其之二
二
七草粥を食べる頃になると、正月気分は薄れ、町家の商売も平生に戻る。
九日は武兵衛が月行事として、御納屋に詰める当番であった。
「昨夜は上野から湯島にかけて火事があったが、大事にならずに済んで良かった」
御賄所の役人と世間話をすると、帳簿を眺めた。軽く、息を吐く。
一昨日、お香の住まいへ行ったが留守だった。
姿が見えなくてヒヤリとしたが、「御物師」の仕事で出掛けていた。
針仕事は得意だったが、いつの間にか大店の奥で縫い物をする仕事を見つけていたとは。
――俺に世話を懸けねえようにって、気を遣いやがって。さすがは権助の妹だ……。
だが、武兵衛も引き下がる訳にはいかない。命の恩人である権助にお香の行く末を頼まれている。
だから、世話をしてもらっているお末婆さんに金を渡して、本所から戻った。
「お香も十八歳だ……。そろそろ、良い相手を探してやらなきゃいけねえや」
ふらっと、甚兵衛が行事部屋へ入って来た。明日の当番である。
「御城からの納魚の帳面を見に来た。……どうせ大奥の女は贅沢三昧しているのだろうが」
武兵衛は、御賄所から届いた、翌日に納める魚の名簿を見せた。
「いや、思いの外、地味だぜ。……何か願掛精進でもしているのかねえ」
「御城へ早馬が駆け込んだとか……。上方の情勢が怪しくなってきたのではないか」
明日、納める魚を覚えると、甚兵衛は台所へ向かった。武兵衛も従いて行く。
台所は、さながら小売りの魚屋か料理茶屋のような趣きで、奥には生簀が備えられていた。急な魚の要求に応えられるように、少数ではあるが、高級魚を貯めてある。
焼き台や蒲鉾台もあり、大漁時には納めきれない魚を捌いて、蒲鉾を作る。
「台所の生簀の鯛は、まだ活き活きしている。明日の納魚は、これで足りるな」
御納屋は、嘗て活鯛屋敷と称した。それぐらい、御城では鯛が好まれている。
武兵衛は二人きりでもあり、思い切って誘うことにした。
「なあ、十一日の夕刻は空いているかえ。浮世小路の百川で、一席、設けたいのだが」
甚兵衛は生簀から振り返った。呆れ顔になっている。
「……武兵衛さん。萬吉を招くために、俺を出汁に使おうとしているだろう」
見抜かれていた。だが、引くわけには行かない。ここは繕うよりも腹を割ろうと決めた。
「萬吉の歌は絶品だろ。ちょっと聴きたいだけなんだ。浮気なんかじゃねえんだよ。甚兵衛さんとなら、お艶も信用するからさ。ここは一つ、頼むぜ。なあ……」
手を合わせた。
すると、甚兵衛は息を吐いてから、微苦笑した。
「十一日ですな。……分かりましたよ、百川の料理は好きだから。付き合いましょう」
武兵衛は月行事の仕事を終えると、相模屋へ帰った。お艶を見つけて、すぐに告げた。
「甚兵衛さんから何か相談があるというのだよ。十一日は百川へ行くことになった」
印袢纏を羽織り、帳場に詰めていたお艶は、不快な様子もなく、軽く頷いた。
「そうかい。甚兵衛さんが一緒に行くなら、大丈夫ね。……魚河岸一、お堅い人だもの」
甚兵衛とお艶は魚河岸で育った幼馴染みである。武兵衛よりも、気心が知れた間柄だ。
武兵衛は改めて甚兵衛を選んで良かった、と胸を撫で下ろした。
そっと店を出ると、三井呉服店を通り過ぎて、同じ呉服を扱う恵比寿屋へ行き、衣装を誂えるための切手(引換券)を求める。
これで、萬吉への手土産の支度は調った。
萬吉は美しさだけでなく歌舞が達者だ。
故に、女芸者としての意気地は、新吉原や柳橋の女芸者にも引けを取らない。
また、贔屓の客に事欠かず、金に困っていないため、世話になっている旦那もいない。
武兵衛には、そうした金城鉄壁なる女にそそられる癖がある。
「俺ァ、萬吉に溺れるつもりはねえ。これは房事とは係わりのねえ、粋な遊びなんだ」
