白の頁、見えない絵
よろしくお願いします。
「自分の白い本も、見る?」
言ってから、自分でも唐突だと思った。向かいの彼女は眉をわずかに寄せる。
「……意味わからないけど」
「上級生にも落ちこぼれはいる。笑ってるやつもいる。だから、少なくとも君だけじゃない」
言葉は届かないかもしれない。それでも、机の上にそっと置いておくみたいに続けた。鞄から白い本を取り出し、表紙を親指で撫でる。無地の白
――のはずだった頁が、光の角度を変えた瞬間、薄い浮き彫りみたいに文字を拾った。喉がひゅっと鳴る。
「ん? ページが……あ……る……? なん、で?」
そこに、あるはずのない見出しが二つ、確かに刻まれている。
『亡き友人からの贈り物』――譲り受けた刀の重み。
『神話との邂逅』――黒の縁、白い袖、あの視線。
彼女の瞳がきゅっと細くなる。
「先輩……自慢?」
「違うんだって!」
思わず早口になる。
「いま、初めて見た。自分でも驚いてる」
「私より多いじゃん……」
視線が痛い。言い訳を探すほど、言葉は余計に擦れていくのが分かって、口を閉じた。
――リーン。
鎖骨の奥で、糸を弾くみたいな音がした。白い首飾りが鳴った、としか言いようのない響き。
「今の音は?」
「首飾り、見える? 多分、いまの」
彼女は小さく首を振る。
「何も、ついてない」
見えないものが鳴らした音は、こちらだけの印だ。白い袖の向こうから「ここ」と指し示されたような、澄んだ合図。空気の向きを変えたくて、思いつくままに言った。
「微妙な気持ちにさせた代わり……っていうと変だけど、刀の振り方、教えてくれないかな。刀も模倣できるんでしょ?」
沈黙。彼女の肩が一度だけ落ちる。
「模倣したことは忘れない。でも、私が教えたところで炎は出ないし、一刀で何メートルも斬ることはできないよ」
「それでもいい。亡くなった友人から刀を譲ってもらって、今、振ってるところなんだ」
「……そう、なんだ」
視線の縁が、わずかにやわらぐ。自分の振るう行為と、目の前の先輩の振り方のあいだに“何かが違う”ことを、彼女自身がいちばん知っている。
その形を、他人の体の動きを通して測れるのなら
――届くかもしれない。『神話との邂逅』の文字も、彼女のどこかで引っかかったように見えた。
「分かった。明日の放課後からでもいい?」
「大丈夫。よろしく」
午後の講義は、いつもの速度で進んだ。ノートに線を引く音、椅子の脚が床を擦る音、配られるプリントの乾いた匂い。
ばらばらの記号が「いまここ」に重なって、思考の端を縫い止める。鞄の中の白い本は静かなままなのに、厚紙の内側で浅い呼吸が続いている気配があった。
放課後、訓練場の隅でひとり刀を抜く。譲り受けた刃は、手の内に真っ直ぐ落ち、掌の中心へ重さの芯を置く。角度を半分だけ落とし、踏み込みの拍を短く置く。
振るたび、背中をそっと押す掌の記憶がある。あいつの笑い声ではなく、もっと静かな「見てる」という気配。切っ先が空の張力を撫で、鞘へ戻る音が砂利に吸われる。
宿舎へ戻る途中、ガラスに映った自分の顔は、少しだけ締まって見えた。家に帰ると、母が鍋の蓋を持ち上げている。
「今日はどうだった?」
「――約束をひとつ、してきた。明日から、誰かに教わる」
理由は訊かれなかった。湯気の向こうで、母は黙って頷く。味噌と出汁の匂いが、胸の奥の空洞を温める。
夜。机の上に白い本を置き、表紙を撫でる。さっき見えた二つの見出しは、やはりそこに在る。頁の端を指で持ち上げると、紙の繊維が微かにさざめいた。
書き込まれているのは大きな出来事だけで、日々の細い線はまだ白い余白のほうが多い。
「足りないことを、見つけるところからでいい」
声にしてみる。明日の放課後、彼女と並んで立つ場所がひとつ決まった。模倣という頁の重さ、欠けたところの形、そして自分の中の空洞。どれも一日では埋まらない。芽が出るかどうかも、分からない。
それでも、昨日の自分より一歩すすんだ。黒の縁がすぐ隣にあると知ってから、朝を数えるやり方が変わった。受けたものを、どこに置き、どう返すか。その順番だけは、間違えないように。
灯りを落とす。暗がりで、見えない首飾りが一度だけ光った気がした。眠りの手前で、笑っていた先輩の横顔や、白い袖の手触りや、「模倣」という言葉が静かに重なる。明日の放課後、最初の一振りの重みを想像しながら、そっと目を閉じた。
翌朝、布団のなかでまず腹を撫で、次いで鎖骨に触れる。穴はない。白い首飾りは、やはり見えないのに冷たくそこにいる。玄関で靴紐を結びながら、今日が開かずに過ぎますように、と短く祈る。扉を閉める音は軽く、外気は薄く頬を撫でた。
護語院の門をくぐると、胸の拍が落ち着く。授業の声は昨日と同じ距離で届き、違うのは受け取る側の姿勢だけだ。昼の食堂、窓際の席。彼女は昨日と同じように遠景を見ていた。
「昨日さ……」
席に着いて、言いかけた言葉は途中で止まる。言い訳も、自慢も、慰めもいらない。必要なのは、剣の握りを見せ、握り返されることだけだ。白い本の余白が、目の前の余白と重なるところまで、椅子を引き寄せる。
「放課後、訓練場の隅で」
「うん」
短い返事のなかに、わずかな熱があった。彼女の白い本は一枚の重みを持ち、こちらの本には二つの見出しが灯っている。多い少ないではなく、どちらにも“これから”が残っている。それを確かめるための約束だけが、いまは要る。
午後の校庭を渡る風は軽く、砂の粒を薄く運ぶ。掲示板の端には事務連絡が新しく貼られ、どれも短い文で終わっていた。短い文ほど、骨に入る。だからこそ、長く続く作業は、身体の方へ任せる。受けて、置いて、返す。拍を刻むように、歩幅が整っていく。
日が傾き、影が伸びる。訓練場の隅に並んだ二つの影は、背丈も癖も違うのに、不思議と揃って見えた。まだ語れないものが多すぎる時間帯だ。だが、語れないからこそ、刃の角度と、踏み込みの深さと、息の行き先で話せることがある。
「ここから」
柄を握る位置を示すと、彼女は頷いて模倣する。模倣は欠点ではない。入口だ。入口の先で、どこに自分の足跡を刻むかを、これから一緒に探す。それだけのことだと思うと、胸の内側で空洞がわずかに狭くなる。
見えない首飾りは沈黙を保ったまま、鎖骨のところで冷たく光っている。白い本は、まだ多くを語らない。けれど、頁の奥底で、音のない小さな頁めくりがひとつ起きた
――そう信じられるだけの余白が、ふたりの間にゆっくり整っていくのが分かった。




