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其之三

     三


 駿河府中藩主となった徳川家達が、八月九日に東京を出立し、封地に(おもむ)くと決まった。


 すると、無禄でも、主君と共に、駿府へ移住すると決めた直参衆が慌ただしく、生まれ育った屋敷を後にした。


 相模屋でも、出入り先の数軒の屋敷が無禄移住を決めた。


 駿府へ向かうお得意様に、盆の掛け取りはしなかった。


 代わりに、日持ちのする干し魚や佃煮などの(せん)(べつ)を持って、別れの挨拶に出向いた。すると、御用人が当主の言葉を伝えてくる。


「最後まで心遣いをありがとう。彼の地では江戸の味が食べられないことが、何よりも辛いぞ」


 どの屋敷の御膳所でも涙の別れが続いたが、暇を出される奉公人は、暗い顔をしていた。


 八月九日、五ツ(午前七時前)、百人の供を従えた家達が出立した。


 早朝から多くの江戸の人びとが街道筋に人垣を作り、見送りに出た。魚河岸衆も日本橋の袂に並んだ。


 脚がすっかり弱った名主の松村源六も、床から這い出して、武兵衛の傍らに立った。


 もう意地は張らずに、武兵衛が贈った杖をしっかり突いている。


「……生きている内に、徳川の御当主様の御移封を見送るなどと。考えもしなかったのう」


 源六の言葉が切なくて、武兵衛は自然と、涙が溢れてきた。


 ――源六さんが不憫でならねえ。地震や疫病だけならまだしも、(つい)には徳川の瓦解だ。天は何処(どこ)まで、この真面目な名主を(いじ)めれば、気が済むんだ……。


 家達の行列がやって来た。幼い当主は輿に乗せられていた。


 小藩の領主となった徳川家当主の行列にしては少ないはずだったが、その後ろに、江戸府内の全ての火消衆が、それぞれの袢纏と装束を着て、纏を持ち、行列に加わっていた。


 新門辰五郎の粋な計らいだったと、後に聞くことになる。


「すげえ行列だ。上野宮様の行列には江戸中の住職が見送りに加わったが、火消衆はそれぞれの組が数百人いる。それが一番組から、いろは組まで揃っているなんて。壮観とはこういうことを言うんだな」


 延々と続いた家達の行列が日本橋を渡りきり、姿が見えなくなると、江戸が終わったように感じた。


「俺は大切なものを、三度も失ったってえのかよ……」


 あまりの衝撃に涙も出ない。武兵衛は少しの間、そこから動けなかった。


 すると、武兵衛の袖を(しき)りに引く者がいた。


 (うる)せえな、と眉間に皺を寄せて睨み付けると、小肥りの唐辛子売りが、(すが)る眸で見上げてくる。


「庄次郎でござんすよ、武兵衛の旦那ァ。……()けておくんなさい。後生ですから」


 彰義隊士の土肥庄次郎であった。


 武兵衛は慌てずに、まずは源六を、佐兵衛に託した。


 そのまま、見送りの列から離れると、唐辛子売りを相模屋へ連れて行った。


 店には伊左衛門がいたが、目配せして、奥の離れへと、庄次郎を通した。


 離れは駒蔵とお香の部屋だったが、お香がお須磨の部屋に移ったので、今では彰義隊士を匿うための部屋となっていた。


 部屋に座り込むと、庄次郎は脚を投げ出した。


「ハァ、助かった。御行列の見送りに紛れたら、武兵衛さんと会える気がして……」


 武兵衛が冷や酒を茶碗に入れて差し出すと、喉が渇いていたのか、()ぐに呑み干した。


「よく江戸に入れましたねえ。天野八郎様だって捕まったほどですからね。でも(キン)(キレ)の奴等、魚河岸が()えらしくって、家探(やさが)しに来ねえんですよ。どうか安心して下せえ」


「弟と叔父の行方が知れたので、江戸へ戻った。二人は振武(しんぶ)(ぐん)に加わった後、落ち延びて品川沖の御軍艦に身を寄せているらしい。八十三郎に会いたいんだ。……頼むぜ、釜次郎さんへ繋いでくれ」


