知性、囁く
山は静かだった。
太古の眠りをいまだに続けるような、湿った空気が木々の間を漂い、枝葉の影が陽の光を分解して揺れている。
土の匂いは濃く、風は重く、空を裂くような音もなければ、煙すら流れてこない。
白蛇は、斜面の岩陰にとぐろを巻いていた。
その身体は地に溶けるようにしなやかで、陽光を反射するたび、どこかこの地の生き物とは思えない透明感を放っていた。
だが、身体の奥に宿る意識は、遥か未来から流れ着いた違物――現代人の思考の残滓だった。
(この身体は……生物的に異常だ。寒さも、飢えも、ほとんど感じない。感覚器官が拡張してる……いや、明らかに“進化”してる)
白蛇の目が、風に揺れる枝の奥、遠くの獣道をじっと見据える。
(生きる。俺は……生き延びなければならない)
それはこの新たな命が得た、最初にして唯一の「目的」だった。
そして同時に、それは“知性”が主導した最初の「命令」でもあった。
白蛇はまず、縄張りを選んだ。
山の中腹にある岩場――地熱がわずかに感じられ、霧が下草に溜まって動物の匂いを撹乱する。
近くには細い支流が流れていて、そこから下れば、山裾に続く村がある。
人間の生活域に近い。だが、直接は干渉しない絶妙な距離。
獣の通り道から少し外れたその一角に、白蛇は身を置いた。
それはまるで、**防衛と補給を両立した“軍事拠点”**のようだった。
蛇という動物の本能を超えた、地勢判断と戦略的選択だった。
(獲物は、川下に行けば狩れる。匂いは風が運んでくる。上流の水場を確保すれば……人間の生活にも干渉できる)
白蛇は、川を下った先の村に目を向けた。
そこには小さな田畑があり、人々が石包丁で草を刈り、土器で水を運び、焚き火で夜を凌いでいた。
(あれが“人間”か……俺が、かつて属していた種)
だが、彼らは“それ”のことを知らない。
蛇に知性が宿っているなどとは、思いもしないだろう。
下手に姿を見せれば、恐れられ、駆逐される。祀られるよりも先に、斬られるだろう。
(恐怖は……火を呼ぶ。俺のような異形は、火で焼かれて終わる)
> 「では、恐れられてはならない。むしろ、“語られる”ことで存在価値を得るべきだ」
その声は、自らの中にある“何か”がそうささやいた。
記憶の奥底――都市に生きていた頃に読んだ神話学、民俗学の片鱗だったのかもしれない。
数日後。白蛇は行動を開始した。
まず、狩りを行う。山を越え、人の領域とは外れた深い森で野獣を狩る。
それを噛み殺し、動かなくなった小鹿や狸を、村の外れ――人がたまに通る山道の近くへ**“置いていく”**。
獲物の血を少し舐め、己の匂いを残す。だが、明らかに“狩りの痕跡”がわかるように配慮する。
(人が見ればこう思う。「これは神の施しだ」と)
彼は「攻撃されない方法」を選ばなかった。
「崇められる方法」を、選んだのだ。
次に、川に行った。
村へと流れる源流の岩場に、小さな蛇のとぐろを模した形に小石を並べた。
近くに羽根と骨を組み合わせて“結界”のような模様を作る。
あくまで自然物を使い、偶然か神意か判断がつかない程度の装飾。
それは**「神域の演出」**だった。
やがて、村の中で奇妙な話が広がり始めた。
「昨日、山道に倒れていた鹿を拾ったら、まるで祀り物のようだった」
「子どもが川で滑って流されそうになったが、不思議と岸に浮かび上がった」
「白い影を見た。風のように滑っていた。獣ではなかった……」
火を囲む夜の語らいのなかに、**“白いもの”**の話が混ざり始める。
それはまだ曖昧で、不確かで、名前すら持たない存在。
だが、「語られた」という事実が、白蛇の存在をこの世界に**“認知させた”**瞬間だった。
白蛇はそれを、風のにおいと空気の振動で感じ取っていた。
村の中で語られる言葉。
自分を示す“記号”が、世界の中で確立され始めている。
(語られた……)
その瞬間、白蛇の身体にわずかな異変が起きた。
内側から、ひとつの“熱”が湧き上がる。
生理的な代謝とは違う。細胞がわずかに輝きを帯び、鱗がわずかに硬質化する。
(これは――信仰の力か)
誰にも見られず、誰にも知られずにあった存在が、
「存在する」と語られることで**“実在性”を得る**。
語られることで、力が現実に影響を与え始める。
白蛇は、ただひとつの答えに至った。
> 「俺は、神になる。だがそれは、生き延びるための“戦略”にすぎない」
彼の神性は、奇跡ではなかった。
戦術だった。
**語られ、存在し、生き残るための、現代知性の“解”**だった。
その夜、白蛇は村から吹き上がる焚火の煙を、山の上から眺めていた。
遠く、かすかに、老人たちが話す声が風に乗って届く。
「……あの白いものは、守り神かもしれんのう」
白蛇の眼が細くなった。
語られ始めた。
神話が、始まった。
そしてその神話の主は、誰よりも理性を持った、
語られずに生き続ける“世界のバグ”――白蛇だった。