
──ああ、愛が重すぎる。
とりあえずの完結です。
ここまで読んで頂きまして、本当にありがとうございました。
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