第二章 魚河岸義勇軍、創設 其之一
第二章 魚河岸義勇軍、創設
一
慶応戊辰四年の正月は平穏かつ、賑やかに過ぎていった。
道では羽子板の羽根の音が響き、三河万歳が新年を言祝いで、家々を廻っている。
魚河岸の各肴問屋は三日が過ぎると、商売が暇になる午後に、蔵に隠しておいた大紙鳶を出す。軽子や手代、仲買人の若い衆が掲げて、他の町へ勝負に出掛けた。
「町人相手じゃ、つまらねえや。ちょいと派手に武士と喧嘩しようぜ」
血の気の多い魚河岸衆は、わざと旗本屋敷の多い町へ出向き、武家の大紙鳶を倒しに行く。武家が糸を絡ませ、勝負に負けると、足軽衆が門から出てきて、本当の喧嘩になる。 武家を殴れる好機など、滅多にないから、武兵衛は必ず加わった。
だが、慶応四年の武兵衛は江戸橋の袂で、春の霞んだ空を眺め、煙草を喫っている。
「……おや、武兵衛兄ィ。今年は大紙鳶揚げに出掛けねえんですかい」
仲買人の平助が残念そうに呟いた。店の外では、武兵衛兄ィと呼ばれていた。
「ほら、浜町の武家町を見てごらん。何処の屋敷も大紙鳶を揚げてねえんだ。これじゃ、喧嘩ができねえだろ。……ったく、つまんねえったら、ありゃあしねえよ」
他の屋敷町の空にも大紙鳶が見えない。気味が悪いほどに、静かであった。
――将軍職御辞退って話で、お武家衆は、正月どころじゃねえのだろうか……。
浜町と言えば、三千石の若年寄格大目付、永井玄番頭尚志様の屋敷がある。
気さくな御前様で、武兵衛が魚を持って御膳所へ上がると、世間話に花を咲かせた。
「数年も上方へ行ったきり。また酒を呑みながら、外国や政事の話を教えて頂きてえや」
そこへ、使い軽子の駒蔵と、伊勢屋の荷揚軽子の留吉が仲良くやって来た。
「武兵衛兄ィ、この新しい錦絵(浮世絵)、大人気なんですぜ。見て下せえよ」
三枚綴りの錦絵は、国周の『日千両大江戸賑』。江戸で人気者の三人が描かれている。
「噺家の三遊亭圓朝。新吉原の花魁稲本楼小稲。役者の中村芝翫。間違いなく、この三人は最も勢いがある江戸の看板だ。だが、噺家が役者と肩を並べて錦絵になるとはねえ……」
武兵衛が感心していると、駒蔵が食い入るように、圓朝の髷を見詰めている。
「……この圓朝の髷、変わっていて面白れえですよね。流行りそうだなァ」
近年、講談や落し噺(落語)等の舌耕芸の隆盛は目覚ましく、猿若町の三座の、芝居の人気が食われていた。
景気が悪く、芝居見物が手の届かない贅沢となったことが大きい。
「髪結床へ持って行けよ。圓朝髷、お前に似合うぜ」
武兵衛は笑いながら錦絵を駒蔵へ返すと、ボンヤリと考え始めた。
――小稲花魁の錦絵が出たのか。稲本楼にも御祝いに行かなくちゃなるめえな……。
女郎遊びに行くわけではない。女郎の親代わりとして時折、顔を出さねばならなかった。
武兵衛の場合、稲本楼の花魁小稲の妹分、花鳥の世話をしている。年に幾度か、顔を見に行き、躰を気遣い、切餅(一分銀百枚)を幾つか、小遣いとして置いてくる。
――お艶は、俺が新吉原に行くとなると悋気を起こしやがる。さてどうしたものか……。
本音では、花鳥ではなく、女芸者の萬吉に逢いたいが、そちらも難しかろう。
近くでは羽根突きの音が続いていた。空には大小様々な紙鳶が揚がっている。
「……まあ、こうした穏やかな正月も悪くねえやなあ。昨年の冬、薩摩の夜盗に散々苦しめられたんだ。今年は、荒事をしちゃあなるめえと、お天道様が仰っているのだよ」
武兵衛はまだ冷たいが、春の息吹を感じる江戸の風を、胸一杯に吸い込んだ。
「明日は鏡開きか。甚兵衛さんは、しきりに案じているけれど、何か起こるような気配は全くねえ……。それよか、上野の東照宮へそろそろ献魚に参じなくちゃなるめえな」
目の前に広がっている、長閑な正月の景色を静かな心持ちで見詰めた。




