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白き目覚め  作者: バトレボ
第四章 死知る時、生駆け出す
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角の向こうで鳴るもの

よろしくお願いします

 昼下がり、罫線の上を歩くように動いていたペン先が、ふいに止まった。黒板の文字が薄くにじみ、視界の中心が遠のく。白昼夢は、合図もなくこちら側へ滑り込んでくる。


 ——はっ、はっ、はっ。


 朝と同じ夢だ。今度は近い。曲がり角、掲示板、剥がれかけの赤いポスター。逃げる影が肩越しにこちらを見る。唇が確かに動いた。風にさらわれ、断片だけが耳を掠める。


 「……ま……せ……」


 追いつかれる。角の向こうから影が現れる。背中の皮膚がひやりと冷え、鎖骨の奥が一拍、脈と逆流して跳ねた。椅子の背が遠くで軋み、現実の重力がゆっくり戻る。


 「おい、大丈夫か」


 隣の友人の声に、視界が焦点を取り戻した。


 「平気。ちょっと、目が霞んだだけ」


 口の中に残ったのは、飲みかけの水の金属っぽい味だ。紙コップを握り直しながら息を整える。午後の実習まで、夢の残像は脳の奥に薄いフィルムのように貼りついたまま、黒板の線も刃の角度も、どこか夢の輪郭と二重写しになった。


 チャイムが下り、教室の空気が少し軽くなる。友人が立ち上がり、こっちを見る。


 「今日の放課後も?」


 「うん。いつもどおり」


 それ以上は交わさない。言葉を多く置くと、白昼夢がその隙間に入り込む気がした。


 振るだけ、は案外むずかしい。彼女が見せる型の正確さに近づこうとするほど、余分な力が混じる。要らないものを抜き、残りを残す。それがいちばんの難題だ。


 五限が終わるころには、朝の足音はだいぶ薄まっていた。けれど、完全には消えない。紙の端に残る鉛筆の影のように、視界のどこかにとどまっている。そこに手を伸ばすかどうかは、まだ決めないでおく。決めないでおくことも、ときには決定の一種だ。


 終礼の声が解け、椅子の脚が一斉に床を擦る。友人に片手を上げて合図を送り、鞄を肩に掛ける。白い本は持っていく。


 放課後、訓練場の隅。砂の粒が靴底でやわらかく鳴る。彼女はいつもどおりの拍で横に並び、最初の一振りはそれぞれの呼吸で置く。二本目から、足の置き方だけを合わせる。


 肩を落とし、掌の内で重さの芯をまっすぐ受ける。刃文が薄く呼吸し、切っ先が空の張力を撫でる。炎は上がらない。斬撃は飛ばない。けれど踏み込みの拍は、砂の下の硬さを少しずつ覚えていく。


 「今日はどうでした?」


 彼女が汗の筋を手の甲で拭って訊く。


 「眠かった。でも体は動く」


 他愛ないやり取りが、肩の余分な力をほどいてくれる。彼女が型を見せ、彼が真似る。逆もする。同じ動きなのに、体の内側で波の立ち方が違う。合うときは静かに伸び、合わないときは砂の上で輪郭が崩れる。崩れた輪郭を責めないことも、ここでは学ぶ。


 水を飲む休憩のとき、彼女がふいに言った。


 「今度の休日、出かけます」


 「どこへ?」


 「——あの時計塔。最初に“模倣”の頁が出た場所。もう一度行って、上書きしたいんです。つらいままじゃなくて、いいほうに」


 言葉は迷いながらも真っ直ぐだった。喉の奥で一度だけ躊躇が鳴り、すぐに収まる。


 「ひとりで?」


 「ひとりで」


 彼女は短く笑った。


「誰かと行くと、相手の顔色を見ちゃうから。これは、私の頁の話だから」


 頷く。助言に化けそうな言葉が喉の手前まで来て、そこで止まる。代わりに、柄の手入れの仕方をゆっくり反復して見せた。


 布の当て方、油の伸ばし方、綿の使い方。彼女は真剣な眼で追い、同じ角度をなぞる。できることとできないことの境目が、今日の光でわずかに描き替わった気がする。


 「また明日」


 「また明日」


 訓練を締めると、彼女は汗を拭き、トートを肩にかけて門のほうへ向かった。その背中が角を曲がるまで見送り、彼は鞘に刃を収める。今日の刃は機嫌が良い。重さが手の内の中心に、まっすぐ落ちる。


 門へ向かう途中、鎖骨の奥で白い首飾りがもう一度だけ——リーン、と鳴った。今度ははっきり。細く、澄んだ音だ。


 だがあたりは部活の掛け声と笑い声に満ち、音はすぐ埋もれる。振り返れば器材小屋の影とロープの束、剥げた木枠があるだけ。気配は、気づかれたのを恥じるようにほどけ、風に紛れた。


 「……気のせい、か」


 口にすると楽だ。けれど胸の奥では、朝の夢の足音がまだ続いている。角の向こうで途切れた拍が、こちらの拍とわずかにずれて鳴る。


 寮に戻ってシャワーを浴び、机の端に白い本を置く。表紙は相変わらずの白。指で撫でると紙の繊維が微かに波立つ。


 頁の奥では『亡き友人からの贈り物』『神話との邂逅』の見出しが、光の角度で浮き沈みし、続く行は白いままだ。今日の素振りは、文字にならなくていい。熱は筋と骨の側に置いておく。言葉にしてしまうと、そこに留めておくべき温度が逃げることがある。


 ベッドの端に腰を下ろすと、朝の夢の断片がもう一度立ち上がる。——はっ、はっ、はっ。角を曲がる影。唇の形。「……ま……せ……」。聞き取れない。届かない。届かないことが、やけに現実的だ。


 彼は腹に手を置き、呼吸をゆっくり数える。穴はもうない。けれど、その場所に「捨てない」を置いている限り、足は地面を忘れない。手の平で押さえる温度は、日によって少しずつ違う。今日は、訓練場の砂よりも、部屋の空気よりも、すこしだけ温かい。


 明後日、彼女はひとりで時計塔へ行く。最初の頁を書き換えるために。つらい頁を別の頁に重ね直すために。誰かと共にではなく、自分の速度で。彼はここで振る。


 明日も。炎は上がらないかもしれない。斬撃は飛ばないかもしれない。それでも回数は確かに残り、拍は少しずつ整う。整えることそのものが、こちら側の仕事だ。


 「——また明日」


 小さく呟き、灯りを落とす。暗闇で首飾りは見えない。けれど鈴の余韻は喉の裏に薄く残る。白昼夢が何を言ったのかは、まだ分からない。


 分からないなら、明日も耳を澄ませばいい。分からないまま振るうことと、分かったあとに振るうことは、同じ線の上に置かれるはずだ。


 目を閉じ、足元の砂の感触を思い出す。世界が眠りへ傾く音を聞きながら、刃のない夜をゆっくり通り抜けていく。角の向こうは暗いが、拍はここにある。鈴は静かで、しかし、必要なときにはまた鳴るだろう。



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