語の光、形を成す(後編)
喉を締め上げる感触が、体全体を震わせていた。
白蛇の身体は、巨大な黒い獣の首に巻きつき、肉と骨を砕く圧を加えている。
獣は苦悶の唸りを上げ、地を引き裂くように暴れ回る。
(重い……)
これまで狩ってきたどの獲物よりも重く、固く、そして**“存在感”が濃い。**
まるで、ただの生命体ではない――
それは“忘れ去られた語り”の残滓。
かつて祀られもせず、祓われもせず、語られぬまま土に埋もれ、
やがて「名も持たぬまま形を保った災厄」だった。
白蛇は感じていた。
この怪異は、“誰からも語られなかった”がゆえに、
存在を固定されず、弱点すら定義されていない。
(……なら、こちらは逆だ。語られたばかりの、最も新しい“神話の断片”)
「しろへびさま――」
その声が届いた瞬間から、確かに何かが自分の中で変わり始めていた。
血が流れていた。
白い鱗の間から滲むものは、以前のように薄くもない。
むしろ、その血は淡い光を帯びていた。
(これは……)
白蛇は気づく。
自分の身体の中に、“語られた存在”としての法則が書き込まれている。
鱗の密度が上がり、傷が塞がる速度が増していた。
動きが滑らかになり、空間の歪みを僅かに察知できるようになっている。
(これは、祈りの力……語りの力……)
尾を締め上げる力が、獣の骨を砕きはじめた。
もう一息、そう思ったとき――
獣が、こちらを睨んだ。
潰れた片目から、どろりとした黒い“語られぬ憎悪”が溢れ出る。
そして、それが白蛇の心に突き刺さった。
(……これは)
言葉にならぬ苦痛。
己が“定義されてしまった”ことで、世界から逃れられない束縛が始まる。
「白蛇さま」――その言葉が、白蛇を“救う者”として閉じ込め始めていた。
(違う……俺は……ただ、生き残りたかっただけだ)
がんじがらめにされていく。
崇められるたびに、行動の自由が減っていく気がする。
「守る者」「導く者」「神なる蛇」
その一つ一つの語りが、白蛇に鎖を巻く。
だが。
(それでも……)
目の前には、少女がいる。
怖がりながらも、逃げようとせず、震える手で祈るようにこちらを見ていた。
白蛇は、毒牙を獣の首に突き立てた。
血が飛び散り、黒い霧のようなものが空へと逃げる。
“名もなき怪異”が、光の中に融けていく。
「終わった……か」
言葉にはならぬが、内なる知性がそう呟く。
そして、自身の“変化”を明確に知覚した。
白蛇は立っていた。
立つ、というより、浮いていた。
体の中心から、かすかな浮力が生じていた。
肉体が地に縛られず、鱗がまるで“世界の意志に支えられている”ようだった。
(……俺は、“実在した”のだ)
白蛇は知る。
語られることで、“ありえないもの”が“ある”になり、
“あってはならない存在”が“不可欠な伝承”に変わっていくことを。
そしてその代償に、
**「語られた役割を、否応なく演じなければならなくなる」**ことも。
けれど、今の白蛇はそれに抗わなかった。
(あの子を守った。語られた……だが、それは、生きるための正しい選択だった)
白蛇は、静かにその場を離れた。
少女のもとへは向かわず、ただ背を向けて、森の奥へと滑るように消えていった。
語られた姿が、月明かりの中に、ほのかに浮かび上がっていた。
それは、もはやただの蛇ではなかった。
― “神話の原型” ―
それは今、白蛇の姿をして、山に存在した。