白蛇さま
目を開けると、空が見えた。
茜色の空。鳥の声。遠くで誰かの呼ぶ声。
でもそれよりも、先に心に浮かんだのは――
白い光だった。
あれは、夢だったのかもしれない。
けれど、目の前に確かにいた。
霧の中、恐ろしい獣が現れて、動けなくなったわたしの前に――
音もなく滑るように現れた、白く長い、静かな“なにか”。
あの蛇は、私を見た。
本当に、見てくれていた。
逃げようとしていた体を包むように、あの白い体が駆け、獣と戦った。
怖かった。でも、もっと怖かったのは、あの蛇が負けることだった。
わたしは、呼んだ。
「しろへびさま」
そう声に出した。言葉になった瞬間、なにかが変わった気がした。
あの白い姿が、まばゆくなった。
**
目が覚めたとき、祠のそばでわたしは倒れていた。
少し離れた場所に、黒い大きな影が横たわっていたけれど、もう動かなかった。
その横には、誰もいなかった。
村に戻ると、みんなが泣いて迎えてくれた。
でも、私はそれよりも早く、こう言った。
「しろへびさまが……たすけてくれたの」
それを聞いて、大人たちは最初、ぽかんとしていた。
けれど、長老のサダが静かに立ち上がり、焚き火の前に手を合わせた。
「……白蛇さまに、感謝せねばならんな」
それが、すべての始まりだった。
わたしは、何度も語った。
何度も、何度も、火のそばで、川のほとりで、畑の休憩で。
「霧のなかで、白蛇さまがわたしを包んでくれた」
「黒い大きな怪物と戦って、かならず勝ってくれた」
「そして何も言わず、静かに山へ帰っていった」
子どもたちは目を輝かせ、大人たちは深く頷いた。
その夜から、祠の前に置かれる供物の数が、増えた。
祈りの言葉が形になり、白い小さな石像が彫られ、
ついに村の中央に、**“白蛇社”**が建てられた。
誰もが、言うようになった。
「白蛇さまは、この山の守り神」
「祈れば病を退け、獣から救い、豊かな実りをもたらす」
「姿は見えぬが、必ず見ておられる」
それは、もう疑いようのない、**“神話”**になっていた。
けれど、わたしだけが知っている。
白蛇さまは、神様じゃない。
もっと、人間に近い。
もっと、静かで、冷たくて――でも、あたたかかった。
語られることで、白蛇さまが少しずつ“神”になっていく。
それが、どこか苦しそうだった。
だから、わたしは語る。
誇張も、装飾もなく。
白蛇さまが、静かに、ただ人を守るように生きているということを。
それだけは、間違えたくない。
やがて、私の語りは村を出て、隣の里へ、山を越えて、街へ届くことになる。
語られ、繋がれ、やがて――
世界に、“白蛇の神話”が定着していくことになる。
でも、それはまた別の話。