祈りの前に(前編)
山の天気は、よく変わる。
朝に晴れ渡っていた空は、午後には重く濁り、夕暮れには霧を呼ぶ。
それは神の気まぐれのようで、ただの自然だった。
だが、この日だけは――
霧が、ひどく、重かった。
「カズハがいない!」
山裾の村に、慌ただしい声が響いた。
少女の名を呼ぶ声、懐中に火を灯して山に入ろうとする大人たち、止めようとする老婆。
それらすべてが、夕暮れの光に滲んでいた。
「一人で祠へ行くと言ってたんだ!“白蛇さまにお願いする”って!」
カズハ――村の中でも、ひときわ素直で、ひときわ不思議なことを信じる子だった。
川辺の石に線を引き、「ここは神さまの座るところ」と言っては笑っていた。
長老のサダは、沈黙のまま焚き火の前で瞑想を続けていた。
その背に、誰もが一抹の不安を抱いていた。
カズハは山の祠へ向かっていた。
霧のなかを、小さな足でゆっくりと登っていく。
その手には、祠への供物――干した果実と、白い羽根。
言葉もない。けれど彼女は祈るように、静かに歩いていた。
「おねがい……おとうが治りますように……」
病に伏した父のことを、白蛇さまに祈りたかった。
母はそれを迷信だと叱ったけれど、カズハは信じていた。
祠に着くころ、霧はもう、何も見えないほどに濃くなっていた。
突然だった。
霧の向こうから、重く湿った呼気の音。
地を踏みしめる、ぬちゅ、ぬちゅという音。
「……だれ……?」
カズハが立ち止まると、霧の中から現れたのは、熊ではなかった。
それは、あまりにも大きすぎる、毛の抜け落ちた獣だった。
骨が浮き出たような肩。黒い毛並み。
片目が潰れたその巨体は、まるで飢えが塊になったような悪意を帯びていた。
それは、山の深部から降りてきた“飢えの獣”だった。
長年祠の奥で死にきれず、村人の記憶からも薄れた古の災い。
“語られなくなったもの”が、今――その飢えだけを引きずって現れた。
カズハは、声を出せなかった。
そのとき、霧が割れた。
何かが、風のように地を這い、
獣の喉元を裂くように、弧を描いて飛び込んだ。
白い影――白蛇だった。
獣の爪が振るわれる。
白蛇はそれを紙一重でかわし、獣の背へと這い上がる。
噛みつき、毒を注ごうとするが、皮膚は分厚く、通らない。
(霊力を帯びている……“語られなかった怪異”は、存在の深さが違う)
白蛇の中で、知性が冷静に分析していた。
これは“ただの獣”ではない。
村人に忘れられ、葬られなかった伝承の残り滓――**“無名の怪異”**だった。
白蛇は距離を取る。
だが、獣の動きは異様に速かった。
地を叩き、霧を振り払い、カズハへと迫る。
「やめてぇぇ!」
少女の叫びが、空気を震わせた。
白蛇は跳んだ。
鋭い牙が、獣の目に突き立てられる。
激しい咆哮。振り払われ、白蛇の体が岩に叩きつけられる。
鱗が裂け、白い血が滲んだ。
(……まずい……これは“語られた力”だけでは通じない)
白蛇の知性は叫ぶ。
だが、本能は違っていた。
(殺させるわけには、いかない)
自分の信仰の根になるであろう少女。
今ここで死なせれば、世界から“神として語られる物語”の芽が潰える。
自分が“神になる道”も、この子が“語り部となる運命”も、すべてここで断たれる。
ならば――
「カズハ!」
それは、音にはならなかった。
だが確かに、白蛇の内なる声が、彼女に届いた。
次の瞬間、白蛇は大地を滑るように走った。
体の痛みを無視し、獣の足元に絡みつき、力任せに引き倒す。
その行動に、カズハは目を見開いた。
涙を浮かべ、ただ祈るように、声にならぬ声を呟いた。
「……しろへび、さま……」
白蛇の目が光った。
語られた。
その言葉が、名前が与えられた瞬間――
世界が、白蛇を“認識した”。
霧が、割れた。
空気が変わった。
地面が震え、白蛇の体が、わずかに輝きを放った。
「白蛇様……!」
カズハの言葉がもう一度重なった瞬間――
白蛇の尾が、獣の首を締め上げた。