蛇の印
秋の風が山を下り、村の木々を橙と朱に染め始めていた。
白蛇社では、今朝から準備が進められていた。
今日は、村の子供テンの**《十歳の儀》**の日――
彼の通過の儀式は、村にとってひとつの“祭事”でもあった。
カズハは、神衣と呼ばれる白衣をまとい、
社の祭壇に香を焚いていた。
「神語にて、語り始めましょう」
静かな声が、社の内に響く。
子どもテンは、緊張した面持ちで、両親の前に膝をついている。
社の奥では、村の者たちが輪を描くように座っていた。
さらにその外には、隣村から来た客人や、商人、若い巫女見習いもいる。
通過の儀は、今や村を越えて注目されるようになっていた。
カズハは、巻物を広げ、
テンの十年の物語を語り始めた。
「この子、テンは……」
幼くして山の気配を読み、
仲間を獣から守り、
言葉少なだが誰よりも真面目な性を持ち、
白蛇さまへの祈りを欠かさぬ、
誇り高きこの村の子。
語りが深まるごとに、社の空気が静まり返っていく。
香の煙が、ゆらり、ゆらりと昇る。
誰もが、テンの“物語”に引き込まれていた。
カズハが、最後の文を読み上げる。
「――よってこの日をもって、テンは、
白蛇さまに認められし命とし、
村の一員として、語りの下に歩まん」
そのときだった。
テンの背が、わずかに震えた。
息を呑む音が社内に満ちる。
テンの首筋に、白い光の鱗模様が浮かび上がっていた。
それはまるで、光が肌の下に宿ったかのように、淡く美しく輝いていた。
「……!」
テンが目を上げると、その瞳――
左の瞳が、縦長の蛇のような瞳孔に変化していた。
「……テン?」
母親の声が震える。
だが、テン本人は痛がる様子も苦しむ様子もない。
ただ、少し戸惑い、
不思議そうに自分の手を見つめていた。
「なんか……体が、軽い」
その声は、いつもより澄んでいた。
外の村から来た者たちがざわめき始める。
「見たか? 目が……蛇の……!」
「まさか、本当に、神の血を……?」
「これは、神通か? それとも……呪い……?」
「静まれ」
カズハの声が、社内を叩いた。
「この子は、語られし者。
白蛇さまに見守られ、育った村の子です」
「変わったのではない。
ただ“現れた”のです――語りが、血を照らしたのです」
沈黙が戻る。
テンの両親は、静かに子を抱き寄せた。
恐れではない。
むしろ、その目には――誇りと、畏敬が宿っていた。
カズハは祭壇に向かい、祈りを捧げた。
(白蛇さま……これは、あなたの意思ですか)
そのとき、社の奥――
御神木の根元から、淡く霧が立ちのぼったように見えた。
一瞬だけ、誰かの視線が山の奥から届いたような気配。
その夜、村ではささやかに祝宴が開かれた。
テンは輪の中心で、あどけない笑顔を浮かべていた。
だが外から来た者の中には、
村を早々に後にした者もいた。
「これは、異様だ」
「神の加護かもしれんが……この村は、もう“人の村”ではない」
それでも、村の者は語るのをやめなかった。
「テンの目は、白蛇さまが見てくれている証」
「神の目を借りる子だ」
「強く、やさしい子になる」
だが、村の奥――
カズハは社に一人で戻り、火を灯して座っていた。
「……これが、始まりなのですね」
自分の“語り”が、子どもの身体に変化を与えた。
それは、もう偶然や祝福ではない。
明確に、語りが血肉を染めている。
(私たちは、変わっていく。
神域に棲むものとして)
彼女の胸に浮かんだのは、
喜びでも悲しみでもない。
ただ、重みを持った“覚悟”だった。
そして山の奥――
白蛇は、静かに目を開けていた。
「……語られたことが、現実になる」
「ならば……俺は、もう“ただの生き物”ではいられないのか」
通過の儀式を経て、
村の子らに“神の因果”が染まり始める。
次に変わるのは、誰か。
そして、村はどこへ行こうとしているのか――
それを知る者は、まだいなかった。




