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其之二


 七月十三日、本所の石原文次郎屋敷に潜んでいた天野八郎が逮捕され、辰ノ口にある牢獄へと繋がれた。


十七日には、天皇が(みことのり)して、(ちん)(だい)及び関八州の(ちん)(しよう)を廃し、(ちん)(しよう)()を置き、駿河以東十三国を、(かん)せしむこととした。官軍方による、江戸を含む関東支配が、着々と進んでいた。


 また、江戸を以て東京と為し、江戸府の名称を改めて東京府と定めた。


 江戸の者は(とう)(けい)と読んだ。


 漢音では京を「けい」と読む。漢学の中心である昌平坂学問所があった江戸ならでは、である。上方では国学が盛んであり、呉音で「きょう」と読む。


 上方臭さを嫌う江戸の人びとは漢音を好み、(かたく)なに、(とう)(きよう)とは読まなかった。


 鎮将府を悩ませていたのは、それだけではない。東京に暮らす、旧江戸の人びとが政府を示す「朝廷」という言葉や存在すら知らず、周知もなかなか進まなかった。


「朝廷って言われても有難味(ありがたみ)がねえ。全く、訳の分からねえ言葉ばかり造りやがって」


 と高座で噺家がちょいと()とし(ばなし)(まくら)にすれば、寄席中が大笑いになった。

 

 七月十九日、白石城の奥羽越公議府は、官軍と戦っている奥羽盟約の諸兵に向けて、

(につ)(こう)(のや)(おう)()()(どう)()()(こく)(ぶん)」を発した。


 この月の末に、甚兵衛は友人を介して、布告文の写しを手に入れた。


 義勇軍の(かなめ)であった、武兵衛、佐兵衛が御納屋に集められた。


 御納屋は、民政裁判所から「徳川家が駿府へ移ったら、納魚も終わるので解散せよ」との(たつし)があって以来、役人が来なくなった。今では、肴問屋衆の魚会所となっている。


「書翰の内容が怪しいのだ。……本当に皇帝となったか、あの噂は嘘かもしれない」


 甚兵衛は書翰を示して、広げた。


「抜粋して読む――『万民の塗炭に苦しむは、(しん)(きよう)薩賊(さつぞく)の為す所なれば、(この)賊を討滅し、国家太平万民安楽に帰するは、(すなわち)仏法の(ほん)()、宮様の御真意なり』……日光宮と称したり、仏法だと言うからには、まだ(げん)(ぞく)して(せん)()していないことを示している」


 佐兵衛が「東武皇帝になっていないのか」とぼやくと、甚兵衛は大きく息を漏らした。


「戦状が難しくなったから、宮様は心変わりされたのだ。だったら、江戸での彰義隊の戦いは何だったんだ……。古今の例に漏れず、()(ごと)なき御方ってえのは、飛んだ臆病者だ。万が一の情勢のために、もう保身に走っていやがる」


 本気で怒ると口が悪くなる。更に甚兵衛は布告文の写しの紙を放り投げた。


「上野宮が帝に(せん)()しなければ、奥州盟約の大義名分が消えてしまうというのに、それを拒んでいるとしか思えないッ」


 佐兵衛は黙って拾い上げると、眼鏡を掛けて読み直す。武兵衛は言葉を待っていた。


「宮様は東叡山に戻る、とも書いてあるぞ。僧体のままでいることは、決まったな……」


「佐兵衛さん、それじゃ……(キン)(キレ)を倒しに、奥州軍は江戸へ来ねえってことか」


「噂でしかないが。荘内以外は、官軍に押されていると聞いたよ、武兵衛さん」


「嘘だろ、おい。……俺っちの江戸は、もう取り戻せねえってえのかよ」


 たった一つの希望が消えようとしていた。


 目の前が暗くなり、世の中が回転する。武兵衛は生まれて初めて、眩暈(めまい)を経験した。


眼鏡を外すと、佐兵衛は深く息を吐いた。


「どうやら、天下を(わたくし)した薩長官軍の奴等が(おおやけ)の面を被って、日本を治めていく流れが固まってきたようだな。……だったら、魚河岸衆はどう生きて行こうかねえ」


 武兵衛は胸糞が悪くて、煙管に煙草を詰める手すら、滑った。


「置きやがれってんだ。徳川様によって生まれた日本橋魚市場だ。()()(さま)で生まれた新しい主人(あるじ)に尾っぽなんざ振れねえや。俺っちにも(きよう)()ってえもんがあるんだ」


「そりゃ、勿論だとも。でも、大小名屋敷への出入りの大商いや彰義隊への納魚が消えた分を官軍抜きにしてどう取り返すか。魚河岸だって、喰って行かねばならないのだ。そろそろ、皆でしっかりと話し合ったほうがいい。……そうだろ、総代」


 前総代の佐兵衛は泰然としていた。今の総代たる俺こそ、()(よう)に有らねばならねえのに。


「まだ、決まった訳じゃねえ。もう少し様子をみねえとな」


 座っていることすら、辛く感じた。武兵衛はふらりと立ち上がると、御納屋の外へ出た。


 油蝉が御納屋の近くで盛んに鳴いていた。七月は雨が多く、二十日には大水まで出た。


「今年は梅雨も長かったが、その後も、雨ばっかし降りやがって……」


 雨が止んで、御天道様が出れば、まだまだ蒸し暑い。武兵衛は青い空を見上げた。


「江戸はこのまま(とう)(けい)になっちまうのか。昨年の今頃には、想像もしなかった世の中が、生まれて、俺っちは、錦裂に(こうべ)を垂れて、生きて行けって。……そりゃあまりに(むご)いぜ」


――蔵太様、いったい、何処にいなさるんだ。大軍と一緒に江戸に戻ってきて、下せえよ。せめて、とっ捕まっちまった、天野様を救うだけでも、いいから……。


 蝉の声より、風鈴の涼しい音が欲しくなる、慶応四年の秋の始まりであった。

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