其之四
四
八月十九日、榎本率いる開陽、回天、蟠龍、千代田の軍艦四隻と、咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美嘉保丸の輸送船四隻が夜陰に紛れて、北へ向かった。
魚河岸衆は、義勇軍が中心となって、干し魚や野菜物を揃え、当日までに全て、各軍艦に送り届けた。
無事に役目を終えた魚河岸衆は、夜更けに魚会所(旧御納屋)へ集まり、皆で祝い酒を楽しんだ。酒の勢いもあって、誰もお喋りが止まらない。
「官軍の船が彷徨いてやがったが、こちとら江戸湊は慣れているから、灯を消しても、艪を漕げる。うまく躱して、御軍艦に届け終わった時には、ざまあ見ろって、胸がスカッとしたぜ」
「まったくだ。一度も見つからねえなんて、俺っち、凄いよなァ」
「祝おう、祝おう。義勇軍の勝利だ」
彼方此方で、何度も乾杯が続いた。
留吉が、義勇軍の総大将と副将の処へ、酒を持って近づいた。
「この先、軍令はどうなるんでしょうか。うちの旦那の女将さんがそろそろ江戸が恋しいって、帰りたがっているんでござんすが」
聞き終えた佐兵衛が口を開いた。
「そうだな。奥州からの軍勢次第なのだが、いつになるかサッパリ分からない。甚兵衛さんは何か友人から聞いているかえ」
「いいえ、どうも奥州での戦況は好くないようで。江戸攻略の目処はまったく立っていないようです」
「だったら、総大将。一度、軍令を解いてみてはどうだろうか」
佐兵衛に言われて、武兵衛も頷いた。
「実は俺も考えていたんですよ。いつまでも妻子を遠くに逃がしている訳にもいかねえですしねえ」
武兵衛は、少し考えてから、言葉を続けた。
「義勇軍の皆に話したいことがあるので。……日を改めて、集まって貰ってもいいですかね」
佐兵衛が酒を呑みながら、応えた。
「武兵衛さんは、総代だけでなく、総大将としても、これからの道を定めなすったのかね」
「ええ、ようやく。覚悟が整いそうなので」
武兵衛は、ずっと、考え続けていた。だが、結論はいつも同じ処に行き着いた。
――俺っちは、何も変わる必要はねえ。このままで好いんだ……。
佐兵衛と甚兵衛が、穏やかに微笑みながら、武兵衛を見守っていた。
「……総大将、総代になって、半年が過ぎましたが。俺が此処までやってこられたのは、副将として支えてくだすった、お二人のお陰です。これからも、よろしくお願いしますが、今までありがとうござんした」
二人は「面白かったよ」と口を揃えて応えると、顔を見合わせて、笑い出した。甚兵衛が笑いながら、言葉を添えた。
「武兵衛さんは、常に新しい景色を見せてくれた。義勇軍も同じだったことだろう。そうした経験は、これからの新しい魚河岸にきっと役立つと思う」
武兵衛は嬉しかった。だが、やはり照れ臭いので、大いに笑った。
「迷惑をかけた覚えしかねえから、そう言ってもらえると、ありがてえや」
その翌日、武兵衛は魚河岸義勇軍だけでなく魚河岸衆に対して、七ツ(午後四時前)に、神田明神に集まるように、総代として、市場中へ達した。
これからの魚市場について、江戸鎮守の明神様の前で、話をしようと決めた。
神田へ出掛けるために、武兵衛は、義勇軍の袢纏を着ていた。そこへ、お艶がやってきて、支度を手伝いながら、ぽつりと呟いた。
「正月から今まで、相模屋武兵衛はへこたれることなく、仁義を通しながら、魚河岸を守るためによく戦ってきた。……わっちにとっては自慢の旦那だよ」
思いがけない言葉が返ってきた。武兵衛は胸が熱くなって、お艶の解れ髪を撫でた。
「苦労を懸けっぱなしで、済まなかったな。……落ち着いたら本気で子作りに励もうぜ」
「お前さんときたら、今年に入って、閨でもずっと心、此処にあらず、だったもんね」
「バレていたか。女房ってのは、ちゃんと見破るもんだな」と武兵衛は豪快に笑った。
「明神様で何を誓うのか知らないが、お前さんのやりたいように好きにしな」
