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白き目覚め  作者: バトレボ
第四章 死知る時、生駆け出す
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鈴の余韻

よろしくお願いします

 ——はっ、はっ、はっ。


 汗の匂いと、靴底に張り付いた砂のざらつきだけがやけに鮮明で、誰かが角を切って逃げていく。石畳を叩く拍は一定で、追っているのが自分か、追われているのが自分か、判別がつかない。


 影が伸び、息が薄くなり、振り返った横顔が刹那こちらを射る。唇が何かを形づくるが、音にはならない——。


 目が覚めた。天井のしみが、今日だけの地図を描いている。癖になった手が腹に落ちる。穴は、ない。鎖骨へ指を滑らせる。見えるはずのない白い首飾りが、記憶の位置でひやりと居座っている。


 そこまで確かめてから布団を払う。窓を押し上げると、朝の空気は薄く乾いて、昨夜の夢の湿り気だけが皮膚の裏に残った。


 洗面台の水は金属の匂いがした。顔を打ち、水滴の重さで輪郭を確かめる。鏡の中の目は、まだ夢の速度で瞬く。通学の支度をしながら、夢の輪郭をなぞる。


 誰が逃げ、なぜ追われてるのか。自分が逃げ、誰に追われてるのか。黒の縁の冷たさが、指先の裏からゆっくり戻ってくる。


白い袖の少年の声が耳の奥で反響する

——「縁がある」


 慰めではない、繋ぎ直しを促す言い回し。首飾りの鎖をそっと弾く。金具は鳴らないのに、心臓だけが一拍、前へ出た。


 通学路は、いつものはずなのに、色が半歩ずれて見える。角をひとつ曲がるたび、夢の角が内側から重なる。道路の白線、電柱の番号札、朝のパン屋の甘い匂い。耳のどこかで、靴底の拍がわずかに速い。薄雲の切れ目から落ちる光は白く、手の甲の産毛だけをていねいに照らした。


 護語院の門をくぐる。白壁は朝の光でまだ硬く、影は直線だ。門標の新しい文字は、毎朝見ているのに、そのたび薄く違う表情をする。下駄箱の角で友人と目が合う。


「顔、寝てない?」


「まあ、ちょっとな。変な夢を見た」


 並んで教室へ向かう。歩幅をそろえる音が廊下でほどける。


「今日の放課後も?」


「ああ。素振り。彼女と。……進歩は地味だけど、続けてる」


 友人は片眉を上げる。


「地味がいちばんむずいやつ」


「そうだな」


 階段の踊り場の窓から見下ろす校庭では、早くも部活の子がラインを引いている。粉の白さが朝の湿りに濁り、均す手の動きでまた白くなる。世界は、そうやって何度でもやり直す、と他人事みたいに思う。


 席に着く。白い本を机に出す者と出さない者が半々で、表紙の白がそれぞれ違う艶をしている。角の擦れ、栞の位置、薄い指紋。自分のそれは、新しい頁が増えいつも違う顔で横たわる。


 黒板の端には白霧地帯への校外学修見合わせの紙。講義の声ははっきり届くのに、耳の片側が朝の夢の残りに引かれている。チョークが止まるたび、あの足音が小さくよみがえった。


 先生の説明は、語りの帯の結び方についてだった。鎖ではなく帯、ほどける余裕を持て、と黒板に太い線が描かれる。言葉は筋道どおりで、納得の手触りもある。


 けれど、帯の片端を持つ掌の感触が、夢の中の「追う」掌の感触と入れ替わり、意識はときどき、机の木目の向こうへ滑った。


 休み時間、廊下の突き当たりで紙コップの水を飲む。冷たさが喉の皺を一枚ずつ撫でていく。窓の向こう、渡り廊下の手前で彼女が同じクラスの男子と話しているのが見えた。


 男子は壁に肩を預け、片手で鞄のストラップを弄ぶ。彼女はトートを肩にかけたまま、相手の言葉に短く頷く。笑ってはいないが、拒絶でもない。二人の距離は、一歩詰めれば触れてしまう程度に近い。


 そのとき、リーン…

——鎖骨の奥で、白い首飾りが細く鳴った。


 針の先で皮膚に触れられたみたいな、冷たい合図。音は内側から鳴っているのに、耳で聞いた確かさもある。振動は一瞬で、意味だけが置き去りにされた。


 しかし次の瞬間、別棟からの始業ベルが重なり、廊下のざわめきが音の輪郭を洗い流す。友人が肩を軽く叩く。


「おーい、戻るぞ」


「……ああ」


 紙コップを丸め、投入口に落とす。落ちる音が思ったより軽い。振り向いたときには、二人の姿は教室の影に吸い込まれていた。胸のざわめきは一度波打ち、すぐに平らになる。


 いまのは“知らせ”だったのかもしれない、と考える間もなく、チャイムが二度目を告げる。ノートを開く音、椅子が床を擦る音。日常が、こちらの袖を引く。


 午後の講義は、罫線の上をきれいに進んだ。先生の指先が示すところへ視線を送り、必要な言葉だけ写す。余計な空白は作らない。作れば、そこへ何かが入ってくる

——そんな迷信めいた用心が、最近の自分にはある。


黒の縁に触れてから、余白はたしかに形を持った。


 窓の外では白雲がほどけたり結び直されたりして、校舎の白をやわらげる。教室の空気は温度だけ真面目で、眠気は規則正しく巡回してくる。


 机の下では靴紐がほどけ、結び直す動作のあいだに、朝の夢の角がまたひとつ、現実の角と噛み合った。


 

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