自らに言い聞かせながら、十一日の手筈をつけるため、浮世小路の百川へ向かった。
浮世小路ではなく、小路と称するのは、この小路に居を構えていた町年寄の喜多村家が金沢の出身ゆえ、加賀流に読んだことに由来する。
百川楼は、安永年間に卓袱料理の店として始まった。
だが、近所の口の肥えた魚河岸衆に愛され、新鮮な魚を使った料理の味を鍛えていくうちに、いつしか、魚料理で名を上げた。
蜀山人や小林一茶、歌川一門に葛飾北斎、頼山陽、伊能忠敬等、並みいる文人が集まる名店となり、大名家や御公儀の御用も務めてきた。
日米和親条約の調印時の饗応料理を任され、亜米利加使節一行へ日本料理を饗した過去もある。
だからと言って、八百膳のような破格の高級料理茶屋ではなく、日本橋の粋に育まれた、気取りのない名店であった。
女将は武兵衛を見るなり、驚いて、頭を下げた。
「わざわざ相模屋の旦那がお越しになるなんて。……十一日は、どうぞお任せ下さいまし」
「甚兵衛さんと二人だから酒肴料理で。萬吉を招いておいてくれや。くれぐれもよしなに」
奥からは、仕込み中なのか、庖丁の音がトントンと勢い良く、響いてきた。
そこへ百川の主人、茂左衛門がやって来る。
「これは相模屋の。魚河岸の皆さんには、いつも御贔屓にしていただきまして」
「養子にもらった寅太郎さん。歌川広重の三代目を継がれたそうで。拝見しましたぜ、三枚綴りの新作『横浜商館之図』。横浜へ旅した気になったよ。良い絵師になんなすったね」
茂左衛門は我が事のように喜び、照れながら、頭を掻いた。
「広重などと大看板を背負うほどの腕は、まだござんせん。ですがね、口幅ったいことを申し上げるようですが、……義父の眼から見ても、筋は良いように存じます」
「俺もそう思う。だが、百川を継ぐ人がいなくなっちまって、これから、どうなさる」
「後継探しは急がぬつもりです。料理茶屋がいつまで続けていかれるか、分かりませんし」
百川ぐらいになれば、幾らでも時勢を見極めるだけの種(情報)は手に入るであろう。
恐らく、公方様がいない、その先の予想もついているのだ。武兵衛は黙って頷いた。
「お互いに、天下泰平でなくては、儲からねえ商売だものな……」
十一日の前金を置くと、百川を出た。
浮世小路から西堀留川へ歩き、右手にある芽吹稲荷に手を合わせる。
この稲荷には太田道灌、東照大権現(神君)が祭られていた。昔は富籤で賑わった、日本橋の名物の一つだ。
「大権現様、天下の泰平をお守り下さいまし。どうか……頼みましたぜ」
伊勢町河岸通りを歩いていると、江戸橋のほうから、臨時廻の遠藤定三郎がやって来る。
「聞いたか、武兵衛。……上方で戦争だそうだ。三日から伏見でおっ始まったと聞いた。それも、当方の官軍が大勝利だとの噂で持ちきりだぜ」
「大勝利ですと。そいつは目出度い。まぁ、当たり前でござんすけどねえ」
芽吹稲荷に願を掛けたばかりで、もう叶えられたかと、驚きながらも嬉しかった。
「年末に御奉行様が薩賊の御心労で急にお亡くなりになって以来、御奉行所もずっと気無精だった。久々に皆で明るく笑えて、肩が軽くなるような心持ちになったぜ」
「大勝利とは正月から縁起が良いや。さっそく魚河岸衆にも披露しておきまさ」
「それは、すでに俺がやっておいた。御納屋に甚兵衛と佐兵衛がおったからのう」
悪戯した童のように舌をペロッと出すと、定三郎は急ぎ足で去って行った。
恐らくは、見廻る町の彼方此方で、大勝利の噂を触れ廻って歩くのだろう。
「祝事が増えると鯛が売れるな。木場の生簀から、江戸橋に少し移しておくか」
肴問屋の主人の顔に戻り、武兵衛は佐兵衛らに相談すべく、御納屋へ急いだ。