「榎本様とお知り合いなんですかい」


(かん)(どう)されていた時分、俺は(はぎ)()(とら)(はち)と名乗り、長崎の(まる)(やま)花街で幇間(おとこげいしや)をやっていた。長崎には製鉄所(造船所)があるから、釜次郎さんは軍艦の調整によく訪れてましてね」


「丸山花街の縁ってやつか。分かりました、手紙を書いて下せえ。相模屋の船で届けてまいりましょう」


 庄次郎の手紙を受け取ると、相模屋の手代が猪牙舟で、品川沖の徳川の軍艦へ向かった。


 昼過ぎには、手代が戻ってきた。


 (あい)(にく)のことながら、榎本釜次郎は留守であった。家達の護衛のため、軍艦開陽ほか数隻と共に、神奈川沖へ出張っていた。十五日の夜以降に品川へ戻る、との返事であった。


「六日ばかし、相模屋でゆっくりして下せえ。もう何人も彰義隊の皆さんを匿いましたが、うちの袢纏を着れば、湯屋だって行けますぜ」


 庄次郎の逃避行は過酷なものだったらしく、武兵衛の言葉に、躰の強張(こわば)りを緩めた。


「官軍の彰義隊狩りは、なかなか過酷であった。だが、旅芸人の手形は、俺にぴったりで、大いに助かった。……この度も、世話になる。やっと、脚を伸ばして寝られるよ」


 庄次郎はそれから三日間、ほぼ眠り続けた。


 四日目に、湯屋で(あか)を落とすと、陽気さを取り戻した。


 離れでぽん太に()(うた)を教えたり、踊ったりと、幇間で培った技を披露した。


「ごう、りー、ちぇ、はま、かい」

 

 長崎に長くいただけあって、唐土から伝来し、当地で有名な(ほん)(けん)なる御座敷遊びをぽん太に教え始めた。これには流石(さすが)の武兵衛も困り果てて、止めに入った。


「江戸の(とう)(はち)(けん)も知らねえ(わつぱ)に、本場の遊びを教えねえで下せえよ、旦那ァ」


 庄次郎は(ひよつ)(とこ)のような表情をして、ぽん太を笑わせる。


 思えば、ぽん太がこんなに屈託なく笑っている姿を見るのは久方振りのことだ。武兵衛が礼を言おうとすると、庄次郎は真顔になった。


「ぽん太ちゃんが大きくなった頃は、どのような天下になっているのやら……」 


 十五日の夜四ツ(午後十時過ぎ)、品川から、榎本釜次郎本人がやって来た。


 前に会った時よりも、口髭が整い、立派になっている。


 離れから庄次郎が飛んできた。二人は手を取り、涙を浮かべて、旧交を温め合った。


「懐かしいな、虎八。……八十三郎殿と庄五郎殿は確かに、我等の許に身を寄せている。……俺は、もう間もなく、仙台、蝦夷へ向かう。よかったら共に行かねえかい」


 庄次郎は釜次郎の手を握ったまま「行きます」と直ぐに応えた。


 釜次郎は力強く頷いた。横で聞いていた武兵衛は「蝦夷へ行くのですかえ」と尋ねた。


「四百万石が七十万石にされちまったんだ。あぶれた直参と共に、蝦夷を開拓する。永井殿も一緒だ。露西亜(おろしあ)が狙う蝦夷を徳川海軍が守護すると談判して、露西亜(おろしあ)が狙う蝦夷を徳川海軍が守護すると談判して、朝廷に認めてもらうつもりだ」


「……御前様も。閉門を突破されて、蝦夷へ行かれるのですか。なんと勇ましい……」

 

 釜次郎はコートのポケットから紙を出した。


「魚河岸衆に最後の頼みだ。各軍艦に積む干し魚や米、野菜(せんざい)(もの)を書き出した。夜陰に紛れて、(おか)から見つからねえよう、十九日の朝までに船で運んでくれねえか。前払いを……」


