目覚め
初投稿です
ざあ、ざあ、と水が流れていた。
陽も届かぬ森の奥。苔と腐葉の香りが地を這い、どこかにひそむ命の気配が、湿った風に乗って肌を撫でてくる。鳥の鳴き声もせず、風が草葉を揺らす音と、小川のせせらぎだけが耳に届いていた。
そこで、“それ”は目を覚ました。
乾いた瞼が音もなく開く。
瞳は細く長く、縦に裂けた瞳孔は、日差しに敏感に反応して光を遮る。
冷たい石の上、滑るように身体が持ち上がった。白い鱗が陽の光に反射し、微かに虹色の光を纏って揺れる。
それは、白蛇だった。
だが、ただの蛇ではない。
目覚めの直後に訪れたのは、本能ではなく、言葉だった。
(……ここはどこだ?)
言葉。だが声は出ていない。
体内に存在する何かが、明確な“問い”を投げかけていた。
(……なんで、蛇になってるんだ……?)
視界が定まる。草葉の隙間、倒れかけた木の根、山の斜面に伸びる獣道――
すべてが見慣れない。だが、一部は見慣れていた。
“見慣れていた”という感覚。
だが記憶は、空っぽだった。
東京の夜景、エレベーターの音、コンクリートに跳ねる雨の音――
そんな“断片”が、ふと浮かんではすぐに沈む。
(人間だった……気がする)
(会社に……通ってた? 満員電車。電灯。スマホ……)
(死んだんだ……たぶん)
その瞬間、自分の姿が意識に浮かんだ。
蛇――しかも、異様なまでに白く、艶やかで、大きい。
人の腕ほどもある胴体。肌理の細かい鱗が、太陽の下でかすかに揺らめく。
(どうして、こんな姿で……)
身体は異様にしなやかだった。関節も骨もなく、まるで空を滑る水のように移動できる。
地面の温度、空気の湿度、草の匂い――すべてが肌から直接感じられる。
それは、かつての人間としての感覚とはまったく異なる“生”だった。
(まず……動ける。痛みもない。生きてる、ってことか……)
(なら、何をすべきか?)
脳裏に浮かんだのは、ただ一つの答えだった。
> 「生き延びろ。」
その声は、誰のものでもない。
だが、“それ”は明確に知っていた。
この世界が自分にとって危険で、未知で、だからこそ――生き残らなければならないと。
森を這う。
白蛇は、まず冷たい水を避けるようにして、湿った岩場を登った。
そこは山の中腹。陽の当たる斜面に、草木がほどよく開けた隙間がある。
地熱がわずかに残る岩の隙間に身体を収め、とぐろを巻く。
ここが、縄張りの起点になる。
安全、かつ、見晴らしがいい。水場にも近く、獲物の匂いも届く。
獣道が三本交わる場所――この地で生き残るには最適の条件だった。
この判断力は、明らかに蛇のものではなかった。
(“ここを拠点にして、川を下れば――人間がいる”)
その予感は、なぜか確信に近かった。
一日が終わり、夜が訪れる。
満月が雲間に覗き、白蛇の身体に淡い光を投げかけた。
蛇は静かにとぐろを巻いたまま、周囲の音に耳を澄ませていた。
そのとき、斜面の下で、葉の擦れる音がした。
“それ”は動かず、ただ舌先を出して風を味わう。
獣の匂いが近づいてくる。
細く、乾いた咆哮。二つの瞳が闇の中に光った。
それは野犬だった。飢えている。体格は中型。
噛みつかれれば致命傷にもなりうる。
だが、白蛇は逃げなかった。
> 「恐れるな。知性は、生き延びる術を知っている」
内なる声が、再びささやく。
白蛇は一気に跳ねた。
距離を詰め、一閃。
獣の喉元に牙が突き立つ。瞬間、体内から送り出された毒が、相手の神経を焼き切った。
犬は呻き声を上げる間もなく、崩れ落ちた。
その場には、白蛇の吐息と、血の匂いだけが残った。
(……戦える。いや、“殺せる”)
それは、蛇としての本能ではなく、人としての判断だった。
夜が明けるころ。
白蛇は倒れた獣の死骸を、斜面の下に引きずって落とした。
(見つけるだろう、あの村の人間が。偶然の供物として……)
彼は、蛇でありながら、“神話の土台”を築こうとしていた。
それは誰に命じられたわけでもない。
ただ、“生き延びる”ために必要な戦略だった。
――世界のどこかに、白蛇の神話が始まった音が、ひとつ。
小さく、静かに、鐘のように鳴った気がした。
こうして、“白蛇”は、
神にもならず、人にも戻らず、
語られないままに始まる伝説の中心となっていく。
だがそのとき、彼はまだ知らなかった。
この行動がやがて、世界の構造すら揺るがす因果逆転の最初の一滴になることを――。




