閑話 語り始め
焚き火がぱち、と音を立てた。
いつもと同じように、夜が村を包んでいた。
でも、その夜だけは、みんなが火の周りに集まり、誰もが**“カズハの口から”**その話を聞こうとしていた。
村の者は誰もが知っていた。
あの子が一人で山に入り、
霧に包まれて、
戻ってきたとき――彼女の目は、なにかを見ていたと。
カズハは、火の前に座っていた。
手には、父の作ってくれた藁編みの護符。
小さく深呼吸して、みんなを見渡す。
静かな時間が流れた。
子どもたちは膝を抱え、大人たちは煙管を静かに吸いながら、そのときを待っていた。
長老サダが目を閉じて頷くと、
カズハは、ぽつりと口を開いた。
「……あの日、白蛇さまが出てきてくれました」
その一言で、空気がぴたりと止まった。
「黒い大きな獣が、わたしのすぐ前にいたんです。目がつぶれてて、口が……血で、真っ黒で」
声は震えていない。
ただ、丁寧に。
ひとつひとつ、手繰るように、記憶を言葉にしていた。
「動けなくて、足も、声も出なくて……でも、しろいへびが、霧のなかから、すーって出てきたんです」
カズハの指が、焚き火の光をなぞるように空を切る。
「とても長くて、大きくて、目が……静かで、すごく優しくて。わたしのことを、見てた」
誰かが、息を飲む音がした。
カズハは、焚き火を見つめながら続ける。
「へびは、獣に向かっていきました。何度も、何度も。すっごく強かった。でも、痛そうで……血も出てて……」
「それでも、最後までわたしを見てくれて……それで、わたし、叫んだんです」
――「しろへびさま」って。
火が揺れた。
「そうしたら、体が……光ったんです。霧のなかで、ぼうっと白くなって、それで……へびが獣を倒してくれました」
静寂が、再び村を包んだ。
それは「恐れ」ではなく、「理解しようとする沈黙」だった。
言葉が、火のそばで形になった。
それが、“語り”の始まりだった。
「白蛇さまは、神さまなんかじゃないと、わたしは思います」
カズハは、はっきりと言った。
「すごく静かで、怖がってるみたいで……でも、だれかが困ってたら、助けに来てくれるんです」
「だから、わたしは毎日、白蛇さまに“ありがとう”って言いに祠に行きます」
「……それだけです」
その夜、焚き火のまわりにいた者のうち、
誰一人として、言葉を返す者はいなかった。
けれど、翌日から――
祠の供物が増えた。
子どもたちが「白蛇さま」の絵を描くようになった。
「神さまじゃない。でも守ってくれるもの」という言葉が、村の中で自然に定着した。
**
カズハの語りは、まだ「伝承」ではなかった。
けれどそれは、「信じて語られた真実」だった。
それこそが、
のちに“語り部”と呼ばれる者たちの、原初の語りだった。