声なき因果
冷たい霧が、山の肌を這っていた。
夜と朝の境界線で、湿った風が川沿いに流れ、小鳥たちの目覚めをまだ拒むように、木々の間を静かに漂っていた。
白蛇は、岩場の隙間にとぐろを巻き、じっと目を閉じていた。
意識は明瞭だった。
だが、何かが自分の内側で変わり始めている――そんな“感覚”が、はっきりとあった。
(ここ数日……何かが、おかしい)
骨の深部、鱗の内側、神経の網がどこかふわりと緩んだような奇妙な浮遊感。
思考は冴えている。だが、体が、かすかに“変質”している。
以前よりも、音が遠くから聞こえるようになった。
空気の湿度が、皮膚の奥で分子単位に近い感覚で分かる。
そして――
(……時間の流れが、遅く感じる)
それは明らかな異常だった。
目に映る葉の揺れが、ほんの僅かにスローになって見える。
飛ぶ虫の羽音が、鮮明に一拍ずつ聞こえる。
呼吸のリズムが周囲の生き物と一致せず、自分だけが別のリズムに存在しているようだった。
夜になり、村からかすかに太鼓の音が聞こえてきた。
焚火が焚かれ、誰かが語っている。
「白い神の話」だ。
白蛇はすでに、その内容を理解していた。
語られるとき、空気の流れが変わる。
風が山の形を舐め、言葉が空に触れたとき――自分の存在が“補強”される。
それはまるで、重力がわずかに強くなるような、
物理法則にすら微細な皺を刻むような、見えない影響だった。
(“語られる”ことで、力が増している)
白蛇は確信した。
体が以前より硬く、重くなった。
爪のないはずの尾先に、微細な骨質の棘が浮かび始めている。
それは防衛本能の結果ではない。語られた“守護”の力が、形になろうとしていた。
とぐろを解いて、山を下りる。
川の水面を見下ろし、そこに映る自分の姿に、白蛇は目を細めた。
(……これが、俺なのか)
鱗が、わずかに発光していた。
月光でも、反射でもない。
皮膚の奥から、“語られた存在としての霊的圧”が滲み出ていた。
(これは祝福か、呪いか)
白蛇は思った。
語られることで力を得る。
しかし、語られたままの姿に変質していく。
意志とは関係なく、“理想像”として固定されていく危険がある。
もしも今、この体が「凶神」として語られたら?
「滅ぼす神」「裏切りの神」と伝承されたら?
(俺は、そのように変質するのか?)
震えはなかった。
ただ、冷たい思考が、ひとつの仮説を立てる。
(……ならば、“語られすぎてはいけない”)
力を得ることは、生存戦略の一手だ。
だが、その代償が「自由を失うこと」であるなら、白蛇はそれを拒絶せねばならない。
その夜、白蛇は人里に最も近い祠へは向かわなかった。
あえて、何も語られていない谷間――
“誰にも知られていない”岩壁の影に潜んだ。
語られるほど強くなる。
だが、語られない場所にこそ、“自分自身”がある。
白蛇は、誰にも祈られぬ場所で、静かにとぐろを巻いた。
目を閉じ、かすかに震える体内の変化を探る。
(俺は、語られずに、生き延びてみせる)
それが、世界に対する“知性”のささやかな反逆だった。
その頃、村では小さな子どもが石に文字のような模様を刻んでいた。
まだ字を知らぬ幼い手が、ただの蛇の姿に“飾り”を与える。
「白蛇さまは、山にいる」
「白蛇さまは、まもってくれる」
その声が夜風に乗り、谷を越え、山へ届く。
白蛇の耳に届かなくとも、世界は――またひとつ、彼の形を定めようとしていた。




