語の内と外
静かに降る霧が、山肌にたゆたい、
白蛇は一枚の枯れ葉すらも乱さぬように、岩棚の上に身を横たえていた。
白蛇となって幾年月。
記憶の底で人の声が泡のように浮かび、消える。
気がつけば、この山で十数年――いや、それ以上の時が流れていた。
そのあいだ、白蛇は“動かずして”成長していた。
何が起きているのか、完全にはわからない。
ただ一つ確かなのは――
己が“かつての白蛇”ではないということだった。
風が吹いた。
それだけで、木々の葉が震える場所と、震えない場所が“感覚”として分かる。
地中の根が、水脈に沿って伸びる音。
社で焚かれた香の匂いが、風に乗って霧の奥へ流れ込んでくる。
(……俺は、“ここ”を感じている)
目で見ずとも、空を飛ばずとも、
この山の川筋、草の芽吹き、
さらには、村人が祈る社の様子すら――まるで“自身の身体の内側”のように、把握できてしまう。
(いつから、こうなった?)
最初は、傷の癒えが早くなったことに気づいた。
次に、遠くの音が聞こえるようになった。
風の匂いが明確に“誰のものか”を教えてくれるようになった。
やがて、目を閉じていても社の気配が伝わり、
ついには、社での儀式の祈りすら、脳裏に“響く”ようになった。
今日もまた一人、通過の儀式を終えた子供の祈りが、
社から山へ、そして白蛇の脳裏にまで届いた。
「白蛇さま、ありがとうございます。
これからも、見ていてください」
その言葉は、耳ではなく、魂に直接触れるような響きとして届く。
(これは……祈りなのか? いや、“認識”か?)
何かが白蛇という存在を定めようとしている。
輪郭を与え、性質を刻み、力を流し込んでいる。
白蛇は知らず知らずのうちに、
“ただの白蛇”から、“語られた神”へと変容していた。
その変化は、縄張りにも表れていた。
かつては生存のために選び取った、
山の上流、獣も近寄らぬ神域の奥――
今ではその領域全体が、自身の“意志”で操作できる空間のように思える。
一度、興味本位で意識を広げてみたことがあった。
すると、足元の小石が転がり、
遠くの獣が振り返り、
祠の鈴が一瞬だけ微かに震えた。
(……動かした? いや、“呼応”したのか?)
この神域は、どうやら“語られる白蛇”に呼応している。
白蛇自身が、意図せずして神域の“心臓”となり、
祈りと語りを中心に、領域が呼吸するようになっているのだ。
(俺は……ただ、生き延びたかっただけだ)
生きるために、村に害を与えず、
祠の近くに残り物を置いて恩を売り、
恐怖ではなく畏怖に包まれる立ち位置を選んだ。
だが、十年を超え、祈りが積み重なるうちに、
白蛇の存在そのものが“語りに定着”してしまった。
そして今、
自身の姿を模した神像が社に祀られ、
社の神域が“生まれた子に変化を与える場所”になっていることさえ知覚している。
それでも、白蛇自身は“完全には理解できていなかった”。
**
(俺が、変わってきているのは……なぜだ?
この力は、どこからきた?
どうして、言葉が“届く”ようになった?)
**
恐れはない。
ただ、底知れぬ“奇妙な感覚”が残る。
自身が、自身でありながら、自身でないものへと向かっているような違和感。
その時だった。
神域の端――“祈りの届かぬ場所”に、
一瞬だけ、ぴたりと風が止まった。
空間が、ひと息ぶんだけ“死んだ”。
何かが、こちらを見ていた。
音はない。
匂いもない。
ただ、そこに“名前のない意志”が存在していた。
白蛇は、即座に霧に溶け、気配を消す。
(……なんだ、あれは)
それは、一。
ただの“一”の存在。
だが、白蛇にとっては、
まるで己の輪郭を“否定するような存在”に感じられた。
何も語られず、何も祈られず、
誰の言葉にも現れたことのない、影のような異形。
(この山に……あんなものが、いたのか?)
その存在は、しばらく神域の外にとどまり、
やがて、音もなく霧の向こうへと消えていった。
しかし、白蛇の身体には、
まるで蛇の皮に逆鱗を撫でられたような寒気が残っていた。
(俺だけが、感じ取ったのか……?)
誰も気づかない。
誰も語らない。
だが、確かに“在った”。
白蛇は静かに身を丸めた。
霧が深まり、風が戻る。
語られることで己が強くなる。
だが、それに比例して、語られないものもまた、何かを孕み始めている。
ただ、それが何かはわからない。
どこから来たのかも、なぜ知覚できたのかも。
白蛇は、それを“偶然”として、霧の奥へ意識を沈めた。
(……まだ、考えるな。今は、動くときじゃない)
語られる神。
知られぬ影。
その二つがこの世界に“並び立ち始めた”ことに、
白蛇自身は、まだ完全には気づいていなかった。
ただ、霧の向こうに、
次に語られる者と、
語られずに残る何かが、
静かに世界を見つめ返しているだけだった。




