祀る声
夕暮れ時、山の裾にある小さな集落に、火の明かりが灯りはじめる。
焚火を囲んだ数人の村人が、薪をくべながら、互いの顔をちらりと見合った。
炎に照らされるその目には、ほんの少し、言葉にならぬ不安と興奮が浮かんでいる。
「おい、聞いたか。ウメの孫が、また山犬に追われたらしい」
「けど、助かったそうじゃろ。……なんでも、白い何かが現れて、犬を退けたとか」
「白い、って……あれか。前にわしらが鹿を見つけたときの話。獣が噛んだ跡があったが、妙に整った獲物でのう」
「わしの爺さまが言うとった。昔、山の神が白い姿で現れ、恵みを授けたことがあるって……」
一人が、ふっと息をついた。
その言葉に、皆が黙った。
焚火の火が小さくはぜ、橙色の火の粉が闇に吸い込まれていく。
そこへ、村の長老・サダがゆっくりと現れた。
よれた麻の衣をまとい、背を丸めた姿は年齢を感じさせたが、その目には確かな光が宿っていた。
「山の神は、忘れてはならぬ」
低く、だが通る声で、サダは語り始めた。
「昔々、この山には神がおったそうな。白く、長く、美しきもの。人の言葉は解さぬが、人の善し悪しを見抜く目を持っとった」
「神に試され、良き者は獣を退けられ、悪しき者は谷へと落とされた。そは、人を守りもするが、選びもする存在――」
若者のひとりが、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ、今も、その神が戻ってきたんじゃないか?」
もうひとりが言う。
「そうだ。あの白い影。動きが速すぎて獣とは思えんかった。見られてるような気がした。……けど、不思議と、怖くなかった」
そのとき、誰かがふと立ち上がり、土器の皿に干した山菜を載せ、火のそばの岩の上に置いた。
「……捧げてみる。もし、あれが本当に神なら、きっと見ておるじゃろ」
沈黙。
だが、それは確かな「始まり」だった。
翌朝。
岩の上に置かれた皿は、空になっていた。
山菜は影も形もなく、皿にはわずかな水滴が残されていた。
誰が取ったかもわからない。
だが、誰もその皿に手を出していないのは確かだった。
「……召し上がったんじゃろう」
「拝むしかない……」
その日、祠跡に花が手向けられ、鳥の羽が結ばれ、骨のかけらが丁寧に並べられた。
村の子が、木の枝で蛇を模した像を作り、岩の上に置いた。
> それはまだ“信仰”ではなかった。
けれど確かに、“尊ぶ”という意志の現れだった。
その夜、白蛇は祠の裏手に身をひそめ、誰にも知られぬままに人々の所作を見ていた。
言葉はなくとも、火の匂い、動き、捧げる手の震えから――
そこに恐怖ではなく、敬意があることを、確かに感じ取っていた。
(……これが、“語られる”ということか)
白蛇は思う。
(語りは形を持つ。形は記憶となり、やがて力へ変わる)
ほんの少し、鱗が光を放った。
神ではない。
だが、神になろうとする理性は、着実にその道を歩み始めていた。
山の村の端に、小さな“言葉”が残された。
「白きもの、山を守りたもう神なり」
「姿見えずとも、祠に宿る」
「祈りし者は、恵まれ、穢す者は、その命、消える」
それがやがて「白蛇様」の第一の伝承として、時を越えて語られていくことになる。
だがこのとき、人々も白蛇も、まだ知らなかった。
語ることが、どれほど世界を歪めるのかを――
そして、その“偶像”が、どこまで現実を侵食していくのかを。