支度が整うと、仏壇に挨拶に行こうとしたが、お梅が今日も官軍を呪う祈りを続けていた。あれだけ大きい声を毎日出しているなら、躰に好いに決まっている。
「……まあ、挨拶は帰ってきてからでいいか」
居間から、帳場を通って、上がり框へ行くと、急にぽん太がやって来て、袖を引いてきた。
「とと、遊ぼう。行かないで、遊ぼうよ」
「どうしたい、ぽん太。すぐに帰ってくるから、大人しく待っていてくれや」
ぽん太を止めに、お香がやって来た。
「ぽん太のお守りまでさせて済まねえな。お香坊は、お腹の子のことを何よりも大切に考えていればいいんだ。それだけで、相模屋は明るくなるんだからな」
武兵衛は、お香の頭を撫でた。
「まったく、お前さんはいつまでたっても、お香を童扱いして。もうじき、おっ母さんになるっていうのに」
お艶の言葉を聞いて、武兵衛は、愉快に笑った。
「……違げえねえな。俺っち、お香と駒蔵に子作りで先を越されたんだものな。はやく、ぽん太に妹か、弟を、持たせてやらなきゃ」
「馬鹿を言ってないで、はやくいってらっしゃい」
お艶に、火打金で火打石を叩いてもらい、火花と共に、武兵衛は、相模屋を出た。
魚市場は既に商いを終えていて、店も閉まっている。
一年前なら、まだ店も開いていて、それなりの賑わいがあった。
江戸府内の人口が減るばかりなので、商いに勢いがない。
武兵衛は、日本橋の真ん中、一番高い場所へ、上ってみた。
確かに人通りは、一年前とは比べものにならないほど、少ない。
寂しさよりも、悔しさが込み上げてきて、ぐっと、拳を握った。
「負けるもんか。必ず、昔の魚河岸に戻してみせる……」
神田明神に着くと、よく分からないが、妙に背中の龍の彫物が疼いた。
久し振りの、ぞわりとした感覚である。
――新しい魚河岸を目指す、その初日だ。俺も久し振りに興奮しているのかもしれねえ。
境内に入ると、義勇軍以外の魚河岸衆も合わせて、二百人以上が集まっていた。
皆の前に立つと、武兵衛は、最初に感謝を述べた。
「品川沖の御軍艦への荷運びは、夜更けだというのに、よくやってくれた。大成功だったぜ。ありがとうな」
見廻すと、何処となく、義勇軍の若い衆の表情に、活気が見えない。
「先ずは皆で、明神様にご挨拶しようか」
皆で、手を合わせてから、武兵衛は、続きを語りかけた。
「海軍さんが消えちまって、遂に江戸には味方の兵士がいなくなった。……俺は奥州からの天兵軍の江戸攻略を諦めてはいねえが、いつになるか分からない。だったら、俺っち江戸の者がこの地でどう生きていくか、ちゃんと考えなくちゃならねえと思う」
武兵衛の言葉に、皆が頷いた。
「恐らくだが、こっからは、インチキな官軍と、俺っち町人の戦いが始まる。血を見るような戦いではなく、暮らしの中で、小さな鬩ぎ合いが続くだろう。なぜなら、俺っちは、奴等に従わねえからさ」
若い衆から「それでこそ、総大将だッ」と歓声があがった。
傍で聞いている佐兵衛や甚兵衛も、噛みしめるように、その先を待った。
「だからこそ、魚河岸義勇軍は魚市場や町人を守るために、これからも続けて行く。……妻子は江戸に戻っていいように、軍令の一部は変更する。俺っちは、平静な暮らしを取り戻して、江戸湊の常夜灯のように、どんと構えて、この江戸で居続けようぜ」
義勇軍から、うおおっと歓声が上がった。留吉が胸を撫で下ろした。
「嗚呼、良かった。明神様に呼び出されたから、てっきり、解散するのかと思ってたぜ」
留吉だけでなく、多くの若い衆が安堵の顔をしている。
「誰が止めるかよ。なにせ、梁山泊だからな。上に逆らってこそだ」
「さすがは〈討ち入り武兵衛〉だッ。それでこそ、俺っちの総大将で、総代だ」
「だが、戦い方は変わって来る。俺の場合、どちらかというと総大将よか、総代としての役目が大きくなっていく。……敢えて問うが、俺が総代で大丈夫かえ」
「何を今更――、頼りになる武兵衛兄ィが、良いに決まっているぜ」