 と金銀がたっぷり入った袋を取り出した。武兵衛は首を横に振った。


「最後と仰るのなら、どうか、餞別として、用意させて下さいまし」


「いや、大量に注文するのだから。流石に、そこまで甘える訳には行かねえよ。それに早起きの魚河岸衆を夜に働かせるんだ。受け取らねえのなら、この話はなしだ」


 武兵衛は、仕方なしに受け取った。


「承知いたしやした。……きっちりと最後の役目を果たさせていただきます」


「江戸の苦境も顧みず、徳川家臣の生計(たつき)にばかり(きゆう)(きゆう)としている我等を、(なじ)りもせずに暖かく送り出してくれる。それだけでも、嬉しいのだ」


 釜次郎の声は涙で濡れていた。武兵衛も湿っぽくなりそうだったが、(こら)えた。


「今回の北行は蝦夷へ行くためだけじゃねえ。仙台様や会津様、()いては宮様の盟約の力になるために参るんでござんすよね。だったら、海軍の脱走は御神慮に沿った義挙ですぜ」


「確かに、武兵衛の申す通りだ。仙台へ向かうのが先だからな。江戸の人びとがどれほど、奥州からの押し戻しを冀望しているか、存じている。海軍が一助となれば良いのだがな」


 コートの袖で涙を拭うと、外から合図の口笛がする。官兵の見廻りを知らせていた。


「庄次郎殿、このまま一緒に参ろう。()いて来てくれ」


「へえ、荷物を取りに行って参ります」と慌てて、離れへ走って行った。


 ふと、天野八郎の言葉が思い出された。この人なら知っているだろう。


「あの、フレイヘイドってえのは、どういう意味なのですかね」


「そうさな、フレイヘイドは()(らん)()語だ。英語ではリバティとかフリーダムと申す。和語だと『自由』に近い――かな。身分や政府に縛られずに、己の思うが(まま)に生きる……という意味だ」


「身分や政府に縛られず、思うがまま……」


 武兵衛は言葉の意味を噛みしめた。


 外から合図の口笛がする。官兵の見廻りを知らせていた。


「……庄次郎さんは、まだ支度が終わらないのか。そろそろ行かねば」


 帰ってしまう前に、武兵衛は思い切って、釜次郎に尋ねてみた。


「御軍艦は仙台と行き来しているとか。彰義隊頭の小田井蔵太様の消息をご存じでは」


「直接は会っておらぬ。だが、蔵太殿は盟約を保たせようとして、奥州中を駆け巡り、脱盟しようとする御家を説得して廻っている、と聞いた。怪我もなく健勝のようだ」


 武兵衛は三月(みつき)抱えていた胸の重石が取れて、何やら、人心地がついたような気がした。


「そうですかえ。今も報恩のために駆け廻って――。どこまでも(しん)(ばしら)が揺るがねえ御方だ」


「総代は、蔵太殿と仲が良いようですな」


「ええ、俺の(ダチ)でござんすから」


そこへ、庄次郎が荷物を持って、戻って来た。


「お待たせしました。武兵衛さん、お世話にまりました。……参りましょう、釜さん」


「〈討ち入り武兵衛〉さんと朋友だなんて、つくづく、蔵太殿が羨ましいな。……では、総代。頼みましたよ」


 釜次郎は、武兵衛に、丁寧に頭を下げた。


 迎えの船は、相模屋の平田船に横着けされていた。


 月明かりの下、寝静まった魚市場で、釜次郎と庄次郎を見送りながら、武兵衛は呟いた

「海軍さんもいなくなったら、ますます江戸は賊徒の思いのままじゃねえか……」


 薩摩屋敷への討ち入りから、走り続けてきたこの八月(やつき)は、あっという間であった。


 あまりに急な世の中の変わりように、戸惑ってきたが、やっと手掛かりを掴んだ。


「……だったら、俺っちも、フレイヘイドになって、生きりゃ良いんじゃねえのかえ」


 だが、俺なりの思うが(まま)ってのは、どういう形だろう。


 やはり総代としての――矜持か。


 蔵太や勝安房守を見ていて、上に立つ者の覚悟は、大いに学んだ。


 その時、武兵衛は、佐兵衛が心血を注いだ、江戸湊の大きな常夜灯の明かりを思い浮かべた。


 黒闇の中で、昨日も、明日も、舟人を迷わず、行く先へ導いている。


 ――嗚呼、あの眩しい灯り。今の俺になら、あの灯のようになれるかもしれねえ……。



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