上野戦争以来、腹に溜め込んだモヤモヤを消し去ろうとするが如く、魚河岸衆の歓声は大きかった。少し声を落とすように、武兵衛が両手で制して、紙切れを出した。
「……駿府に移ったお得意様から、注文の依頼が入った。『江戸の味がどうしても忘れられない。佃煮や煮売りの店を駿府に出してくれないものか』――と。魚市場の肴問屋は、この注文に応えようと考えている。駿府に日本橋魚市場の店を出してえ」
新しい商売の話を聞いて、再び歓声が大きくなり、直ぐに「総代、総代」と声が重なっていく。
「徳川様の庇護は消えても、新しい商売の種はこうして義理と恩返しで増えて行くものだ。俺を総代と認めてくれるのなら、これまで以上に張り切るからよ。よろしく頼まァ」
杖を突いた名主の源六は、優しく見守りながら、小さく呟いた。
「武兵衛さんは、本物の総代になんなすったね。……いや、今では江戸そのものだ」
聞いていた佐兵衛と甚兵衛も、ゆっくりと頷いた。
「よし、一本締めと行こうか」
武兵衛は着物を脱がなかった。総大将ならそれでいいが、総代には似合わない。
その代わり、武兵衛の象徴たる、短い鳶口を掲げた。上野戦争以来のことだった。
「これからの日本橋魚市場と義勇軍に幸多かれ」
よおっ、と皆で手を合わせた。勢いのある音が境内に響き渡った。
――俺っちは、無理に変わらなくて良い。世の中の流れに振り回されずに、前に進もう……。
覚悟が固まると、日本橋魚河岸肴問屋行事総代に、漸くなれた気がした。
御神酒を頂戴し、散会した。
武兵衛は、西日が最も美しく見える、明神様の境内の裏の坂道を一人で下りて行った。
秋風が冷たいせいか、背中の龍の彫物の辺りがまたもや、ゾクッとする。
だが、薄桃色と紫色が滲み遇ったような雲間から、沈みゆく太陽が美しく輝いていた。
「なんてぇ清清しい心持ちだ。これが、フレイヘイドってやつなのか……」
誰にも従わなくていい。そう思うと、肩の力が抜けて、心が何処までも軽くなっていく。
雑木林に囲まれた坂道を、ほろ酔いで歩きながら、暮れゆく陽の光を追った。
すると、突然、背中から胸に向かって、熱い何かが貫いた。
振り返ると、武士が立っていて、その手にある大刀が自分に刺さっていた。
「黒門口で、短い鳶口が山内から降ってきて、兄者の首に突き刺さった。……あの日から、ずっと短い鳶口の遣い手を探し回っておった。自ら掲げよって。明神様の御加護じゃ」
武兵衛は咄嗟に腰の鳶口を手にすると、西国言葉の武士の肩を深く切り裂いた。
「ぐッ」と呻くと、刀を武兵衛の躰から抜き、武士は雑木林の中へ走り去った。
坂の途中で崩れるように倒れた武兵衛は、気が遠くなっていくのを感じながら、笑いつつ、呟いた。
「やっぱし、大仏様は見逃してくれなかったかァ。……でも、あの時一矢報いたようなら」
悪くねえか。まあ、江戸が甦る姿を見られねえのは、ちと寂しいがな。
黒門口の敵兵へ鳶口を投げた話は、彰義隊の阿部杖策以外、誰も知らない。
杖策は行方知れずだ。俺の死は謎のままで終わるだろう。
「それでいい。……魚河岸衆には係わりのねえことだ。仇討ちはこれで終いだ」
目の前が朧となるなか、武兵衛には、日本橋川とは違う、美しい川が見えた。
「武兵衛の兄ィ、こっち、こっち。凧揚げに行って、二本差しと派手に喧嘩なんてどうですかえ」
川の向こうで、駒蔵が手を振っている。その隣りには権助も見えた。
「……これが、お迎えってやつか――」
坂の上から、魚河岸衆が、自分の名を呼んで、駆けて来る。
どうやら、独りで死なずに済みそうだ。
「俺は――果報者だ。お迎えは来ているし、見送ってくれる衆にも恵まれて……」
ありがてえな、と思いながら、武兵衛はゆっくりと瞼を閉じた。
了
初めての連載で拙い点がたくさんあったことと存じますが、
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
ラストはなんだか、まだこれだという形になっていないので、
ちょいちょい手直ししそうです。




